60年安保 唐牛健太郎とは
- 2014年 3月 9日
- 評論・紹介・意見
- 60年安保唐牛健太郎岩田昌征
3月4日(火)憲政記念館で「没後唐牛健太郎を問う」会が開かれた。呼びかけ人のなかに加藤尚武や田中学等旧知の名前を見つけて出かけてみた。
私と唐牛健太郎との接点は、1960年4月26日の国会正門デモだけだ。個人的にも政党組織にも一切接触がなかった。
記念集会では、二人の作家(長部日出雄と堤尭)による唐牛追想と泉康子によるスライド写真による唐牛の人生解説が用意されていた。聴後感はまことに心和むものであった。三人とも完全に彼の人生と人柄にほれ込んでいるからであった。
講演者によると、1月16日羽田空港ロビー闘争の最終結末、唐牛逮捕のシーン、二人の警官を引きずって階段を駆け下りる男、彼を追走する多数の警官達がまるで彼に先導指揮される三角梯団のようであった。講演者の語りは、まるで平家物語の能登守教経の段の如くであった。「安芸太郎を弓手の脇にとってはさみ、弟の次郎をば馬手のわきにかいはさみ、……海につッとぞ入り給ふ。」スライドで見せられた二人の警官を引き寄せていた逮捕時の彼の光景は、まさに教経と太郎、次郎のようであった。
私はこの話を聞いて、この写真を見て、当時の全学連指導部に抱いていたもやもやが解消した気がした。
私の1月16日は、前日の夕刻に始まる。以前に「ちきゅう座」で書いたことがあるが、再述しておこう。東大駒場の正門わきに用意された4台か5台のバス──去年、バスを手配しておいた人物は、60才以上の退職技術者が決死の覚悟で福島原発暴走を阻止する運動を組織したY.Yであった。本人の口から聞いた。──の先頭車に私達デモ隊兵卒は乗り込んだ。15日の夕刻であった。羽田空港に着いた時は、もう日がなく、暗かった。空港は無警備状態で二、三人の警官がいただけだった。私達は、旗ざおを横にして、デモ隊列をとり、簡単に警官の制止を破って、空港内、と言っても、空港の建物にではなく、飛行場に走り込んだ。出発前に羽田空港の乗客用建物に入れとは言われていなかった。岸渡米阻止のために空港に来たのであるから、自然と飛行場の中に入って行ったのだ。機影が数機かなたに見える所で、デモをしていて、ふと気が付くと、後続する部隊が全く来ない。真っ暗なただっ広い飛行場の中で十数人だけが、「岸訪米反対!」と叫んでデモする、空港の従業員も警官隊も誰もいない中で一人角力とることの淋しさに、私達の声は消え、足は止まった。見まわすと、機影の反対の方に光が見えた。私達はその方向へ走った。
空港建物の二階のレストランを私達より後のバスに乗った後続の駒場隊や他大学のデモ隊が占領していた。私達はそこに合流した。「レストランで何やるんだ?!」が私のとっさの疑問だった。そして、日付が16日になった。
講演者は、現場にいたジャーナリストであった。あくまで観察者であって、空港ロビーにおける警官隊と学生との乱闘を語ったが、私達にとっては何が最大の恐れかに気付いていなかった。私達は、ロビーの中のレストランにたてこもっていた。そのレストランは、ガラス壁でロビーの他の空間から仕切られていた。そのガラス壁を撤去しなくては、機動隊が突入して、私達を排除できない。私達は、ガラスの城壁に守られているという一種の安心感があった。すると、機動隊は、ガラス壁を固定していた何本かの細い柱にロープを巻き付けて、一斉に引っ張ったのである。「何するんだ。あぶない。」と叫んだ者もいたと思う。ガラス壁がざあーっと崩落して、私達の頭上にガラスの破片やガラスの小板が降りそそいだ。どれだけ役に立ったか不明であるが、その時、私は正ちゃん帽をかぶっていた。機動隊のように分厚い服に守られていない私達にとって、ガラスの破片が散乱する床に押し付けられることが最大の恐怖であった。すくなくとも、レストランのガラス壁近くにいた学生達にとってはそうであった。
