連作・街角のマンタ(第二部) 六月十五日(その1)
- 2014年 4月 9日
- カルチャー
- 川元祥一
群れず休まず横たわることもなく海原を行くマンタ。俺はお前のそんな姿が好きだ。限りなく俺に似ていると思う。あゝ、そう言うと少し違うかも知れない。俺はお前のように強くはない。そして俺は人と群れて騒ぐのが嫌いではない。これまでもけっこう楽しく騒いだ時期があったし、それが俺にとって一番幸せな時期だったかも知れない。しかしそんな幸せな時期はそう長くはなかった。子どもの時期を抜け出し、自分の意思を持ち始めたころ、なぜか俺は独りだった。いや、これも違うかも知れない。俺の周りにはいつも人がいた。賑やかで楽しい時もあった。しかしそれでも俺はいつも独りだった。好んで独りになったのではないかも知れない。面倒くさくて独りになりたいと思うことは度々だ。しかし、孤独であればいいと思ったのではない。なのに、それでも俺はいつも孤独を感じていた。そしてある時、偶然お前のことを知った。群れることのないマンタ。恋の時以外独人で過ごすお前。それを知ったとたん、お前が好きになった。そして、お前は俺に似ていると思った。いやごめん。俺がお前に似ていると思った。そして見守りたくなった。大きな翼をひろげ独り深海に向うお前…。そんな姿を見ると胸が締め付けられる。いとおしくて、寄り添いたくなる。
自分の意思を持ち始めた頃、と言った。それは十六、七才の頃だ。自分の想像力にたいした広がりがあるとは思わないし、特別な可能性があるとは思わなかったが、少なくとも自分の今ある生活と何らかの未来、自分の意志で想定出来る何らかの可能性などを考えたのはその時期だった。というのは、その時期俺は、近くにある小さな町で就職するか、大学に進むか悩んでいた。いや、これまた少し違うかも知れない。何を選ぶか悩んでいたのではない。そんなことは悩む余地もない感じだった。自分が育った農村部の小さな村で、就職といったふうな華やかな通過点を考えるのは、近くの小さな城下町のさびれた商店街のどこかの店で働くことだった。そしてそのこと自体、俺が育った村からすると晴れある姿だ。しかしそうした晴れある姿が、学校での自分の成績からすると、ほとんど可能性がない、と言えそうなのだ。何かの試験がある度に学校の廊下に貼りだされる成績表によって、それは早々と宣告されているのがわかっていた。その成績表はそうした意味で、学生を励ますために貼り出されたに違いないのだから。
近くの病院で炊事婦をしながら家庭を支える母を早く助けてやりたいという気持ちがけっこう早くからあった。しかし、いつ潰れるかわからないような小さな店に雇われたとしても、それで生活が安定するようには思えなかった。そのうえそこに入れるかどうかさえわからない。
そこで俺は、母には四年間我慢してもらって、大学に行くことを考えた。とはいえ、それもまた就職以上に難しい可能性だった。町の商店にさえ就職出来そうにない成績なのだ。大学進学などとんでもない話だろう。そんなこともよく分かっていた。だから俺は真剣に考えた。もっと早く気付いておればよかったと思うのだったが、後の祭りだ。そして、過ぎ去ったことをくよくよしても仕方ないと思った。それよりも、気づいた以上気持ちを入れ替えて、前に進むしかないだろう。そんな時俺はふと思った。何が前か、と…。俺にとって何が未来か、ということだろう。そして思った、俺にとって未来は、これからでも努力すればなんとかなるかも知れない可能性、いずれ可能性がないとしても、まだやったことのない何か…。
そのように思ってほとんど可能性のない大学進学を選んだ。少なくとも自分の意思をもって考え、実現できるかも知れない未来…。
とはいえ、それを人に言ったら一笑されるに違いなかった。これまで何の努力もしなかったし、自分の気持は別にしても、他人には不良のように見られた俺だった。そんな俺が大学受験するなど、とても言えた柄ではなかったのだ。
そこで俺はそのことを誰にも言わずに準備することにした。
