テント日誌3月26日 経産省前テントひろば928日目…商業用原発停止192日目─花見デモもある。楽しみながら再稼動阻止の準備を
- 2014年 3月 27日
- 交流の広場
- 経産省前テントひろば
テントのはす向かいの外務省の庭には例年通り早咲きの桜がその華麗な姿を披歴している。周りはまだ寒々しい肌をさらしたままの裸木という冬の風景のままだから、ちょっと異様であるが…。その庭の他のソメイヨシノも、また、日比谷公園の桜もまだ蕾だか、あっいう間に咲くだろうから、この早咲きの桜も満開の風景に埋もれて行くのだろう。日比谷公園に向かう道を散歩しながら、植物の命ってなんだろうと思った。
植物にも動物にも人間と共通した命があり、植物の命が人間の身体の命と同じものだとはよく言われる。動物の命が感覚まで広がったものであれば、人間の命には精神の命というのが加わるということなのだろうか。人間は植物や動物と共有の生命を自然とし持ちながら、精神という生命を持った存在である。だから、自然としての身体の存続のための食物の摂取と排泄を繰り返し、同じように精神としての命の摂取と排泄をやっている。この精神という命の食物は言葉なのである。植物の命は自然の一部としてその循環(交流)の内にあり、花はその表象であり表現なのであるが、それはそのうちでの精神(こころ)なのか。精神的な自己主張なのか。それを接している人間とは何なのだろうか。花に感動し、こころがたゆたうのは人間の自然の部分が感応するからだろうか。また、人間の精神という命はその本源である自然に触れることで、その生命力を得るのであり、花に感動するのはその証であるのか。花に人間の精神の初原を見るのだろうか。
テントの周辺も春の訪れによって明るい気分が浸透してくるだろう。テントにある人たちの心性を支配しているのは政治や社会の動きであるから、季節の動きは副次的なのであろうが、それでも影響はあるのだ。とりわけ、原発の問題は人間と自然の循環という根源に関わることであり、それは僕らの想像力が自然なものに延びることであるから、きっと関連しているのだろう。ここには人間と自然の現在の問題が無意識も含めて反映されているのだ。
ある新聞は内閣府チームが福島の三か所で測定した放射線量のデータを改ざんし、公表も否定していたと報道していた。放射線量はたいしたことがないと示すために測定したらしいが、あまりにも高かったので慌ててデータを改ざんして隠したというわけだ。こういう子供だましのような報道を聞く度にまたかと思う。汚染水の処理もそうだが、誰も信用していないが、それを深めていくだけの愚かな行為には怒りを隠せない。それにこうしたことに関わる人たち原発問題への対応の浅薄さに唖然とする。測定した当人たちはもっと複雑な気持ちだったのかもしれないが、公的機関や組織を支配している原発問題への対応の感度の鈍さというか、粗雑さにはびっくりする。放射能汚染が人間と自然の根源に関わっていることについての感覚が粗雑にされているのはどうしてか。こうした行為は花を無残に踏みにじることと同じなのだと思う。
昨晩は夜遅くまで都知事選を巡る議論が続いた。たんぽぽ舎での河合弁護士(細川応援)と海渡弁護士(宇都宮応援)話と会場討論から流れてきた人もいた。僕もこの会には参加したかったのだがテントの番で行けなかったから、延長戦のようだった。この後の脱原発の運動にも関わることだから、あわ雪のように自然に消えていくのではなく、討議をやっていけばいいと思う。今日は三里塚裁判があり、朝からテントを訪れる人も多かった。地方からの人も多かったのだが、テントの訪問者も春の訪れとともに増えると思う。
いつの間にかテントの内はデモや集会のチラシで一杯になっているが、中には「花見デモ」というのもある。デモの後に花見をということなのだろうが、いい企画だと思う。近くなら参加したいところだ。『遺言 原発さえなければ』(豊田直己、野田雅也監督)という映画のポスターがテント前にあったが、福島の現状を伝えている映像である。機会あればぜひみて欲しいものである。(三上治)
4月2日(水)第7回東電本店合同抗議(18時30分~20時)。呼び掛け団体;経産省前テントひろば・たんぽぽ舎 賛同団体(54団体)。賛同団体募集中。(柏崎刈羽原発再稼動するな!汚染水止めろ!)
4月23日(水)テント裁判第6回口頭弁論(14時~15時)。13時東京地裁前結集を。16時~報告集会(参院会館講堂・村山智・人見やよい・河合弘之他)
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