遺訓統治の虚実:金正恩≠金日成
- 2013年 12月 19日
- 時代をみる
- 北朝鮮の政治状況森 善宣
はじめに
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)で去る12月12日、張成澤に特別軍事裁判を通じて死刑判決が下り、それが当日に執行されたという報道は、世界中を驚かせたと言って過言ではない。確かに彼に対する粛清は、昨年末に脱北して韓国へ亡命した朝鮮労働党(労働党)高位幹部の一人が予言していたように、ある程度は北朝鮮研究者にとって予測できた出来事であった。この幹部は、昨年10月から開始された北朝鮮の経済改革、特に農業セクターの改革が成功すれば現最高指導者と目される金正恩の功績になるが、失敗する場合は張成澤に責任を転嫁して粛清するはずだと語っている(共同研究者の取材記事による)。
とは言え、父親である金正日の急逝以後、金正恩がその最高権力を承継するところに貢献した彼の叔父に当たる人物を会議場から連行する場面まで示し、判決後ただちに死刑にするなどという劇的でも残虐な粛清は、とうてい想像できない結末であった。その衝撃の大きさと広さに比例して、既に国内外で多種多様な数々の解説、論評、今後の見通し等が出されている。しかし、北朝鮮の1950~60年代の粛清史と比較して事態を眺めた記事は、筆者が知る限り少ないだけでなく、事態の本質を理解して書かれているとは考えにくい。
そこで、ここでは事態の本質を判決文から読み解いて後、金正恩の祖父で北朝鮮に独裁政権を打ち立てた金日成による粛清史を概観し、そこから今の時点で張成澤を粛清しなければならなかった理由と目的を考察してみたい。そして、今後の北朝鮮情勢に関して、とりわけ中国との関係を中心に、自説を展開してみよう。以下、全て敬称は省略し、引用者の匿名が必要な場合は出典の文献名だけを記す。
Ⅰ.判決文に事態の本質を読み解く
北朝鮮から公開された判決文は、朝鮮中央通信の報道により知ることができる(電子版『ハンギョレ』2013年12月13日、邦訳は筆者)。この判決文を注意深く読むと、張成澤の処刑に至る背景から北朝鮮の内部事情だけでなく、この粛清劇の本質まで解き明かすことができる。
まず、国内では政治的に「犬にも劣る醜悪な人間のクズ」と例えられた張成澤は、金正恩の「領導の継承問題を陰に陽に妨害する永久に容赦できない大逆罪」を犯したのみならず「不純異色分子どもを巧妙な方法で党中央委員会の部署と傘下機関に引き入れた」という。彼は「党の唯一的領導を拒否する宗派的行動」を1980年代から行って「追放された者どもを体系的に党中央委員会第1副部長」にまで引き上げ、「その上に神聖不可侵の存在として君臨」して「極度の幻想と偶像化」を作り出した。
次に、国内の経済において張成澤は、「内閣総理の地位に上り座ることを夢見つつ、奴のいた部署が国の重要経済部門を全て掌握し、内閣を無力化することにより、国の経済と人民生活を収拾できない破局に追いやろうと画策した」し、「内閣が経済司令部としての機能と役割を上手く出来ないようにした」という。このように彼が「職権を悪用」した結果、「平壌市建設を故意に妨害」することにもなったし、2009年に「数千億円の我が貨幣を乱発して甚だしい経済的混乱が起こるようにし、民心を揺るがすように背後操縦した張本人も正に張成澤」なのであった。
第三に、対外的に張成澤が行ったのは、「石炭をはじめとした貴重な地下資源をデタメラに売り捌くようにし、腹心が大悪漢どもに騙されて多くの借金を背負うように仕向けて、去る5月その借金を返すと言いながら羅津経済貿易地帯の土地を50年間の期限で外国に売り渡す売国行為も躊躇しなかった」という。また、彼は2009年から「汚い写真資料を腹心の手下どもに流布させて資本主義のチャルメラ風が我が内部に入って来るように先導」したし、「外国の賭博場の出入りまでした事実」もあると指摘された。