かくして、屋外に連れ出されると、二列に並んだ警官隊の間を何メートルか適度になぐられ、こづかれ、けられて、待ち構えていた警察トラックに投げ込まれ、数分トラックが走った後、私達小者の兵卒は道路に捨てられた。小雨が降っていた。仕方なく、棄てられた者達は再びスクラムを組んで、羽田空港とおぼしき方向へデモった。勿論、この時のデモ隊は、駒場出発時のデモ隊とは全く別の学生達から成っていた。
全学連の指導とは私達をデモに行かせるだけで、デモ隊の現場の指揮はとらないのか。これは、1959年11月27日の特許庁横デモの体験──私達一般デモ隊の現場判断だけで警察の阻止車輌を乗り越えた経験──に重なる疑問であった。16日未明のことだった。
3月4日の会で講演者から平教経のような唐牛健太郎の奮闘を聞くと、指導部も動員能力の発揮だけではなく、侍大将の動きをしていたんだな、と納得した。
1960年4月26日、国会正門前広場へ最初に到着したデモ隊は、やはり私達駒場の隊であった。ところが、何台もの警察車輌──講演者によれば装甲車──が運転席を私達の方に向けて(注1)並べられ、封鎖線が設けられていた。私達は前進できずに、そのままそこにとどまった。次々と他大学のデモ隊がやって来た。1959年11月27日、1960年1月16日の場合と同じく、全学連指導部は、私達に何の指針も示さないまま、漫然と時が流れた。駒場隊の指導者の一人K氏は、隊列内の私の所に来て、「岩田君、どうしたものだね?」ときいた。唐牛記念集会の懇親会で彼に会ったので、この件について問うて見ると、「そうだったかな。」との返事。デモ隊の左側には、新劇関係の人達が集まり出し、すこし離れて親米右翼の集団も姿を現し出した。こうなれば、右へも左へも集団的に動けない。後方へも動けない。となると、対峙状態のまま時が流れ、空腹と疲労で徐々に闘志を失って行くか。あるいは、後方に続々と新手のデモ隊が到着し、大群衆の圧力波で先頭の私達は阻止車輌に押し付けられ、身動き出来なくなり、11月27日のケースのように、一般兵卒の現場判断で警察車輌を乗り越えて、前方へ脱出するか。デモ最前列の経験ある者達は、誰もが直感していたと思う。
その時、一人の人物が装甲車輌に飛び上り、仁王立ちになって演説しはじめた。彼の言葉は明瞭には聞き取れなかった。しかし、意味は十二分に伝わった。「我々には請願権があるんだ。前へ進もう。」という彼の言葉は、2014年3月4日の記念集会ではじめて知った。そして、彼の姿が車輌の後方へ消えた。私達の身体が自然に無意識に前方に動いた。走って、装甲車を乗り越え、気が付いてみると、引力にひかれるように警官隊の中へ次々と落下して行った。決して攻撃したわけではなかった。全くの素手であった。しかし、警官一人一人にとっては、恐怖の攻撃であったろう。私がはっきりと知覚したのは、警棒が空気を切りさいて、私の耳をかすめ、車体の金属か路面のコンクリートに激突する打撃音であった。確実に恐怖であった。ただただ走って、打撃から逃げた。空港レストランのような乱闘の記憶は全くない。
講演者によると、頭を割られ、頭を抱えて、うずくまる者や道路に倒れて、横たわり、動かなくなる者が数多く見られたと言う。そして、警察は、その場で彼等の顔写真をとって記録した。このような多くの学生達は、やがて卒業しても、まともな就職口から確実に排除され、社会の中下層を歩まざるを得なかったはずだと言う。