もっとも、そうはいっても、俺には、もう一つ可能性を塞ぐ悩みがあった。もし進学できた場合、そこでの生活と大学の授業料は新聞配りでもして稼ぐつもりだった。しかし一時金の入学金をどうするか、ということだ。とはいえこれは意外と簡単に解決した。失敗すれば、それはそれでいい。その可能性は高いし、それが俺の実力なのだ。一方、もし受かったらどうするか。べらぼうに高い入学金が待っている。これは、借金を申し込む当てが一人いた。もし借りることが出来たら、大学を出て働きながら返すつもりだ。駄目な時、それが悩みではあったが、それはそれでいいと思った。それもまた俺の人生だ。ただこれまでと少し違うのは、俺は自分の意思で大学に入ることが出来たということ。これが唯一の取り柄だ。金がなくてそこに通えないのは俺の責任ではないだろう。これはおそらく社会の問題なのだ。そう思った。
こうして俺は、誰にも言わずに受験の準備をした。
しかしギリギリのところで言わなくてはならない人物が三人いた。高校の担任と母親、そしてせめて入学金だけでも貸してほしいと頼むことにしていた母の姉、東京にいて、ある程度経済的に成功している俺の伯母だ。
隠れてやっていることを担任に話すと彼はびっくりするだけで、反対とも賛成とも言わなかった。一方、母と伯母は強烈に反対した。母は女独りで俺と弟を育てた。そのうえ、家には仕事もなくブラブラしている青年が二人いた。母の弟と、母の姉が嫁ぐ前に産んで置いて行った俺の従兄弟にあたる男だ。「ようよう育てたのい、これ以上お母ちゃんに苦労させんでくれ…」としみじみ泣かれたものだ。伯母は、「お母さんが苦労しているのだから、早く助けてやりなさい」と、手紙によってにべもなく突き放された。しかし俺は決意を変えなかった。考えつくしたうえの俺の可能性、心密かな人生の最初の挑戦なのだ。
こうしたことを考えながら明治大学に入学するまでの様子は、子どもの頃の生活を含め『もうひとつの現代』(三一書房・一九九六年)という本で書いてきた。この物語は、言うなればその続きである。
1
東京・神田駿河台。これまで、いつかどこかで聞いたことのありそうな地名だった。とはいえ当然、どんな土地なのか街なのか何も知らなかった。言葉の響きから大都会の中の丘の上というイメージ。しかも何やら華やいだ感じがするのだ。そんな地名の、そして地名にふさわしい地形をいくらか残していそうな街並みの、そこにある大学の周りを俺はある日歩き廻っていた。それが未来だったから…。
入試に成功した後しばらく俺は伯母の家にいた。幸いなことに大金の入学金だけは伯母が貸してくれた。猛反対していた伯母だったが、東京六大学の一つにパスしたのを知ると「働き始めたら返すのよ」と念を押して金を出してくれた。その伯母・長井登紀子は家政婦を二人置いて独人暮らしの女だった。しかも部屋をいくつも持つ自分の家なので、俺が寝泊まりしても何ら不都合はなさそうだった。むしろ伯母もそれを願っている感じがする。とはいえ、残念ながら二人は人生観が違った。人生観が違うくらいたいしたことではないとも思う。どっちかというと、同じ人生観の方が気持ち悪いのではないか。そう思うのだったが、それがそう簡単でないのが伯母の立ち位置だ。彼女のこれまでの人生観が突然変わったら現代の生活が激変するかも知れない。本当にそうなるかどうかやってみないとわからないものの、少なくとも彼女はそう思っている。そしてそれは、俺が、子供のころから心密かにもっていた疑問、難問に関係することでもあった。伯母の人生観はその疑問難問の、少なくともその表面の原因に繋がるものだった。だからもし俺が、その時期、伯母に妥協して彼女と一緒に暮らしていたとしたら、俺の人生そのものが今とはまったく違うものになっていただろう。そしてそうだとしたら、この物語もなかっただろう。そのあたりの細かいことはこの後順を追って書いて行くが、俺はその時期、彼女と一緒に生活出来ないのをしっかり認識しており、最初から考えていた通り、自分で働き、生活しながら大学に通うことを決意していた。新聞配達をすれば何とか大学に行けるというのは、高校生の頃、従姉にあたる明子という女が自分の友達の話として語ったのを覚えている。だから、伯母の家に仮宿しながら、大学の近くで住み込み出来る新聞配達店を探して歩いた。
ほとんど方向感覚を失いながら、ある街角でその店を見つけた。新聞販売店の看板を貼ったある建物のガラス戸に「住み込み店員募集。大学生歓迎」と書かれていた。初めての街であり、生活習慣もわからないことからくる不安がないと言えば嘘になるが「大学生歓迎」と書く以上、学生の生活は保障するのだろう。そうであればそれで十分だ。