この張成澤が審理過程で述べたところによると、「軍隊と人民が現在、国の経済実態と人民生活が破局的に変わり果てるにも関わらず、現政権が何の対策も立てられないという不満を抱くようにしようと試図した」。そして「一定の時期になって経済が完全に停滞し、国家が崩壊の直前に至れば、私がいた部署と全経済機関を内閣に集中して、私が総理をしようと思った。私が総理になった後には、今までいろいろな名目で確保した莫大な資金で、ある程度生活問題を解決してやれば人民と軍隊は私の万歳を叫ぶだろうし、政変は順調に成功するであろうと打算した」そうである(全て太字は筆者)。
判決文は、これを「待ちの戦略」と名付けている。しかし、力説するのは「歳月が流れて世代が十回、百回代わっても変わることも変えることもできないのが白頭の血統である」。そして、判決文は最後に、こう結ぶのである。「我が党と国家、軍隊と人民は、ただ金日成、金正日、金正恩同志の他には、その誰も知らない」と。
この判決文から分かるのは、少なくとも次の3点である。ひとつは、張成澤の罪が金正恩の「三大世襲」と関係するものとされている点である。国内政治の罪を逆に読めば、北朝鮮首脳部は「唯一的領導」、つまり金正恩の独裁体制を望んでいることは明らかである。
ふたつには、内閣が「経済司令部」として働こうとしたのに、張成澤のせいで上手く行かなかったという点である。これも、いわゆる「先軍政治」で中心になった国防委員会ではなく、今や内閣を経済改革の中心に据えたいという北朝鮮の本音がよく透けて見えるところである。簡単に言えば、昨年10月からの経済改革、特に農業セクターの改革は、成功しなかったのである。
三つに、とりわけ問題なのは、羅津・先鋒を舞台とする北朝鮮の中国資本誘致は、この判決文を読む限り失敗した点である。「資本主義のチャルメラ風」などという表現は、余りにも露骨な中国批判と受け取る外ない。実際に中国は、既に同地帯に相当な資本投下を行っており、それを主導したのが張成澤だとすれば、極めて中国と太いパイプを持つ彼の処刑を快く思うはずはないのである。
結局のところ、この判決文が自認するところは、張成澤が「国の経済実態と人民生活が破局的に変わり果てる」ことを狙うことができたように、いわゆる「強盛大国」などという一時は盛んに喧伝されていたスローガンとは裏腹に、北朝鮮の経済は現在も、極めて危ういところを漂っている事実であろう。そして、「私に万歳を叫ぶ」代わりに今は、金正恩に忠誠を尽くしている「偶像化」進行の現状を、この判決文は端無くも吐露している。
事態の本質は、このように明確である。張成澤の罪状が事実かどうかは分からないが、判決文は北朝鮮の現状を正直に伝えてくれている。これまで北朝鮮は、昨年の金正日急逝後、金正恩の指導下に経済建設と核開発はじめ軍事力強化を同時に図る「並進路線」を推し進めていると主張してきた。だが、この判決文は、その原因がどこにあるとしても、経済建設が上手く行かなかったと共に、金正恩による「個人独裁」に至る権力構造の確立も不充分にしか達成できなかったことを示している。
Ⅱ.1950~60年代の粛清とその特徴
この張成澤の粛清劇を金正恩の祖父である金日成による1950~60年代の粛清と比較して考え見たい。実は、筆者は今ちょうど同時期における金日成の個人独裁政権の確立過程を研究していて、今回の粛清劇との同異点がはっきりと目につくのである。
金日成の権力掌握過程は、北朝鮮のデマ宣伝もあって、巷で誤解されているような単純で容易な道のりではなかった。そもそも彼は、朝鮮戦争前には政府首班として朝鮮人民軍(人民軍)も含む政府こそ掌握していたものの、労働党の実権を掌握できずにいた。そのことが人民軍の南朝鮮地域への投入を通じた朝鮮統一の達成で、名実ともに実権を握ろうという野心となったと筆者は見る。実際に朝鮮戦争勃発後の北朝鮮資料を見ると、労働党の入党試験に「誰が党中央委員会委員長か」などという質問さえあり、当時は労働党の党首が一般には秘匿されていたのが分かる。党首脳部だけが党首を知っていたのである。