私が唐牛健太郎の姿を見たのは、後にも先にもこれ一回だ。学生自治の原則に従って、学生大会で可決し、クラス討論で確認し、学生達を民主的手続きに従って、デモの現場に動員する。そこまではきちんとやりながら、肝腎の現場指揮がない。機動隊との対決を回避するのでもなく、あえて衝突するのでもなく、自然発生性にまかせてしまい、自分達も含めて、一般学生に多くの犠牲者や逮捕者を出すブント全学連の流儀に違和感のあった私ではあるが、4月26日の唐牛には感動した。あの状況で前方への脱出が実践的に唯一解であったとしても、装甲車に飛び乗って、口火を切り、政治的・法律的・道徳的責任を一身に引き受けるには、勇気と男気があってこそだ。
講演者によれば、唐牛にとって安保闘争は、4月26日で終わっていた。その日逮捕され、その年の末に釈放されるまで獄中にいたという意味ではない。6月15日も6月18日も、結局、4月26日が切り開いた道の終着駅であったと言うことらしい。それはともかく、唐牛は、自分の現場指揮によって生起してしまった多大の犠牲者達の、ノーマルな人生設計のチャンスを失ってしまった多くの学生達の運命を自分の心の底の重荷としていたと言う。たしかに、60年安保のデモは、ヘルメットもかぶらず(注2)、覆面もせず、角材も持っていなかった。このようなスタイルは、後になって、三井三池の炭鉱労働者の闘争スタイルが東京へ伝えられたものだ。私達のデモ隊は、本質的には意思表示行進であって、戦闘隊ではなかった。従って、そのような一般学生の中から犠牲者を生み、人生行路を脱線させてしまったと言う事実は、全学連指導部の無責任と言えば言える。講演者は、唐牛をその無責任の責任をとった男と見ていた。「全学連委員長であった自分は、闘争の血債を支払った者達のその後の人生水準よりも上の楽な生活を絶対しない。」と心に決めていた。講演者はそう説く。それ故に、四国八十八ヶ所の霊場をめぐった。それ故に、紋別に居をかまえ、北のオホーツク海の専業漁師となって十年間生活した。
たしかに、絵にかいたような秀才であったらしい唐牛は、北大を除籍になったにせよ、どこかの大学に入り直して、高校時代のサルトル論に立ち戻り、フランス辺りへ留学して、市民社会本流に帰属する道も十分にあったはずだ。そうして、女手一つで育ててくれた母親に安心感を与えてあげることも出来たはずだ。そうしなかった。危険な冬のオホーツク海の漁業を選んだ。こう見ると、唐牛ファンの講演者の説く唐牛像は、説得力がある。これは、ことさらの美談にすぎるのであろうか。そうではあるまい。醜談が歓迎される市民社会になってしまったから、美談に響くのであろう。生きるとはこう言うことなのであろう。
大日本帝国の軍人達の中には、沖縄戦最後の日、自決直前に、「沖縄県民かくたたかへり。後世格別の御配慮を。」と書き残した大田実海軍少将があった。今日、この先人の高志を実行しようと覚悟している自衛隊高官の姿を見ない。軍が隊に格落ちするとはこう言うことなのである。戦犯としての刑期を赤道直下部下達が戦犯として服役しているマヌス島で服役したいと自ら願い、東京から孤島へ移送され、そして刑期終了後世田谷の自宅に三畳一間の小屋を建て、死ぬまで自己謹慎した陸軍大将今村均もあった。敗北した戦いの指揮官の一つのあるべき姿である。講演者は、唐牛健太郎をこの流れに属する日本人であると見ている。
注1 5月に入ると、警察車輌は、前部を警官隊の方へ、後部を私達の方へ向けて配列されるようになった。しかも、垂直大板が打ち付けられていて、梯子の用意がない私達は乗り越えることが出来なくなった。
注2 投石は、私の経験では、6月3日(?)の首相官邸前デモで起った。それは、機動隊に実害を全く与えない。デモ最前列の私達の後頭部に当たる。私達は、後方の人達へ「石を投げるな!」と叫んでいた。
平成26年3月7日
出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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