連作・街角のマンタ(第二部) 六月十五日(その3)
- 2014年 4月 11日
- カルチャー
- 川元祥一
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秋になると学費値上の動きが急になったようだ。この話は学校の理事会で進めており、オブザーバーとして明大全学学生自治会中央執行委員会(中執)が参加しているという話だった。文学部からは小野田と東洋史の定岡が入っていた。彼らの話によると老朽化した校舎の高層化と教室の冷暖房化、研究室の充実などが値上の理由らしい。しかもそれを冬休み前に決める方針なのが明るみになった。中執は値上げ反対。学校運営経費の公開と理事全員の出張費公開などを求めている。両者の話がどう噛み合っているのかわからないものの、議決権のない中執としては出来るだけ難題をぶつけ一・八パーセントの値上巾を縮める作戦らしい。しかし九月末に後期試験期に入ることもあって学生の盛り上がりは今一つといったところだった。俺一人のことにしても、学費が安いにこしたことはない。新聞配達店の住み込み大学生の給料は授業料を払ってギリギリ生活出来る線になっているらしい。俺の店にはそんな学生がいなかったが、二年まえまでそんな学生がいたらしくて、店のモサが教えてくれる。だから学費と生活はカツカツ何とかなるものの、余裕がまったくなくて、学校と店の往復が人生そのもののようだった。いうなれば俺は、大学と新聞配達店によって束縛された奴隷のようなものだ。
だからそんな話を教室でやって学費値上反対の雰囲気を盛り上げようかと思うことがある。しかしそんな話を実感的に理解する奴がどれほどいるだろうか。同情はされたくない。同情されると、自分のみじめさが強くなりそうだ。そんな思いがあって、学費値上反対運動も俺には今一つ気合いが入らない、といった状態が続いていた。
そんなこんなで、十月になると国民会議の動きが目立ってきた。数年前から続いている九州の炭鉱労働者の闘いを含め総評系の労働組合による政治的ストライキ「安保改定反対」のゼネストが十月十二日に予定され決行された。自分たちの賃金闘争にだけ関心をもっているかのように見えた労働組合だったが、国民全部にかかわる政治的課題に取り組むというのはたいしたことだと思う。しかし全学連幹部はそれもまた、生温いという。全学連のそうした論理が俺にはよくわからないのだったが、ようするに全学連幹部はすべてを社会主義革命の一環と考えていて、そこに至るための不満を言っているのではないか。小野田たちの<革命的前衛>を聞いているとそんな風に思えてくる。
俺の直感が当たっているのかどうかわからないが、総評系のゼネストが終わった後、全学連は安保反対全国学生ゼネストを呼びかけた。それに呼応する明大では学費値上反対とあわせて臨時の学生大会を開いたのだったが、反対多数で全学ストは成立しなかった。そこで次に各学部自治会が学生に授業放棄を呼びかけた大講堂での「安保反対・授業料値上げ反対全学大集会」を開くこととした。そこに理事を呼んで吊し上げる予定だったが、理事は一人も出てこなかった。
そんな時期、俺がいたく驚き、嫉妬を感じる出来事があった。国民会議の第七次統一行動に次ぐ十一月二十七日の第八次統一行動は、国会議事堂周辺だけで七万人が集まったと発表された。前回のゼネストなどを含め、だんだんと国民の熱が上がっている感じだった。全学連のテモ隊もその中にいて、俺もいた。国民会議のデモを批判しながらも、全学連がその中にいるのが俺には好ましいことだった。やり方が違っても同じ隊列の中にいて、禁じられたジグザグデモを繰り返したり、これまた禁じられたプラカードや旗を立ててより強く「安保反対」を示そうとする。こうしたやり方も俺は好きだった。
国民会議は議事堂周辺では禁じられている事を守り、静に行進しながら出迎えた国会議員に「安保反対」の署名簿を手渡し請願する。こうした静かな請願行動を全学連は<お焼香デモ>と批判する。また全学連は自分たちの声を直接国会に届けようと、「国会議事堂内抗議集会」を開こうと主張し、議事堂の正門をはじめ南北にある通用門の前にデモがさしかかると、それを破り議事堂に入ろうとする。考えてみるとしごく当然のことであり、かなり効果的と思われるのだったが、それがそう簡単ではない。正門には数台の装甲車が並べられ門扉に触れることも出来ない。二つの通用門も数十人の機動隊が立っており、門扉も硬く補強されている。それを突破するのは至難の業といった感じだ。