朝鮮開戦後に米軍はじめ国連軍が介入し、1950年9月の仁川上陸作戦が成功して朝鮮人民軍が総崩れになり、北朝鮮は体制崩壊の危機に直面した。これを助けたのが毛沢東で、彼は中国人民志願軍(志願軍)という形で援軍を送り、国連軍を北緯38度線の辺りまで押し返すのに成功した。だが、ソ連のスターリン~毛沢東~彭徳懐というラインで戦争が指揮される中、中朝連合司令部が組織されて人民軍が志願軍の傘下に入ると、その人民軍最高司令官という肩書とは関係なく、金日成は事実上すべて権限を喪失してしまった。
しかも、当時は副首相兼外相だった朴憲永が仁川上陸作戦後に人民軍の立て直しのため労働党総政治局長となって、人民軍を内部から統制できるようになると、金日成は戦争責任との関係で朴憲永と激しく争うようになった。ここから、金日成は停戦後を睨んで彼を粛清したのであり、この粛清による党内の権力バランスの変化を受けて、党首の地位を簒奪したのであろうと考えられる。この点は、米軍が戦争中に北朝鮮に派遣した米陸軍防諜部(Counter Intelligence Coup : CIC)の報告書が、1953年早期の党内闘争について言及する中で次のように言及していることでも分かる。「その時、朝鮮労働党の党首は、中国系列の最も卓越した構成員の金枓奉であった」(“Organization and Structure of the Korean Labor Party”,KOR-308-256 (5b),(9 May 1952), National Archives Ⅱ,Record Group 319, Box 52 “Korean Labor Party”.)。金枓奉は党首を譲った経緯からか、長く生存が許されて後、無残にも石で頭を割られて粛清されたと伝えられる。
こうして、志願軍が停戦後も残留する中、軍部の統制権を喪失した状態で、ともかくも金日成は労働党内で実権を掌握しようとした。この理由は、そもそも北朝鮮は北緯38度線の北部に進駐したソ連が作り出した体制であるところから、誕生のその時からソ連型の権力構造、すなわち党が軍部も含む政府を統制する党優位の指揮命令体系を持っていたからである。彼は、朴憲永はじめ「国内派」と言われた南朝鮮から来た共産勢力を粛清すると共に、労働党内に自分への個人崇拝を持ち込み、それを強化することで支配の正当性を補完しようとした。個人崇拝に伴う無誤謬性の信仰こそ、粛清に不可欠なのである。
ところが、スターリン死後の1956年2月、フルシチョフが行った「秘密報告」で個人崇拝が批判されたことを受けて、同年8月に「8月宗派事件」と言われる反金日成運動が起きた。この運動は「延安派」という中国共産党と連携する共産勢力による個人崇拝に反対する小規模な運動に過ぎなかったけれども、首謀者が全て中国へ亡命したこともあり、中ソ首脳部の関心事となった。
同年9月に当時のミコヤンと毛沢東が北京で会同した際、両者は北朝鮮を辛辣に批判、毛沢東に至っては次のように述べて、金日成を扱き下ろした。「たった一言の自分に反対する言葉も金日成は我慢できず、反対者は誰でも直ちに処刑する」(毛主席接見蘇共中央代表団談話記録」、北京、中南海頤年堂、1956年9月18日)。そして、毛沢東は引き続いて面談した北朝鮮政府訪中団長の崔庸健に「現在あなた方の人民生活も、やはり別に良くならず、人民は依然として非常に苦しい生活をしている」と指摘しつつ次のように喝破した。「党内問題と反革命問題を連結し、自分たちの同志に『反革命』、『反動』等の帽子を被せて、彼らを逮捕して殺した。これは非常に重大な誤りだ。(中略)あなた方の党内には、恐怖感が充満している」(「毛主席接見朝鮮代表団談話記録」、北京、中南海頤年堂、1956年9月18日)。
そこで、毛沢東とミコヤンの両者は、金日成に事態の是正を求めるべく彭徳懐とミコヤンを中ソ両党の共同代表として訪朝団を組織して派遣、金日成から粛清対象だった党幹部の復党や処分停止を引き出した。だが、この復党や処分停止は実施されず、金日成も事態をウヤムヤにしたままお茶を濁すことで終わりになってしまった。ところが、時あたかもポーランドとハンガリーで起きた反ソ運動が、東欧訪問中に一部ながらそれを目撃した金日成を救い出すことになったのである。
