公民資本(civic capital) ―「信頼社会」への一考察
- 2014年 2月 8日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤 豊
英Economist誌(Jun 30th 2012)の“The real wealth of nations”と題する記事がきっかけで書いた拙稿『教育と国家資産』(2011年11月)の一部を引用する。
Economistの記事にご興味のある方は、http://www.economist.com/node/21557732を一読されたい。
記事によると、国連がケンブリッジ大学のSir Partha Dasguptaが監修した報告書にある二十カ国の貸借対照表を発表した。そこでは国の資産=富=Wealthを固定資本、人的資本、天然資源の三つの要素に分けている。この貸借対照表で各国の実質資産があきらかになったという。調査の結果、2008年の米国の総資産は118兆ドルでGDPの10倍だった。日本の総資産は55兆ドル、一人あたりの総資産は400,000ドルを超えていて、一人当たりでは米国を上回り、世界で最も豊な国だそうだ。
日本が最も豊な国であると言われても実感がないし、まるで財務屋のような視点で数値化して果たして国のレベルの豊かさを適正に評価し得るのかが気になる。気はしていたが、巷の一私人、どのような視点で考え説明を試みればいいのか取っ掛かりすら見つけられないでいた。Economistの記事から一年半、何気なく手にした本に気にしてきたことが理路整然と書かれているのを見つけた。高名な経済学者が科学として取り上げているのを読んで、気にしてきたこともまんざら意味のないことでもなかったのだという嬉しさがある。考えてきたことがきちんと用語として規定されていれば話を進めやすくなる。用語のおかげで、何年も折に触れては考えて、整理しきれないできたことを整理できるかもしれない。
昔ながらの言い方で言えば、「信なくば立たず」でしかないのだが、この言い方には信頼関係を個人と個人の関係に限定する響きがある。気にしてきたのは個人と個人に留まらず、社会としての、文化としての「信なくば立たず」をどう考えるかだった。新自由主義という奇形化した資本主義の成り立ちと今後どのような社会にし得るのか、しようとしなければならないのかを模索しているなかで読んだ本に思ってもみなかった記述があった。書名、著者他は下記の通り。
『A capitalism for the people』Luigi Zingales著、邦訳『人々のための資本主義-市場と自由を取り戻す』 若田部昌澄監修、翻訳
そこでは用語として「公民資本」が使われていた。初めて聞く用語。Webで調べたら、読んだ本の紹介としてアマゾンのサイトが一番上に出てきた。その下のリストを見ても、“公民”という言葉で引っかかってきたものばかりで、「公民資本」がない。用語があってよかったが、まだほとんど認知されていない用語なのかもしれない。寂しいような嬉しいような複雑な気がするが、喜んで使わして頂く。
その本のなかで「公民資本」がいかに社会の骨格形成に不可欠かについての調査研究結果と、著者の母国の逸話が紹介されている。翻訳を信頼しないわけではないが、興味半分でソースデータを探してみた。
“Civic Capital as the Missing Link”というPDFファイル(March2010)が下記サイトにあった。原書の著者の名前もあるし、内容からしてソースデータ、あるいはそれに近いものだろう。
http://www.kellogg.northwestern.edu/faculty/sapienza/htm/civic_cap.pdf
本には世界価値調査からのデータとして次のように書かれている。「一般に、たいていの人は信頼できるか、それとも人との取引には細心の注意を必要とすると思うか?」という問に対して、スウェーデンでは68%が信頼できると答え、ブラジルでは僅か9%だけだ。」これは、個人個人の特徴の総和ではなく、人々が歴史を通して培ってきた社会としての信頼感を示している。スウェーデンでは人は信頼し易く、ブラジルではし難い。信頼し易い人が騙され易いのではなく、信頼し易い社会の方がし難い方より騙されにくいという社会の特徴を示している。ではスウェーデンの人がブラジルに行ったらどうなるのか?ブラジルの人と同じように考えるか?その逆は?どちらのケースも出身社会の特徴が消えにくいという。誰もが出身社会の価値観や社会観-ここでは「公民資本」から容易には抜け出せない。移民社会に特徴的に見られることだが、新たな移民者が移民先の平均的な「公民資本」に順化するのに数世代を要するという。
注)
サイトで見つけた“Civic Capital as the Missing Link”には下記の記載がある。
<ページ23の記述>
Figure 2 shows how this measure varies across countries. There are three interesting features to notice: first, there is an enormous variability in the fraction of people that trust others; this ranges from as low as 3 percent in Brazil to as high as 67 percent in Denmark.
<ページ59の表>
Figure 2: Trust beliefs across countries
表は、人を信頼できると答えた人の割合をパーセントで国別に表している。
信頼できると答えた人の割合が一番多いのはデンマークで67%。次いでスウェーデンが66%、イランとノルウェーが65%で続く。気になるアジアを見ると、中国の55%に続いてインドネシアが52%、なんと日本は43%に過ぎない。オレオレ詐欺のせいでもないだろうが、半分以上の人が信頼できると思っていない。ちなみに米国はスペイン、アイルランドと同じ36%。最低は本にあるようにブラジル。ただし、9%ではなく3%。サイトで見つけた資料は2010年3月のものなので、古いデータかもしれない。それにしても、高々数年でブラジルが3%から9%になったとも思えない。まあ、数字に多少の違いはあるが本旨には影響しない。
「公民資本」は法律によって強制し得るものではなく、開かれた社会における初対面同士のその出会いのときにすでにある信頼の度合いを表している。初対面同士だから、それはお互いが出会うまでに作り上げきた自分と相手に対する歴史(過去)に培われた社会観あるいは先入観で、出会ってから共同して作り上げるものではない。人と協力することを常としてきた歴史のある社会からの人と、民族や人種、階層、支配/被支配の社会で紛争を常とした歴史の社会から出てきた人とでは「公民資本」のありようが違う。なかには「公民資本」と呼べるものが皆無に近い社会すらある。
「公民資本」が希薄あるいは脆弱な社会では、人間関係が血縁や地縁に限定されたところから一歩も出ない可能性がある。信用できるのは血縁だけ、同部族の人たちだけ、同宗派の人たちだけ。。。ここでは近代社会、あるいは産業社会が発展する土壌が生まれる可能性が低い。ましてや、かつて侵略者に協力して同族を抑圧した歴史のある分裂した社会では「公民資本」の育ちようがない。ちょっと違った見方をすると、血縁関係や地縁、同族関係に基づいた人間関係を重視する社会では「公民資本」が育ち難いとも言える。血縁や地縁に頼るから「公民資本」が育たない。「公民資本」が脆弱だから血縁や地縁に頼る。悪循環に陥って、いつまで経っても国民国家を形成し得ない。
資産=富=Wealthを固定資本、人的資本、天然資源の三つの要素に分けて、国の実質資産=豊さを貸借対照表で表わす努力は結構。しかし、まさか企業会計と同じ要素と評価方法で人間社会を評価しようとしているわけでもあるまいし、国家という以上に人間社会そのものの成り立ちようの基礎となる「公民資本」の視点を欠いた評価にどれほどの意味があるのか。
公民資本のないところに、どのような固定資本や人的資本、しばし豊富な天然資源があったとしても社会が成り立ち得ない。公民資本の視点でみれば多くの途上国が解決し得ないでいる問題の本質的な原因の説明がつきそうな気がする。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
〔opinion4743:140208〕
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