このようにして俺の、いわば第二の人生、田舎の生活を脱出し、自らの意思で踏み出した新しい人生が始まる。
東京は神田淡路町。駿河台の隣の街だったが、どうやらその一帯は昔から江戸・東京の真ん中と言えそうで、ここに住むことが気にいる原因の一つだった。それに、その頃けっこう人気のあった浪花節の“森の石松”にある名セリフ「ところは江戸、神田の生まれよ」という啖呵が脳裏にあって、斜に構えた石松の粋なイメージが手伝っていた。もっとも、住み始めてまもなく知るのだったが、町にはそんな粋な様子や活気はまったくなくて、反物やラシャなどの問屋の多い、どこか内向きな沈んだ空気を漂わす町なのに驚きもした。
そうした落差にとまどいながら、何よりも深夜までうなり続ける車の音に大都会を感じ、それとはまったく反対の現象ではあるが、新聞の束を自転車に積んで飛び出す夜明けの街の、ほんのひと時見せる大都会の静謐な空気に感動したりしながら、徐々にその空気と生活に溶け込んでいったのだった。
地下鉄淡路町駅がすぐ近くだった。俺にとって大都会の象徴でもある地下鉄の入り口が、大きな交差点の一角にある煤けたケチな屋根と、地下に続く薄汚い虚しい穴でしかないのも、俺の脳裡で大きな落差だった。しかし、それでもなぜか、誰に話すというあてもないのに、それやこれやが大都会に住み始めた自分の自尊心をくすぐる不思議な存在でもあった。
従業員はあれやこれやで九人。七人が配達員で後の二人は、もしかすると三人だったかも知れないが、新聞拡張員と呼ばれていた。新聞の購読者を増やす営業マンらしい。配達員の内、賄い付きで店に住み込んでいるのが俺を加えて四人。後は自分でアパートを借りていた。どうやら配達員が出世し、給料が上がるか何かで一段上の生活をする。そうした姿の象徴のようだ。
住み込みの四人が寝るのは二階の八畳ほどある部屋の両隅に設けられた段々ベットだ。いつか映画で見た軍隊の、その他多数のような一等兵たちの寝床に似ているかも知れない。木枠がむき出しで安作りなのも、自分の人生を値踏みされている感じがしないでもない。しかしともかく、これで寝る所と食う所がそろう。最低限生きては行けるだろう。俺が店に入ったその日の夕刊を、店を辞めることになっている店員と一緒に配った。配達の道順を教えてもらうためだ。竹村というその男は、父親が病気になったので群馬県の実家に帰るという。翌朝も同じように俺を連れて朝刊を配った。それで男は辞めて行った。普通は引き継ぎを三日かけるらしいが、竹村は父親の死期が近いと言って細かい配達地図を俺に残して行ったのだ。
毎日朝三時に起きて四時前には二百部くらいの朝刊を自転車の荷台に乗せて店を出る。朝刊を配った後朝飯を食い、住み込みの者は再び二階の段々ベットに潜り込む。しかし俺は朝飯を食った後ほとんど毎日店を出て、淡路町交差点を渡って靖国通りを西に向かう。今ではまったく面影がないのだったが、その頃は通りの真ん中をチンチン電車が走り、歩道沿いに学生服や大学帽子専門店が何軒かあった。今大きなビルを構えるスポーツ用品店「ミズノ」は当時、周りの建物より少し大きいだけの瓦葺の二階屋だった。ミズノの並びに、いつも婆さんが一人いる小さな店があって、冬はドラ焼き夏はアイスクリームを売っていた。俺はそこで小倉アイスを買って食べながら歩くのが楽しみだった。
淡路町交差点から五百メートルくらい先、チンチン電車の駿河台下駅を右に折れて五十メートルも行けば、左手の丘に大学の校舎が現れる。明治大学駿河台校舎。これも、今では想像もできない変化だ。道路沿いに少しばかりの木立があって、そこに簡素な石の門柱があった。そこを入ってほとんど間を置かない所に正門としての薄汚れたコンクリートのアーチがあった。その建物が本館とも呼ばれる。道路との間が狭くてゆとりのない門構えなのにがっかりしたものだ。今はそこにアカデミーコモンとかリバテータワーなどといった巨大なビルが建っていて、キャンパスは横ではなく縦の空間に広がった。他に方法がないのだろうし、それなりに面白いと思う。俺はこの大学に通うために、はるばる東京に出てきた。
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