死刑廃止論へのプレリュード (17)
- 2014年 2月 16日
- 交流の広場
- 山端伸英
79.凶悪犯罪は個人や集団の特異性から発するものなのだろうか。その発生についての国家や社会側からの責任は初めから問うに足りないものなのであろうか。個人や集団の凶悪犯罪には常にどこか暗黒の謎が潜んでいる。オウム真理教事件や北九州監禁殺人事件など、ひとびとに[鬼畜の所業]と言わせる事件は日本でも頻発的に起こっており、多くの場合、主犯格は死刑の判決を受けている。「人間として許せない」という判断は如何なる凶悪犯罪にも付帯する心理のようである。
僕の問いたいのはそれを国家のシステムから判断基準として押し出せるのかどうかということである。裁判所はわれわれに代わって公的判断を下してくれる、と考えていていいのであろうか、という問いがある。「暗黒の謎」は各個人や集団の「鬼畜性」として始末をつけられる。
彼らを「国家」の名のもとに殺していいのであろうか。「暗黒の謎」はあくまでも、彼ら他者の「鬼畜性」にすぎないのであろうか。
「鬼畜性」は危険であるが、それは「国家側の隠蔽」から解放される必要がある。
一つの社会システムが、変革もなく一次元的なメリトクラシーのままに戦争を挟んでも生き続けている。戦後にはそれは問われる必要があった。その一つに「大学解体」論もあったが、今どきの旧左翼も、それを過去の「言葉遊び」として括っている節がある。
国民投票で王政を拒否したイタリア国民と異なり、日本国民はマッカーサー支配のもとで天皇の巡幸を迎え沸きに沸いた。そして1951年4月16日、マッカーサーの帰米を惜しんで羽田への沿道を埋めた国民は、一つの権力の消失を実感していたはずだ。1967年10月、羽田を塞ごうとした僕たちは高度成長による組織化「日本の再生」に激しく抗う姿勢を持っていた。僕たちの、あるいは僕一人の「鬼畜性」を僕は疑っていない。
日本社会は常に「鬼畜性」との共存を生きているのに、法的に確定された「刑事犯」との共存を拒否する。特に日本社会は反憲法的言論を政治の中心に置きながら、それとの共存を生きている。社会そのものの生存を危ういものにしながら日本社会は「組織化」の原動力である経済活動以外の組織原理を見出していない。日本の「会社組織」の組織員が海外プラントや海外の商戦に見せる「鬼畜性」は、日本の組織社会が基本的には「異質性への蹂躙」を生きているから生じている。近隣諸国はむしろその現象を冷静に観察している。
家庭内暴力の排除を僕も否定はしない。しかし、僕たちが暴力の中に生きていることも、否定するべきではない。
ここに述べていることはまぜっかえしでも何でもなく、死刑廃止という目的に向けた前奏である。死刑廃止の哲学が日本には基盤を持たないように誤解されている現実が、国際的な日本への評価点に存在している。それにもかかわらずこれを書くのは現在の日本でも多元的な可能性を市民の動きに期待できるからである。それは1980年代までの市民主義がその後に見せた失墜の経験を踏まえているものである必要がある。
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