金日成は、ハンガリーにソ連軍が介入する事態の展開を見て、悪化した中ソとの関係から、今度は自分が危ういと感じたものと推測される。当時のナジがワルシャワ条約機構から脱退すると述べつつ国際連合にソ連軍の撤退を訴えたのを見て、金日成は朝鮮問題を国連に提訴すると中ソに通告したのである。彼は、自国に駐留する志願軍が自分を除去するのを恐れて、事前に国連という保険を掛けておこうとしたのではないかと思われる。
もちろん、金日成を信頼していなかった毛沢東は、その動きに不快と疑念を禁じ得なかった。当時の在北京ソ連大使ユージンに語った毛沢東の言葉は、彼の心情を伝えて余りある。「北朝鮮は南朝鮮とすぐ隣り合っていて、米国が南朝鮮を通じて北朝鮮を瓦解させに来ることができる・・・・。そうであれば、われわれ志願軍は撤収するのかしないのか? フルシチョフは北朝鮮国内に個人崇拝があると批評したし、また、われわれ両国の代表団が北朝鮮に赴いて勧告したことがある。しかし、最も主要なのは、金日成が我ら数十万の志願軍の朝鮮駐留を好まず、我々を追い出したいと思っている、ということだ。ソ連軍がポーランドに留まるのは、ワルシャワ条約があるからだが、北朝鮮にはそれがない。彼らが要請したのは志願軍であり、もし彼らが要請しないと表明するならば、我々は何の理由があって駐留し続けるのか? とりわけ、もしも撤収準備について既に表示していたのならば、我々が駐留し続ける理由は更になくなってしまう・・・・・。朝鮮にあって金日成は合法政府であり、もし政府当局が客人の留まるのを望まず、かえって客を送り出したいならば、どうであろうか? 出て行かなくても留まる方法はないし、出て行っても北朝鮮は社会主義陣営から離脱しかねず、西側へ走るかチトーに変成するだろう。(中略)米国が撤収するしないに関わらず、我々が自らの志願軍を先に撤収させて、それによって彼らが西側へ倒れるのを阻止できるかも知れない・・・・・。」(「毛沢東と駐中国ソ連大使ユージンの会談記録」1956年11月30日)。
こうして毛沢東は、フルシチョフの同意を得て、志願軍を撤収させることで北朝鮮が西側へ寝返ることを防ごうとした。1958年2月に開始された志願軍の撤退は、同年10月に終了し、これにより重荷が取れた金日成に党内の粛清を更に進めさせた。そして、これと前後して開始された中ソ紛争のお蔭もあり、北朝鮮と中ソとの関係改善も実現することになったのである。金日成は事実上、1958年末に国内外の主要な障害を除去するのに成功し、翌年から本格的に日本との関係改善に乗り出して、在日朝鮮人の帰還事業を敢行する。弱小国の外交らしく、あちらと関係が悪ければ、こちらと関係を結ぼうという体制維持の論理からは、日朝国交正常化は一種の生命保険だったと考えられる。
ただし、中ソ紛争の余波の中、フルシチョフが上で引用した毛沢東とミコヤンの会談記録を金日成に示したため、当然に金日成は激怒して毛沢東を非難した(駐平壌ソ連大使プザノフ日記1960年6月16日、АВПРФ,60.06.28,SD20735,ф.0102,оп.16,д.7,л.1-15.)。もちろん、金日成に中国との関係を壊すことなど出来るはずもなかったが、そののち彼が長く中国を信用しなかったのは間違いない。息子である金正日が遺訓の中で中国を信用するなという趣旨の話を残したというのは、おそらく父親から苦い経験を聞かされていたのであろう。
以上のように金日成の場合、北朝鮮を取り巻く国際環境の中にあって、支援国だった中ソの思惑を逆手にとるような形で、国内の独裁政権の樹立を進めたと言える。彼にとって好都合だったのは、東西冷戦からデタントへの移行期において、自由主義陣営と社会主義陣営の間で対立と和解の両ベクトルで立ち回ることが可能だった点であった。つまり、直前まで戦っていた「米帝国主義」とは手を結ぶべくもなかったものの、彼は中ソから経済支援を受けつつも、彼らからの圧力を排除して、国内では個人崇拝を伴う個人独裁政権を確立、同時に旧宗主国であった日本と韓国が1965年に国交正常化を図るのに先立って、日朝の関係改善にも一定程度は成功したと言えよう。
