文学渉猟:啄木と北一輝/市川正一の不屈神話を暴く
- 2014年 2月 16日
- カルチャー
- 合澤清日本共産党石川啄木
*書評:下里正樹著『京子浪淘』(五月書房 1995)2060円
実に興味深い小説である。まずこの本の作者のキャリアからして興味をそそる。下里正樹は日本共産党の機関紙「赤旗」の敏腕記者だった。ところが、彼が青森県弘前市の文学同人誌「弘前民衆文学」に連載した記録小説「京子浪淘」の中に出てくる「市川正一聴取書」の真偽をめぐり作者と党の統制委員会が対立。連載は中断され、作者は「党による重大な規律違反嫌疑で査問」に掛けられた揚句、1994年に党を除名される。それでも下里はめげずに、ついにこの小説を完成させ、こういう形で出版にこぎつけたのである。
偖、かかる「いわくつき」の本書は小説の体裁をとった論文のようにも思える。そして、作者の真の狙いがどこにあるのかは、文学の体裁をとっているだけに多少の曖昧さを残してはいるが、明白である。
そこで、この書の全体構成をきわめて大雑把にトレースし、整理しながら追ってみたいと思う。
石川京子とは何者か
イントロ部に登場する「京子」(石川京子)をめぐって、クリエイトされた二人の男女がこの物語を引っ張っていく。物語の前半は、「京子」とは誰なのか、なぜその時その場所にいたのか、を突き止めるための探索である。またその探索の過程でこの二人の出自(実はこのことが後半のポイントになる)が徐々に明らかになる。
物語は、埼玉県のある地域に所属する日本共産党党員で、元高校教員、定年退職後は地元の市立図書館で主任研究員をしている貴志弥太郎(彼は妻に先立たれ、二人の子供は独立して外国暮らしという設定)が、図書館に持ち込まれた古物(古本などの類)の中から見つけた一警察官のしたためた手帳(一警察署の「日誌」の下書き)に、石川京子という名前を偶然発見したことから始まる。
実は、この物語の始まりに先だって、映画のフラッシュバックのように1928(昭和3)年3月15日の「第二次共産党事件」(大弾圧)の一場面が描写されている。場所は東京市本所区の本所太平警察署。その検挙者の中に、石川京子がいるのだ。
この石川京子なる人物は、そも何者なのか、なぜこの「事件」に連座したのか、という点に興味をもった主人公(貴志弥太郎)は、親友から聞いた「啄木の娘京子」という手掛かりを確かめるために北海道の函館にある「石川啄木資料館」を訪れる。そこで偶然出会ったのが、女子大学の講師で「啄木と初期社会主義思想」をテーマに研究している藤井ゆかりである。そして彼女に導かれながら、啄木と日本の初期社会主義思想(特にここでは北一輝)の関連調査へと探索は進んでいく。
石川啄木と初期の社会主義思想(幸徳秋水、北一輝)
「第二次共産党事件」に連座して京子がなぜ本所太平警察署の検挙者の中にいたのか、の探索から始まり、その父石川啄木に辿り着いた。それでは、啄木と初期の社会主義思想との関連はいかなるものであったのか。
啄木の社会主義思想への関心は次の有名な歌からも察せられるほどに早い。
「労働者革命などといふ言葉を聞きおぼえたる五歳の子かな」(石川啄木)
そして驚かされるのは、この小説の中で、藤井ゆかりに見せられたという「啄木の死後に残された蔵書リスト」のコピーの中身である。正直、よくぞこの危険な時代にこれだけの「国禁の書」を所蔵できたものだと思う。そのリストとは以下のものだ。
△××××× (39)久津見蕨村…(×××は『無政府主義』明治39年刊)
△純正社会主義の哲学 (39)北輝次郎(北一輝)
△純正社会主義経済学 (同)同
△経済進化論 (37)田添鐵二
△社会主義評論 (39)千山萬水楼主人(河上肇)
△国際平和論
△新社会政策
△社会主義研究(合本)
△社会の進化
△社会主義活弁 (36)高橋五郎
△THE TERROR IN RUSSIA クロポトキン
△社会主義綱要 (40)堺利彦、森近運平
△平民主義 (40)幸徳秋水
△社会主義神髄 (40)同
