やっぱり犀だ!
- 2014年 3月 13日
- 評論・紹介・意見
- ナショナリズム宮里政充
私がこの「リベラル21」に『あれは何の足音だ?』を書いたのは昨年4月30日のことである。私はその文章でイヨネスコの『犀』という芝居について触れたが、ここでもう一度この作品に触れておきたい。なぜなら、日本はいまこの作品の世界を着実に再現しつつあると思うからである。
ウージェーヌ・イヨネスコ(1909~1994)はファシズムの嵐が吹き荒れる1930年代、ルーマニアにいて身近にいる者たちが時代に流されていく姿を目のあたりにしたのだった。彼は自らこの作品を解説するにあたって「たしかに反ナチの戯曲であるが、なかでも、集団的ヒステリー、集団の流行病に反対するものである」と述べている。(白水社刊『イヨネスコ戯曲全集2』解説、292p)
芝居のあらすじはこうだ。ある日、町なかを一匹の犀が駆け回る。初めのうち人々はその姿に恐怖や奇異な思いを抱くが、やがて犀の数が増え始め、町中は犀だらけになる。放送局が犀に占拠され、荒々しい犀の鼻息や叫び声が放送される。主人公ベランジェは酒飲みのぐうたらな人間であるが、彼の周りでも犀に変身する者が後を絶たない。遂には彼の恋人までが「人間より犀の方が美しい」と、彼のもとを去って行く。最後の人間となった彼は叫ぶ。
よし、それならいい……! ぼくはみんなに抵抗して、自分を守ろう! 戦うんだ、戦うんだ。〈中略〉ぼくはみんなのところへは行かない、行かないよ! ぼくは最後の人間だ、ぼくは最後まで人間でいる、負けないぞ、絶対に……(加藤新吉訳『犀』、前出『イヨネスコ戯曲全集2』282p)
この『犀』は1959年にドイツで初演、翌年フランスでジャン・ルイ・バロー主演で上演され、大きな反響を呼んだ。1960年代に日本でも文学座などが上演している。
イヨネスコは「あなたの作品に登場する人物の一人が一つの原型となり、いつか、ベランジェがオレストやロドリグ(ラシーヌとマルキ・ド・サドの作品に登場する人物たち―宮里註)のように言われることをお考えですか」という問いに対して、「わたしの作品、わたしの創った人物を判断するのはわたしではありません……もし、神話的な人物があるとしたら、それはベランジェでなく犀でしょう。要するに、わたしがあなたにお答えできるのは百年、二百年後です……『犀』という作品がまったく不可解となることはありうるでしょうね―わたしはそれを望んでいます―すべての人たちが思想の自律性を持っている世界では不可解となるのですから」と答えている。(前出、293p)
ところが、「不可解」どころではなく、『犀』が描く1930年代の世界がいまこの日本で繰り広げられつつあるという実感を私はひしひしと感じている。ヘイトスピーチの活動、ネット右翼の増大、麻生副総理のナチス発言、『アンネの日記』の損壊事件、籾井勝人NHK新会長の言動などなど、数え上げればきりがない。もちろん、それらの背景に右傾化した安倍政権があることは言うまでもない。東京都知事選挙で田母神俊雄候補が60万票も獲得した事実も、何だか不気味だ。「安倍さんはほんとは私を応援したかったんですよ」という田母神候補の言葉には説得力があった。
籾井会長の記者会見の模様をテレビで見たとき、私はとっさに放送局を占拠した犀の鼻息や叫び声を思い出した。安倍首相はいわゆる安倍カラーと言われる人事配置を着実に実行しつつある。朝日新聞社へ押し入って割腹自殺をした右翼を賞賛する追悼文を書いた人物や、田母神候補を応援し、他の候補を「人間のクズ」呼ばわりした人物などがNHK経営委員になった。そしてNHKの籾井新会長は10名の理事たちに日付なしの辞表を提出させ、野党の追及にたいして「役職についての覚悟を示してもらった。そういうことは一般社会にはよくあることだ」と豪語し、いささかも反省する風がない。もし辞表を提出することが覚悟のほどを示すものだというのであれば、まず自分が真っ先に経営委員会に対して同じ辞表を提出すべきなのだ。この程度の理屈は子供でも分かる。彼はよほど自分の統率力に自信がないか、さもなければ暗黒時代の専制君主になりたいかのどちらかだ。
もうひとつ、いやな感じを受ける事件が、先ほど触れた『アンネの日記』損壊事件である。『アンネの日記』については、アンネの死後誰かが書いたいわば贋作であるという説があることは私も知っている。当時アンネが使用できるはずもないボールペンで書かれていること、筆跡がアンネの直筆葉書と大きく違うことなどがその論拠であり、その点を巡ってアンネの遺族からもネオ・ナチの方からも裁判が起こされてきた。しかし、仮に贋作説に100パーセントの正当性があるとして、それがどうしたというのだ。アンネとその家族が実在してナチスの迫害を受けたという事実、ナチスによるホロコースト、日記の内容が極限状況に置かれた人間の姿を見事に描いているという文学的な価値などがすべて失われてしまうとでもいうつもりなのか?
『アンネの日記』やその関連図書を破り捨てるという行為は、思想的にはネオ・ナチである。警視庁が捜査本部を設置したのでその捜査の結果を期待しているが、もし、日本人の中にネオ・ナチのシンパがいて行動を起こしているとすれば、それはやはり、いまの日本の社会を不気味に覆っている、偏狭なナショナリズムの空気の影響ではあるまいか。このままで行けば日本は独善に陥って国際社会から孤立し、国内的には現憲法の基本的理念である国民主権・基本的人権・平和主義が崩壊していくであろう。それが「戦後レジームから脱却」し「日本を取り戻す」ことの内実なのである。安倍政権はどうしても歴史を書き換えたいのだ。そのためには「河野談話」も「村山談話も」邪魔になるというわけだ。
さて、そこでこの『リベラル21』に関心を寄せるわれわれは、何年、あるいは何十年か経って2010年代を振り返り、「あのときどうして少しでも時代の流れを変えられなかったのだろう」と嘆いたり、2010年代を社会科学的に分析して論文を書いたりするのはやめたいものだ。われわれは今の時代に生きているのであり、いまにこそ責任を持たなければならないのだから。状況への発信を続けよう。(2014.3.3)
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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