ソ連・東欧の資本主義市場経済化=移行後20年間の総括を考える
- 2010年 11月 2日
- スタディルーム
- ソ連・東欧社会主義崩壊から20年ポーランドの「連帯」岩田昌征
10月は例年学会の大会シーズンで、私もいくつかの大会に参加した。私が出席した諸学会に共通するテーマは、旧ソ連・東欧の資本主義市場経済化=移行の20年間の総括であった。私は、ここで論ぜられるべきでありながら、全く触れられなかった二つの問題を指摘しておきたい。
① 資本主義移行の成功・不成功の程度にかかわる報告はあったが、西側先進資本主義諸国の経済学者たちによる移行への学知的アドバイス、いわゆる知的支援の適否に関する今日的再検討は全く見られなかった。当時先進的西側のミクロ・マクロ経済学の専門家たちは、旧ソ連・東欧の関係者たちによってまるで生神様のように迎えられた。
私にはそれが不思議であった。90年代前半のある年、スロヴェニアのリベラルな女性ジャーナリストが千葉大学法経学部で講演して、アメリカのミクロ・マクロ経済学の教科書の翻訳を移行への知的支援の実例として言及していた。
予定討論者であった私は、次のようにコメントした。それが移行へどんな実効的役割を果たすことができるのだろうか。例えば、そのころのマクロ経済学教科書の要といえるIS・LM分析を取ってみよう。IS曲線の背後に財市場の均衡が、LM曲線の背後に金融市場の均衡が前提されている。ところで、スロヴェニア経済において、財市場の働きについてある程度語れても、金融市場の働きについてほとんど云々ことはできない。それらは今から形成、ないし生成されるべき経済形式なのである。西側のミクロ・マクロ経済学は、資本主義を構成する諸市場が全部出そろった状態を前提にして、それらの連立方程式システムの量的機能様式の分析である。それらの時間的・論理的生成プロセス=移行について語るべき何事も有しない。要するに西側の学知的アドバイザーは、自分が全く持っていない知を伝授したという訳である。知的空騒ぎであったといえる。
敢えて単純化すれば、非資本主義から資本主義への形態論的展開の論理を説いたマルクス経済学こそ「マルクス主義的社会主義」から資本主義への移行に関して学知的助言を与ええたであろうといえる。移行完了後に西方経済学のツールが有効となる。
② ソ連・東欧の集権制社会主義を内部から大動揺させた運動は、1980年代前半のポーランド労働者階級の「連帯」労組運動で千万人を前後する反体制運動であった。運動の中核は、社会主義的工業化が築き上げた重化学工業(炭鉱、製鉄、造船etc)に集積した労働者階級、まさに絵に描いたような基幹的労働者部隊であった。だからこそ、統一労働者党体制が震え上がったのである。また、だからこそ、電機工ワレサの名前に象徴される「連帯」運動に日本社会が上から下まで、右から左まで興奮して、ポーランド労働者運動への支援活動が盛り上がった。「連帯」運動の理論家たちは、その将来に自主管理共和国の理念像を設定した。しかしながら、1989年、運動の成功の結果として、反共産主義の「連帯」政権が成立すると、自主管理共和国の建設ではなく、ネオリベラリズム的資本主義への移行が始まった。そのプロセスの中で、旧体制の重化学工業労働者は、リストラの嵐に無防備にさらされ、旧体制打破の最大功労者は、その成果をエンジョイすることができず、社会的勢力として消滅してしまった。それに代わって、運動に触れたくらいの、あるいは西側にいて触れもしなかった若きテクノクラート層が運動の果実の多くを我が物とした。今日ポーランドにおいて自主管理共和国の理念を思う者はまず0人であろう。
ところであれほど熱っぽく「連帯」運動を支援した日本の知識人グループや日本のポーランド研究者グループも、1989年以来今日に至るまで、移行プロセスでリストラされ、解体された基幹労働者の不幸な運命に心を痛めない。学会においても、今日のポーランドの若者層が移行後の経済システムを基本的に肯定しているとベネフィットを論ずるのみである。30年前の若者が、自分たちの運動の勝利のゆえに、今日老人として不安な生活をせざるを得ないコストを語らない。
以上、移行20周年に学会研究者と運動知識人に再考してもらいたいところを書いた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study351:101102〕
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