テント日誌2月26日 経産省前テントひろば900日目…商業用原発停止169日目─ 「2月26日」は雪がよく似合ってのはどこからきているのだろう
- 2014年 2月 28日
- 交流の広場
- 経産省前テントひろば
なんとなしに「2月26日」には雪がよく似合う、と思う。たまたま、少し前に大雪が降ってまだ残雪が残っているせいだろうか。あるいはあの2・26事件のことが想起されるからだろうか。2月の終わりころは何となく雪が多いという記憶めいたものが刷りこまれてあるのかもしれない。それでも、春を感じさせるものもあって、少しずつ心も鼓動を待ちわびているように思える。春にちなんだいい言葉が日本語には結構あって、それを楽しむのもこの時期の喜びの一つなのだろう、と思う。「春のことぶれ」「春の雪」「春雨」、たしかに言葉はいろいろのことを想起させてくれるが、「春雨や小磯の子貝ぬるるほど」《蕪村》という名句もある。
都知事選という政治的な嵐の過ぎ去った後の傷痕がまだ幾分かは残っていて動きもあまり活発ではない、テントの内と外である。そういう感想も湧いてくる日々だが、3・11日も近づきいろいろの動きが出てくるのだろう。3月11日を挟んで3月9日(日)と3月15日(日)には国会包囲などの大きな動きが展開される。こうした動きの中で政府や原子力ムラの準備する原発再稼動に立ち向かうことも整って行くことと思える。都知事選を睨んで控えていた「エネルギー計画政府案」を政府は確定し、規制庁の承認をまって再稼動に動きだすのを準備している。国会では政府の暴走的な集団自衛権行使の容認が憲法9条の解釈の変更としてなされようとしているが、この後に準備されているのが再稼動である。僕らは政府の勝手な暴走を権力の強権化に立ち向かうしかないが、前回の続きという意味で、都知事選についての反省というか、振り返るべき問題を少し提示して置きたい。
僕は脱原発運動を左右、革新と保守という政治的枠組みを超えた運動として展開したいということを書いた。これは分からないではないが、政治的な主体が曖昧だという意見もいただいた。僕は脱原発運動における敵と味方の区別は旧来の意味の政党党派的なものではなく、原発推進か廃止かを軸にした区別であればよいと考える。そしてより細かくいえば、推進と廃止に段階があって、そこでの区分が問われるのだろうが、大きな枠組みでの推進と廃止で線引きをすればいいと思っている。さしあたっては再稼動が問題になるのだろうが、段階的廃止を持った再稼動が出てくるが、こうした中間経路は原発問題では必要がなく、原発廃止の中間経路として再稼動なしが構想されればいいのだと思う。
こうした中で原発問題のおける敵は原発推進と維持に利益をえる面々である。敵といえば既得権益にしがみつく面々だが、理念的には科学技術(核解放の技術)の開発とその社会化を肯定し推進する考えである。原発は維持か廃止か具体的な面がはっきりしていることも、敵味方の線引きの基準になる。もちろん、敵と味方の持つ政治的・社会的なビジョンを描くことも可能である。
そして、もう一つはこの場合に脱原発運動の主体を政治党派やそこに指導された社会集団ではなく個人として考えている。個人の集合という側面を大きく考えるのである。個人というのは国民でも、市民でも民衆でもいい。個人というのは曖昧にみえるし、どんな形にせよ運動となると政治的・社会的集団の形態をとる。どんなに緩やかであるか、厳しくあるかは別にして集団の形をとる。例えば、「テントひろば」だって、「9条改憲阻止の会」だって集団である。個人の集合を標榜しても、集団である。ところが何を軸にするかで、同じ形態でも違う。集団的な政治的理念(例えば党、あるいは政党)を軸にするか、個人的な政治理念かでは随分と違う。この個人的な理念を軸にして脱原発運動を組んで行くというときには、そのありかたは集団的な政治理念を軸にするのとはいろいろの面で違うわけでここを意識的、自覚的にやろうということになる。例えば、この点には憲法の問題についての言えるのである。そこでも個人の憲法についての考えが重要なる。それを軸にした憲法をめぐる闘いを構想している。
脱原発運動での敵・味方の規定(政治的線引き)、組織と個人の関係で、これまでの政治的ありかた、あるいは社会的ありかたを変えて行きたいというのが僕の考えで、こういう軸があるから、僕の小泉や細川の評価がああなっていたのである。僕が注目してきたことは小泉が脱原発を打ち出したとき、既存の政治的グループと安易に提携せずに、個人としての動きを意識し、それを踏まえての連携を考えているところだった。こういうことが最も分からなかったのは社民で小泉と党首との会談をやってもこのことに気もつかなかった。脱原発の国民的意志が政治に直結しないのは、政党側の考えが壁になっているのである。
こうした背景というか、歴史的な認識を考えられないのではない。それは大正時代以降でも、ロシヤ革命以降でもいいが、この百年間くらいに形成された政治的対立の枠組みが壊れ、ちがった形を要求される過渡期に今があるのだということであり、その理屈を述べられないこともない。こうした背景も含めた考えは機会あればということにして、脱原発の運動における敵と味方、運動における集団と個人の関係が問われていること、それはいろいろの場面で出てくるのであって、そのたびに自分の考えを確かめ、深めて行かなければならないことだ、と思う。都知事選の反省としてこうした面での認識が豊富になればいいのだと思う。3月9日から15日までの諸集会等を成功させ、政府の動きにたいし、一撃を加えよう。 (三上治)
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