青山森人の東チモールだより 第257号(2014年2月2日)
- 2014年 2月 2日
- 評論・紹介・意見
- チモール青山森人
<予期できないからこその楽しみ>
まだ雨が少なめの東チモール
1月末、インドネシアのテレビニュースには、ジャカルタでの大雨による被害の様子が報道されていました。インドネシア近海の温度が高いことで、偏西風の蛇行を引き起こし日本の大寒波の原因となる…日本の天気予報士がよくする解説です。ジャカルタでの洪水と日本の大雪が密接な関係にあるとは正直なかなか実感できません。ここ東チモールの首都では1月の末まで穏やかな少雨の雨季となっています。たしか去年も雨季に入ってもなかなか雨が降らず、水不足のため灌漑ができず稲作に影響が出た地方がありました(『東チモールだより第236号』参照)。
蒸し蒸しと暑いのは暑いのですが、それでも日中の気温は31~33℃くらいで、最近の日本の夏の高温に比べればたいした数字ではありません。ここ2~3日、寝てから雨音を聴く夜が続いており、朝には道路は乾いています。日中に強い雨にはみまわれませんでした。すると2月1日、2月に入ったとたん、午後の昼下がりから夜にかけて、そして深夜になってもなお強い雨が断続的に降りつづきました。本格的な雨季がやってくる気配がします。大雨の被害が出ませんように……。
写真1
これから首都のこのような水無し川に激しい濁流が見られる時期に入るのであろう。
首都のタイベシから、市場の近くにて。2014年1月29日。ⒸAoyama Morito
写真2
タイベシの市場にて。市場内の地面はこのように乾いており、衛生的である。本格的な雨季になると、地面がぬかるみ、不衛生な状態になるのが心配だ。
2014年1月29日。ⒸAoyama Morito
再会とは記憶をふり絞ることなり
1月29日、いつものように街角の新聞売りから新聞を買い、その場に突っ立ってその新聞を読んでいると、『インデペンデンテ』紙にインドネシアのメルパチ航空(Merpati)がストライキに入ったという記事がありました。二ヶ月分の給料不払いに抗議して従業員はバリ島のデンパサール~東チモールのデリ(ディリ、Dili)間の便を全面運休にしたというのです。このストは2月いっぱい続く模様です。日本からまずバリ島に7時間ほどかけて飛び、そこからメルパチ航空に乗り換え、100分ほどの飛行時間をへて東チモールに着くという定番コースに慣れ親しんだ日本人にも少なからず影響がでることでしょう。メルパチ航空の運休中は他の航空会社の便を利用することになります。
わたしはこの新聞記事を読んだあと、東チモールへ飛ぶ他の航空会社の事務所があるションピングセンター「チモールプラザ」に行きました。他の便についてひと通りの情報を得たあと、せっかくここに来たのだから、インターネットをやっていくことにしました。このショッピングセンターでは無料でインターネットサービスを利用することができ、主に学生たちでしょう、常に多くの若者たちがたむろしています。
アイスクリーム(高い、何もかも値段が高い!ここ「チモールプラザ」では)を食べながらしばらくインターネットをし、そろそろ飽きたころ、一人の若い女性が近づいてきて、「わたしはあなたを知っていますよ」と親しく、しかも早口でまくしたてるように英語で話しかけてきました。話を聴くふりをしながら相手の顔を穴があくほどよく観察し、わたしは素早くこの人が誰かを思い出さなければなりません。
実はこうしたことはわたしにはよくあることなのです。戦争時代、山で遭ったゲリラ兵士たちや隠れ家で遭った地下活動の村人たちが、その後、自由になったこの国でわたしを見かけるとき、よくわたしに話しかけてくるのです。「あなたは誰ですか?」と失礼なことをいうまいとわたしは相手の顔を見て話に適当な相槌をうちながら、この人が誰なのかを思い出そうとするのです。昔はなんとかうまく記憶が蘇って、「久しぶりですねぇ、お元気ですか」と必至に思い出そうとした素振りを隠しつつ再会を喜ぶことがきたものですが、ここ数年、4~5年前からでしょうか、とうとう思い出すことができず、「すません、どちらさまでしょうか」と失礼な言葉をいわなければならないことが多くなりました。