この後の1960年代にも金日成は、党内で個人崇拝を伴う独裁政権の強化に努める中、実子に権力を世襲させる準備に着手する。この社会主義の父子世襲という世にも珍奇な過程については既に広く知られているので、ここでは繰り返す必要はないであろう。その特徴を一言で整理すると、個人独裁から「家族独裁」という歴史上に前例のない、形容矛盾でしか表現できない特異な体制が実際に出現したという点にある。そして、金正日が急逝した2012年12月17日、我々は世襲が新しい「家族独裁」を産み出すのかと予測したのである。しかしながら、事態は意外にも反対の方向へ向かっていったのだった。
Ⅲ.張成澤の粛清理由とその目的
今回の粛清劇は、誰がどう見ても家族の一員、詳しく言えば父親の妹の夫である張成澤を死刑にした意味において、「家族独裁」という枠組みを破壊する事件であった。実際に金正恩は、処刑後に何事もなかったように父親の1周忌行事に、夫人の李雪主と共に遺体のある太陽宮殿を訪問した。そして、1周忌記念行事を見ると、それほど大きな権力配置の変化は現れず、韓国メディアが指摘したとおり、叔母に当たる金慶煕は行事に姿を見せず、労働党総政治局長の崔龍海と内閣総理の朴奉珠という党と内閣のツートップで国政を運営させようという陣営のようである(『ハンギョレ』2013年12月17日)。
この解釈は、果たして筆者が朝鮮総連幹部から聞いた話と一致する。この匿名の幹部は、朝鮮総連中央の見解と断りつつ、比較的詳細に今回の事態を説明してくれた。彼の話は、大略して次のように要約できよう。すなわち、今回の事件では中央委員会政治局会議を開き、張成澤の前で朴奉珠、崔龍海など5名が討論を行った上、その結果を公開して大衆に問うた。その過程を経て、彼を裁判に掛けて処分したのであり、日本で報じるような手続きを省略したデタラメな粛清ではない。労働党内に「異色分子」は少なく、張成澤が処分された今、北朝鮮内部にトラブルはなくなり、「唯一指導」の下で体制は揺るぎないという。今は確実に党と内閣が主導する政治へと転換している。
その幹部は、判決文で見たように、鉄鉱石が格安で中国へ出されている事実を認めつつ、金正恩が指導したにも関わらず、張成澤の一派が恣意的に対外貿易を左右したと続けた。だが、今は党国際部長の金永日が労働党を、そして統一戦線部長の金養健は朝鮮総連も担当して、対日関係を間違いなく改善して出て来るであろうと推測した。金正恩も訪朝するどのような日本人とも会うと言明しているというのが、筆者には印象的な話であった(2013年12月16日に聴取、朝銀福岡3階会議場)。
韓国にしろ北朝鮮にしろ、さらには筆者の共同研究者にしろ、今回の事態を判決文で言うような「白頭の血統」などという、子ども騙しの独裁者の権力確立過程であるとは見ていない。逆に筆者は、金正恩が金正日の生前に展開し始めていた、既存の権力構造を変革させる試みが着実に進行していると解釈する。簡単にまとめると、それは金日成の時代に確立した軍部も含む政府に対する労働党の統制権を再び取り戻そうとする試みであり、金正日が余りにも「先軍政治」を通じて軍部に政治的な発言力と経済的な諸権益を割り当てた弊害を是正しようとする努力の一環なのである。それは、ある意味で金日成時代への回帰と言え、金正恩が登場以来、常に祖父の容貌然として大衆と親しく交わろうとしているところからも、この点を確認できるであろう
したがって、そこでは金正恩の個人独裁政権が確立していなければならないが、未だ充分に「家族独裁」から脱していない段階では、粛清の対象が大物であればある程、彼に対する処罰は甚だしく厳しいものとならざるを得なかったのである。その粛清劇によって自分に対する忠誠と服従を劇の観客に要求する外ないのは、ちょうど金日成が国内派、延安派などを処分していった血の粛清過程と同一である。そして、自分の持つ統治の正当性が不充分な間は、自己に対する個人崇拝を高めることを通じ、敵対勢力の処分に観客から批判が出ないように仕向けようとするわけである。
