死刑廃止論へのプレリュード (14)
- 2013年 11月 7日
- 交流の広場
- 山端伸英
76. 特に日本のメディアで繰り返される死刑の現代的なサポート思想というのはさまざまな言葉で表現されている。それらは、基本的には犯罪者への配慮に根ざすものではなく、日本の社会体制への無批判や支持に根ざしている。左翼の日本人たちもまた、自分の子供が世俗的にエリートたるを夢見て生きている。その競争社会的脈絡の中でも多元主義は発生するのだが、左翼的な論理での、多元化を踏まえた組織化は難しかった。左翼同士での組織化は日本の左翼にとって危険な難関であったし、今でもそうであり、今や左翼そのものが反省を失い、少数派としての現在を体制と共に生きている。同時に、「総括=死刑」という閉鎖的組織化の帰結は実は現在でも日本左翼自身の体質に含まれている。つまり、現世と理想社会とは左翼にとっても別物なのであり、日本の左翼は死刑廃止の旗手であったことは現在まで一度もない。
このことはもちろん社会体制のイデオロギーの貴重な発信地である大学社会にも同じことが言える。競争社会の論理の上に築かれた彼らの閉鎖的組織や意識から醸成される世界観は学問的コードを権威化するのに役立っているが、それも実際のところ競争社会の各ブロックにおける閉鎖性に留まっている。一般に彼らの犯罪に対するいかなるイデオロギーも、現在では日本的社会体制への無批判を再生産している。それは大学社会や学界そのものが競争社会と出世主義を問い直すことなく閉鎖的に安住しているからである。
日本のネット上の発言について、いわゆる「ネトウヨ」たるオカシな連中に絡まれることがある。彼らは「君が代」や「自民党」に味方するのだが、何かおかしい。彼らと肉体的に接近する機会がないのだが、きれいごとを並べる輩に対する生理的な嫌悪があるのは確かだろう。
僕は「戦没学徒」ではなく全くの「無名戦士」の子供であり、甥なのだが彼ら無名戦士を称える知的な啓発力が、日本の戦後の知的努力から伺うことができないのは明らかなことだ。そういう意味では、勝手なファシズム批判は存在しても、ファシズムを鎮める努力は、戦後の知識社会の中からは生まれてこなかった。「声なき声」を味方と担ぎ上げようとした岸信介に、小林トミが「声なき声」の実際を運動として表現したこと、それを結局は大学知識人たちが加担したフリをしながら遠ざかっていったことなどを思い返せばよかろう。
生きることは、出世することではない。しかし、社会を前にして、彼には疎外の問題が付きまとうかもしれない。彼は彼であることを主張しようとして出世するが、出世できる機会と人徳に乏しいと利用できるものは何でも利用し始める。その資源のないものもいる。この間、資源を活用して体制の一部を形成する勢力にとって「死刑」はひとつの安定を約束するシステムとして、日本人のかなりの部分に「必要」と感受されるにいたっている。
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