これまで一番印象に残ったのは、3年ほど前のこと、ゲリラの英雄・故コニス=サンタナ司令官と一緒に滞在した隠れ家(その記録は拙著『東チモール 山の妖精とゲリラ』[1997年、社会評論社]に収録)の家族の子どもとの再会でした。その若者はわたしにゆっくり寄ってきて、「わたしはあなたを知っていますよ」と静かに語りかけるように話してきました。その隠れ家にいた人物であることは話からわかりましたが、誰であることはついに思い出せず、「失礼ですが、それであなたは誰でしょうか」ときかなくてはなりませんでした。「その家の息子ですよ」といわれ、わたしは懐かしさが込み上げました。「あ~、あのときの。すみません、顔を覚えていなくて」とわたしが申し訳なくいうと、「いえいえ、当然ですよ、わたしはあのときまだこんなに小さな子どもでしたから」と手のヒラを地面にかざすようにしていいました。あのときの子どもがバイクに乗って大学に通っているのですから、時の流れを強烈に意識しました。こうした再会は突然やってきます。そして突然で思いがけない再会は、誰でもそうでしょうが、人生の楽しみ・喜びのひとつです。
こんどの再会の相手は元祖女子アナ
さて、かくのように「あなたを知っていますよ」とわたしに話しかけてくるのはこれまでは男性だけでした。女性は初めてです。それに若いし、英語をペラペラと話しているし、一瞥して外国に住む東チモール人だなと思わせる服装、クッキリとした完璧な眉毛、このままテレビに出演して顔がアップにされるのを待つような手入れのゆきとどいた美形の顔立ち……この人の顔を見つめても余計なことばかりが頭に浮かぶ、誰なのかは思い出せない、どうやらゲリラや隠れ家とは違った筋の知り合いだろうとわたしはすぐに思考回路を切り換えましたがやっぱり思い出せません。顔から糸口を探るのをやめて、話を追うことにしました。するとこの女性とわたしには共通の知り合いがいて、この女性はその知り合いの近況をわたしに伝えようとしているのでした。そしてこの女性がその知り合いの娘の名付け親であることを話したとたん、わたしはこの女性が誰か、記憶の糸をつまんだ感触を得ました。その間、実際10~20秒だったでしょうが、10~20分の長さに感じられました。「あ~、あなたはTVTLのアナウンサーだった……」。「そうですよ」。こうしてこの女性が誰か、確認がとれたしだいです。
この女性はフランシスカさん、愛称・シスカさんです。TVTL(東チモール テレビ局)で国連統治時代からニュース番組のアナウンサーをしていた、いわば東チモール版・女子アナの元祖ともいえる人物です。東チモールのテレビ局によるニュース番組が初めて放映されたとき、ついに出た、歴史上初の東チモールによるニュース番組だと、わたしはかぶりつきで観たものでした。そして女性アナウンサーを初めてテレビで観たとき、当時の画一的な東チモール人女性の趣そのまま(ぼんやりした色彩の服装、五分わけの長い黒髪)、まったくの無表情でニュースを読むので、う~む、この人は若いのか中年なのか、年齢不詳だなという印象を抱いたものです。それがシスカさんでした。そして番組の回を重ねるうちに、シスカさんに表情が出るようになり、若いな、この人は、と思ったたことを覚えています。このことをいまシスカさんいうと、「それはカメラのせいですよ」と笑いますが、カメラのせいではなく、無表情のせいだったことは明らかです。始まったころのTVTLのアナウンサーには視聴者として随分と違和感や不自然さを覚えたものですが、こんにちアナウンサーは適度な豊かさのある表情でニュースを読み、なんの違和感も覚えません。これも東チモールの進歩・発展の一端といえます。東チモールのテレビ史において、間違いなくシスカさんは先駆者なのです。
独立後、シスカさんはハワイ大学に約4年間留学し、その後もオーストラリアのメルボルンの大学で2年間学び、帰国したばかりだといいます。この世代の、たぶん30代だと思いますが、東チモール人としてエリートともいえる高学歴を擁している女性として、今後の活躍が期待されます。
それにしてもわたしがシスカさんと遭ったのはシスカさんの名付けた赤ちゃんの誕生会で、東チモールが独立した2002年5月20日の10日後のこと、10年以上も前のことです。しかもそのときは二言三言の会話を交わしただけでした。それなのに「あなたのことを知っていますよ」と延々としゃべり続けそうな勢いで話しかけられるとは……、あっけにとられました。わたしは東チモール人のことをまったく理解していない、修行が足りない、と実感したしだいです。自分に話しかけてくる人物が誰なのか、今回は思い出すのに一味違った苦労をしました。お互い名乗りあって自己紹介をし、何者なのかを確認しあってから話を切り出すという習慣が東チモール人にあったら、こんな苦労はしなくてもすむのですが……。
~次号へ続く~
記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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