筆者が張成澤の粛清で強く感じるのは、父親の産み出した「家族独裁」の弊害除去への強い志向性である。その弊害とは、姻族を含む親族による政治関与であり、朝鮮政治史上では勢道政治と言われる前例があった。今回の事件は、これを一旦は完全に清算して、金正恩その人による個人独裁政権を確立したいという欲求の噴出であるように見てとれる。金正恩とすれば、自らが幼少期から面倒を見てもらった叔父や叔母が、成人してまで政権を運営する上で口出しされては邪魔であり、さすがに父親の妹は殺せないにしろ、その夫を殺すことで父親の弊害と手を切る意思を闡明したかったのではなかろうか。
金正恩は若く、まだ「四代世襲」に備えるには時間があるのだから、「家族独裁」を清算する中で、国内には強い権力意思を示すと共に、国外にも権力基盤が整ったことをアピールしたかったのであろう。とは言え、実際に彼が対外的に自らの権力確立を宣言できるほど広く北朝鮮住民の支持を得ているかは、甚だ疑問なしとしない。
また判決文の説明で言及したように、張成澤が中国と結んだ太いパイプを金正恩が否定できるのか、極めて危うい話と考えざるを得ない。中国とすれば、世代交代から僅か1年も経たないうちに、父親の遺訓を受けたにしろ息子が自国に歯向かってくれば、どうして良い気持ちがしようか。習近平の不快感は、張成澤の粛清後すぐに中ロで話し合いを持ったことからもうかがい知れるし、この脈絡で北京大学の共同研究者から筆者は、金正恩の訪中が大幅に遅延するであろうという予測を伝え聞いた。
合わせて中朝の交易に関しても、やっと丹東と新義州の間に新しい橋が出来て、来年から往来が本格化すると見なされていたのに、果たして中国が北朝鮮との交易を制限しないのか、鋭意これを注視する必要があろう。おそらく、このような見通しの上で北朝鮮は粛清の当日、韓国に開城工業団地の協議を提案、今度は韓国と接近しようとする姿勢を示した(『ハンギョレ』2013年12月13日)。こちらと思えば今度はこちら、という義経の八艘飛びでもないにしろ、北朝鮮としては体制の生き残りを掛けて必死の大立ち回りを覚悟しているものと思われる。
では、最後に金正恩政権の問題点から今後の北朝鮮情勢を展望してみたい。
Ⅳ.金正恩≠金日成
まず明確な政権の問題点は、曲がりなりにも金日成が抗日パルチザン闘争という統治の正当性根拠を帯びていたのに反して、金正恩には何もないということである。彼が金日成のように人民に近づき、親しく交わったとしても、それだけでは北朝鮮住民の腹は膨れない。金日成は毛沢東に、西側に寝返るかも知れないという疑惑を持たせた程、大国間の外交関係を上手に使う術を心得ていたし、それがある程度は奏功したと言えよう。しかし、父親も核開発で夥しい住民を飢餓に追いやるなど無能極まりない人物だったにしろ、孫の金正恩になると、ともかく闇雲に大国に歯向かうことしか知らないのである。
次に、金日成にあって金正恩にないのは、軍部からの強固な支持である。前述したとおり、金日成は朝鮮戦争前には人民軍を掌握していたし、戦争中に一時これを喪失したものの、志願軍の撤収後は再び軍部を統制できた。ところが金正恩は、金正日の急逝後に突然その人民軍最高司令官という輝かしい地位に上ったに過ぎず、いくら金日成軍事総合大学で砲兵術を学んだとしても、実態として軍部を掌握したとは見られない。彼が台頭過程で、ひっきりなしに地方の軍部隊を視察したのも、この軍部の掌握を狙ったものと見られる。