△社会と主義 (38)モーレー(柴田由太訳)
△帝国主義 (36)幸徳秋水
△秘密結社
△社会主義 (31)村井知至
△日本の労働運動 片山潜、堺利彦
(このリストの出典は、啄木の友人で研究家の吉田狐羊の『啄木の思想生活における最終の転換』(1933)に拠るそうである。数字は発行年、後の括弧は付け加えた。)
次の歌もよく知られているが、ここで言われている「国禁の書」とは何だったのか。
「赤紙の表紙擦れし/国禁の/書を行李の底にさがす日」(啄木)
このリストにアップされているほとんどの書はそれに該当しているはずであるが、著者はこの「国禁の書」が特に北一輝のものを指しているという。詳しい論述はここでは省く。直接この書にあたって頂く以外にないのだが、次の事実関係だけは指摘しておきたい。
啄木が1908年6月22日に、直前に起きた「赤旗事件」に関連して、幸徳秋水、内山愚童に「弔い合戦」の必要を説いていること。それから二年後の1910年6月「大逆事件」。その翌年の1月、幸徳ら12名が刑死する。秋水は15歳、北は3歳、それぞれ啄木より年長である。
啄木―秋水―北一輝を結ぶ関係について、少し長いが次の文章を引用しておきたい。
―石川啄木が26歳のときに大逆事件が起きた。幸徳秋水ら26名の被告中、24名に死刑判決という裁判結果を知った啄木が、「日本はダメだ」と日記に書いた事実は、よく知られている。―この直後から啄木は、幸徳秋水らの主張を研究し、社会主義理論に関心を強めた。
啄木は多くの社会主義文献を読んだ。その中に、北一輝の著作=発禁本があったのだ。…「啄木は、1911年―明治44年ですが、友人にあてた手紙の中で『そうして僕は必ず現在の社会経済組織を破壊しなければならぬと信じている…僕は長い間自分を社会主義者と呼ぶことを躊躇していたが、今ではもう躊躇しない』と書き、続いて『しかし無政府主義はどこまでも最後の理想だ、実際家はまず社会主義者、もしくは国家社会主義者でなくてはならぬ、僕は僕の全身の熱心を今この問題に傾けている』と述べています。啄木が北一輝の国家社会主義に惹かれていたことは疑いがありません」だが、北一輝がおおいに着目した「日本天皇陛下にのみ期待する国民の神格的信任」を啄木は逆に嫌悪した…天皇こそは、幸徳秋水らを死刑にした権力の中心であり、自由圧殺の張本人であった。「啄木は、死の直前の1912年1月2日、折からの東京市電ストライキの報道に大きな関心を払い、組織労働者の闘争に明日への曙光を見出していました。また一方で…金田一京助の回想によれば、死の前年の夏、石川啄木は病身に杖をつき金田一を訪ねた、そして『今自分は思想上の一転機にある』『アナキズムには重大な誤りのあることを発見した』『自分が今到達している社会主義思想を、どう呼ぶべきか、適当な呼称を知らない』『強いて言えば―こんな反対の二名辞を結び付けるのはおかしいが、仮に言うならば社会主義的帝国主義だ』と親友に告げたと言います」(pp.98-99)
この最後の「社会主義的帝国主義」なるものが、ボリシェヴィズムを指すのか、あるいは国家社会主義を指すのか、あるいは新たなアナキズムを指すのかは、この書の作者にも不明のままである。また、彼が北の社会主義思想のどこに関心をもったのか…北の書いた発禁本をどこから入手したのか、何を学んだのかも不明で、あくまで著者の推測推理とされている。この後に北一輝の社会主義理論の特徴などがまとめられているが割愛する。
市川正一尋問調書
ここで話が急転する。この小説を読む者にとってはまったく唐突に覚える。この書評の冒頭でも触れたこと(「このクリエイトされた二人の出自が後半のポイントになる」)だが、この二人のステータスが前面に出され、話しは一気に1930年前後の日本共産党史上の大問題へと展開していく。ストーリーのこの不自然さは、おそらく著者下里が日本共産党を査問、除名されたことと関連しているのではないだろうか。
貴志の下に藤井ゆかりから重要書類の入った紙包みが送られてくる。
