特定秘密保護法案と国家の超権力化
- 2013年 11月 1日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
季節おくれの台風のもたらす雨が欝屈した気分にしているが、さらにもう一つ政治的に欝屈した気持ちにさせられそうな法案が上程されようとしている。10月25日に閣議決定した特定秘密保護法案である。
この法案の是非についてはメディアでも報じられているし、大体のところは知られていると思えるので、詳細は論じない。この法案は国家機密を強化するともので、直接にはアメリカからの要請で進められてきたことは大方の承知のことである。オバマ政権が誕生する少し前にアメリカに行って、反戦活動家などと話したことがある。彼らは一様に、アメリカでの国家権力の超権力化が進んでいること、それに対する息苦しさを口にしていた。反テロ戦争の名目で自由や基本的人権の剥奪や抑圧が進んでいて鬱陶しいのだと語っていた。自由と民主主義の国という自尊心も強く、その建前の強く存在しているアメリカの中で、権力の超権力化(昔風にいえばファシズム化ということになる)が進んでいたのだ。当時も安倍政権だったのだが、いずれこれは日本にも及んでくるのだと思えた。アメリカの超権力化はオバマ政権下でも進行しており、各国の首脳等に対する盗聴騒ぎなどはそのよい例である。最近のアメリカの姿である。
アフガニスタンーイラクと続いたアメリカの戦争の背後では国家権力の超権力化が進んできたのであるが、今度は集団自衛権の行使で日米同盟の深化の名による地域の戦争への参加を目論む安倍政権がこのアメリカの国家権力の超権力化を真似ることは不可避である。要請というよりは模倣というのが正確かもしれないが、それが法案の背景である。ここにはもう一つ日本の国家の歴史的な事情もある。実質は官僚の支配強化として出てくる国家権力の超権力化であるが、それがこうした法として現れるのだ。法は憲法も含めて共同体の運営のルール(規範)である。このルールは近代社会以前では権力の共同体の統治の装置(道具)であった。これが民衆の意志としてあり、権力を縛ることに転換するのは近代においてだ。法が権利としてあり、憲法の精神が共同性として現れたのだ。日本は法も憲法も外観上は近代化したが、実態はそれが支配のための統治の装置(道具)であるという要素を強く残してきた。日本ではその転換が革命を経なかったが故に、近代以前の法の概念が強く残ってきたのである。明治の大逆事件での法のあり方、治安維持法などはよく知られているが、権力の国民支配の強化と絶えず結びく。僕らはこの点を留意しなければならぬ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion4625:131101〕
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