死刑廃止論へのプレリュード (18)
- 2014年 3月 19日
- 交流の広場
- 山端伸英
80. 「鬼畜のごとき所業」という裁判官や裁判員の評定がなぜ有効なのかは専門家に聞くしかないが、「鬼畜」の評価軸について僕には前項で示したように疑うところがある。
最近、長い間、海外プラントの日本食堂関係の仕事に携わっている友人が日立造船の社員が海外で作ってほとんど置き去りにしている子供を日本に連れて行き、その社員とのコンタクトを求めて動き、やっと尋ね当てて電話したとき、その60歳にもなる社員はこう答えたそうだ。「知っらねえよう、そんな奴はよう。あんたなんだ、脅迫してんのちがう?」、友人はこの鬼畜の日本人を適当になだめて電話を切り、その日本人の子供である20歳を超えた女性の姿を振り返ったとき、激しい悲しみと責務の重さに言葉を失ったそうだ。「鬼畜の日本人」はそんな感情は持たずにてめえの精子をあっちこっちに振りまいて日立造船をやっているのだろう。軍事産業はこのような「鬼畜性」を社員の基本として成長している。同時に、日本の支配体制は、国家次元でこのような「鬼畜性」を保護している現実を隠している。慰安婦問題に対する橋下徹その他の発言を繰り返すまでもないであろう。橋下たちの異常さは軍事産業と組んで「慰安」に呆けつつ、背後に生息する胎児たちの今日を想像する勇気すらうかがわれないことにある。
このような日本の支配体制側の鬼畜性支持と同時進行的に行われる「凶悪犯」への「鬼畜性の指摘」は大局的に見るとなかなか滑稽な風景でもある。そして、それが罰としての「死刑」に対するステロタイプ的形容詞になり始めていることも「日本国家」の現在を語る上では欠かせないことだろう。
「社会」というコンセプトが現在の日本語でも通るものであるならば、「罪と罰」の連携は「生きている空間」のコンテキストの中でしか、意味を持たないことは誰でも知っている。生きている人間にしか「罪と罰」はない。人間として生きている以上、死は必ず付きまとってもいるのであって、「死刑」は犯罪者の生の終わりに国家が介在して、それを国家の手で行うことを意味しているに過ぎない。刑法および刑事裁判が「死刑」を社会倫理を絡めて宝刀化している現在の日本の司法の姿は、「罰」を「国家による殺処分」として先行させ、社会側による「罰」の成熟機会を奪い取ろうとしている。つまり、「国家による殺人」としての死刑は、受刑者個人の「罪と罰」の深化という倫理性にではなく、「国家」による人民への「見せしめ」という傾向を強く持っている。
そこには二つの国家のスタンスが大きくわれわれの前に立ちはだかる。
1.国家は犯罪者を死刑にすることで「罰」のもつ倫理性を不徹底化させることに貢献している。それは日本人の倫理性を鬼畜化させているのではないかという一面。
2.国家は犯罪者を殺処分にすることによって、一つ一つの決定的な「存在の証拠」を消し、そのことによって実は国家構造にかかわる本質的な問題を隠蔽しようとしている。
それらは福島の家畜たちへの殺処分との相似の運動を社会にもたらしている。「死刑」が現状どおりに進められている背景には、国家側からの価値基準で壊されてはならないものがあるのであり、国家側が、壊されてはならないものがわれわれの日常に顕現しないようにわれわれ自身を無意識的に閉塞させている限り、「死刑」は有効に運用され続けるのである。国際的な価値標準から脱落し始めた特別秘密保護法的国家側から見れば、日本人の自明の存在としてのシステムがそこにあるのである。
日本人に自明なシステム自体も、日本人自体の「無意識的な閉塞」を保護する形で「他者の介在」や「さまざまな生の存在証明」を封鎖している。日本の会社組織はそれ自体、現在の揺らぎの時期を無視すれば「確定されたシステム」を気負って生きてきた。それは現在では例え「ブラック企業」と呼ばれるプロセスにあったとしても、それは成功の気負いを内部で維持していくためには必要だった。知識社会学的に見れば、東大に三年浪人しながら入って東大卒エリートとなり、ドストエフスキー的なタイプを偏執的体質だと批判しながら、大衆学生による個々の「こだわり」に見られる社会の多元化や存在証明に対する危惧を鋭角的に表現する権威主義的な政治的文化的エリートや学者を生み出すシステムが戦後も続いた実績がある。国内の、このような実績に基づいたシステムの中で、言質的な革新主義を押し出しながらシステム自身を保守し続けようとする政治社会学が、左翼においても保守派においても踏襲されて共有される根拠となっている。竹内好の表現を再現できないのは日本から遠くでこれを書いているためもあるが、われわれはわれわれの社会の最底辺からシステムを覆す論理をもう一度探す必要がある。
僕は海外で生きる日本人としてどこでも市民権を限定されて生きている。日本側(全権大使の質によって異なるらしいが)からも当該国からもかなりの市民権の限定を受けている。これは生きながらにして「罪」とその「罰」について考えさせられる存在形態であって、「国家」側からはいかなる場合にあっても「罪」はでっち上げ可能なのである。
然るに、この存在形態は「受刑」についての僕の発想の基盤にあり、基本的には現在の刑務禁固の刑罰性に疑問を寄せるものでもある。つまり、このプレリュードは91番で終わる予定なのであるが、その次には現行刑務所制度の廃止と改造が始まることになる。
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