実は、ゆかりの祖父(千速成高)はかつて警視庁特別高等課(特高警察)に勤務していて、野坂参三と市川正一の取り調べを担当した経歴の持ち主だった。そして送られてきた書類は、この二人の供述調書(聴取書)のコピーであり、長い間実家で保管されていたものだという。
少々先走ったことを言えば、この書の中では残念ながら野坂参三の調書には触れられていない。そこにどんな事情があったのかもわからない。しかし、市川正一の供述調書は、そのことを補って余りある衝撃的なものである。
市川正一は『日本共産党闘争小史』の著者であり、「不屈の闘士」「最後まで敵に屈服しなかった共産党員」と謳われた「非転向」の伝説の持ち主である。かかる伝説が、それ故この伝説を守り続けてきた日本共産党の「権威」が、脆くも崩壊してしまう内容がここに記されていたのである。もちろんここでその全文を紹介する訳にはいかない。それ故、いくつかの点をピックアップしながら概略を追ってみたい。
市川正一が逮捕されたのは1929年4月16日(いわゆる「4.16事件」)の共産党大弾圧の後、4月末である。彼は特高警察に逮捕され、治安維持法で起訴されたが、獄中で被告団を結成、統一公判を闘ったとされている。
その市川正一の「聴取書」は全文約1万6千字に及ぶ膨大なもので、1929年6月21日、神田万世橋警察署において特高課の志村由太によって作成されたものだ。もちろん、大変な拷問を受けた(歩行不能になるまで痛めつけられた)末の調書である。
1928年、彼は当時の委員長渡辺政之輔の指示で、「4月15日までに上海」のコミンテルン極東支部の秘密アジトに到着すべく上海へ向かう。その時の密入国の方法、その後の移動方法、場所、誰とどこで会ったか、どのようにして帰国したのか、などが生々しく、また詳細に述べられている。そこに一枚の警視庁公用箋のコピーがあり、そこにとんでもないことが書かれていた。
「市川ノ自供ニ依リ鍋山、三田村ノ『アジト』判明シ両人ヲ検挙ス 更ニ党委員長佐野学上海ニ潜伏セルモノノ如シ 上海ニテ佐野学ヲ検挙ス 陛下ヨリ銀杯一組ヲ賜ル」
その後の、彼ら当時の党幹部の逮捕劇の顛末はすでに歴史上詳しく報じられているので、ここでは次のことだけにふれて(引用)、この問題にけりをつけておく。
市川の自供によって、〈党〉の秘密の通信ポスト「P・O・B 1260」が判明した。それを手がかりに特高警察は、佐野学自身からの日本への通信を誘い出したのだ。そして、もう一つ別のポストの所在を突き止めた。二度目のニセ手紙で佐野学を旅館におびき出し、逮捕したのだ―。(p.256)
市川正一は獄中被告団の統一公判闘争裁判の責任者に推された時、「僕は大きな失敗をしているので」といって、それを固辞したといわれる。
この本を読み終った時、なんとも複雑な気持ちにとらわれた。一つは、「科学的社会主義」を標榜している日本共産党が、依然として「非科学的」な神話、伝説(党の無謬神話、伝説)にすがっていることへの怒りである。自分たちの頭で考えられない無批判的な党体質は、まさに「宗教のそれ」ではないのか。この悪しき体質が結党以来90有余年にわたる運動の悲劇を作り出してきているのではないのか。今一つは、身近に迫る「軍靴」の音であり、世上の不安である。ここでふれられている秋水、北、啄木の時代とは、まさに今の自分たちの時代ではないだろうか。我々が今なすべきことは、何かの権威に無批判的に依拠することではない、また歴史的な事実を単に自分たちの上にアナロジーして安直な回答を求めるべきでもない。あくまでも自分の頭で考えて、「批判的精神」を培い、それをもって新たな世界を構築すべく一歩を進めることではないだろうか。どこかに解答があるのではなく、自分たちで苦労して作り出していく以外にないのだろう。それが「歴史の教訓」ではないだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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