したがって、張成澤の処刑、しかも人民軍大将としての死刑執行は、人民軍の高位将校たちに今度は自分かという恐怖感を与えずにはいないはずである。毛沢東が指摘したように、今や軍部に「恐怖感が充満している」はずである。確かに軍部から権益を奪還しようという意図は理解できないこともないし、実態として党と内閣に権益が増していけば、経済改革が進行して北朝鮮住民の生活が改善されていくかも知れない。だが、果たして軍部が既得権益を素直に渡すのか、これからが金正恩政権の正念場であり、終わってみたら軍部のクーデタで縛り首だったという結末も決して予想できない話ではなかろう。
第三に、金日成時代にあって金正恩時代にないのは、米中対決の国際関係である。周知のとおり、中国は「新しい大国間関係(New G2)」というパラダイムで動こうとしており、米国の要求に応じて相当程度、北朝鮮に厳しい態度で臨んでいる。米国が6者協議の再開を求める中朝に、北朝鮮の非核化を示す具体的な行動を求め続けているのは、イランの核問題などで忙しい中にあって、今は中国に北朝鮮を料理させようという作戦だからに他ならない。
そうだとすれば、中国との関係悪化という犠牲を払ってまでも自らの政権確立を急いだツケが、金正恩に回ってくるのは時間の問題である。来年に向けて北朝鮮が更に核実験やミサイル発射などの挑発行為に出ると見られているのは、正にこの脈絡からであり、彼らに出来るのは軍事挑発の他はないから、この観測も実現する可能性が高い。しかしながら、その結果を予測するに、ますます中国の不興を買い、関係悪化のスパイラルへと落ち込んでいくだろうと言うのは、誰にも容易に言えるところである。
このように、北朝鮮を取り巻く情勢は、悪くこそなれ良くなることは無いと断言しても間違いなかろう。特に、判決文で張成澤が意図したという経済状況は、中国からの支援が滞れば明日にでも現実となりかねない恐れがあるので、今年いくらか好転したように見えても来年がどうなるのか予断は許さない。結局この情勢において、日本の動く機会が出て来るのである。最後に日朝関係に言及して、拙稿を締め括りたい。
おわりに
中朝関係に加え、南北朝鮮の関係も好転する兆しはないと言える。けだし、朴槿恵政権は米中の間にあって身動きできないのが実情であり、選挙公約のひとつだった「朝鮮半島信頼プロセス」も全く発動される見通しは立っていない。開城工業団地に関しては、正常な稼働状況にあり、ドイツ企業が参入の意思を示すなど国際化への道に進みつつあるが(『ハンギョレ』2013年12月15日)、本年2月の稼働中断前に復帰するには、まだ時間が掛かると見られる。現在の稼働率は入住企業により差異があるというが、だいたい平均して75%くらいだと現代峨山の親友は教えてくれた(電話取材、2013年12月10日)。
このように見ていくと、北朝鮮を相手にする国は、日本とロシアしかいない。だが、今のところロシアが北朝鮮に手を差し伸べる根本的な利害関係はなく、ガスパイプ・ラインはじめ投資の兆しもないから、残すところ日本が唯一の希望と言える。ちょうど長期政権になりそうな安倍政権が登場し、しかも来年4月の消費増税後に景気が失速、アベノミクスの魔術が消えると、彼は北朝鮮カードを切るのではないかと言われて久しい。北朝鮮は、拉致問題に落としどころさえ見つかれば、四面楚歌の中に喜んで安倍晋三を平壌に迎えるであろう。ひょっとすると、金正恩が訪日するなどという話になるかも知れない。
全く以て驚くべき話ながら、父親の朴正煕が国交正常化を果たしたのに、娘の朴槿恵が日本と対立する間に、まず祖父が狙い、次に父親が試みた日朝修交を孫の金正恩が果たすという珍事が見られるかも知れない。しかも、日本の当事者は、在日朝鮮人の帰還事業を推進した当時の岸信介総理の孫に当たる安倍晋三なのである。歴史は繰り返さないものの、事実は小説より奇なり、どのような展開になるか、朝鮮半島情勢は都知事選挙よりも確実に興味深いと言えよう。
なお、最後に来年の訪朝に向けて、福岡県日朝友好協会は動き出した。百聞は一見に如かず、一緒に訪朝したい方は、筆者のメール・アドレスにご連絡いただけると幸いである:morizen2@cc.saga-u.ac.jp
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