俺は学生委員になって以来ほとんど毎日デモに参加した。その度に学生委員の立場としてデモ隊の先頭にいて横断幕を持ったり、笛を吹いて隊列を整える役をしてきた。議事堂の回りをジグザグデモをしながら、それぞれの通用門を破ろうと体当たりするのも度々だ。しかし機動隊はそれを予測して防御している。だから国会突入も掛け声だけのものに終わっていた。
その日も同じだった。国会議事堂周辺が七万人のデモ隊で埋められている中、ジグザグデモを続け、すべての門で機動隊と小競り合いするのだったが、機動隊の防御線はビクリともしなかった。
俺はその後、いつものように午後三時半になってデモ隊を離れ店に戻る。それが俺の生活であり労働形態だ。小野田はもちろん自治会室の活動家はみんなそれを認識している。
夕刊を配った後、もう一度学校に戻り、デモの様子を聞いたり、ビラを作る手伝いをすることがある。しかしその日は店員達と無駄話をして過ごした。だからその日の出来事を知ったのは次の日の早朝、午前三時に起きて朝刊を配る準備をしている時だ。新聞一面トップに黒抜きの活字が躍っていた。「全学連国会議事堂に突入」その下に大きな写真があった。活字の仰々しさに比べ写真の情景はしごく穏やかだ。黄昏といえる薄闇の中、背景に国会議事堂の大きな建物がある。そしてそこに静止したデモ隊。旗もあるので学生だろう。<どこの学校だろうか>そう思って見るが旗の文字は読めない。しかしそれはまぎれもなく国会議事堂の中庭だ。背景の建物との距離感、あるいは画面端に写る整った植木など。黒い活字が持つ激情性とは違って、写真にその感情がないものの、俺にはその静な映像がいかにも現実的だった。<こんなことが出来るのか…>。どうやらその日、社会党の国会議員が議事堂正面から請願に入ったらしい。それに乗じ、正門が開いた隙に全学連が突入したという。いずれにしろ俺にはこの上なく羨ましい光景だった。
配達を終わってから落ち着いて新聞記事を読むと、見出しの賑やかさとは反対に、結構批判的なことが書かれていた。全学連の<過激>は以前から批判的にみられていた。同情的なのはせいぜい<学生だからできること>くらいで、その<過激>が今や国民的広がりをもつ安保反対闘争をリードしているとする新聞はなさそうだ。そこが小野田たちの言う<革命的前衛>との違いであり、小野田が言うとおり大新聞が独占資本の手先であるなら、それはそれなりに仕方ないことだろう。
正直いって全学連の<過激>が安保反対闘争にとってどれほど効果的なのか、<正しい>のか<間違い>なのか俺にはわからなかった。絶対的なものはないはずだ。だからいろいろやってみるしかないと思うが、そうした政治的効果よりも何よりも、俺の心に響くのは、ありふれた価値や既成の制度が目の前で崩れていく実感、擦れ違うような皮膚感がこの上なく新鮮なものに感じられる。そのうえこれまで何回も試みた<国会議事堂突入>が自分のいないところで実現したのだ。そこにいなかったのが悔やまれてならない。
そんな出来事があった数日後のことだった。文学部自治会室で立看作りをしていると小野田と定岡が渋い顔で入ってきた。
「出来レースだったんだ。理事はしょせん独占資本の手先よ」
小野田がプリプリしている。その日の午後急遽理事会が開かれ、駆けつけたが議論が打ち切られ、学費値上げが簡単に決まったらしい。
「これで学生が怒りを持ったら最高だな。これからが勝負よ」
マルクス主義者で革命家の小野田は何でもそこに結び付ける。
「我々が勝ち取ったのは一つだけだよ。値上の条件として出しといた勤労学生の授業料免除だ」
定岡が俺を見ていた。条件闘争をやる柔らかいところがあったのか…。定岡が俺に近づいてきた。そして肩に手を置いた。
「あんたの名前出しといた」
小声だった。<何んのことだ…>俺は思った。他にも学生がいて、ガリ切りをしたり木枠を組んだりしている。しかし彼らが特別関心を持っているようには見えなかった。<俺の授業料がただだというのか…>定岡の言う勤労学生がどの範囲なのかわからないし、尋ねる気もしないが、授業料まで自分で稼いでいる学生は周りで知れる限り一人しかいなかった。
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明子が突然東京に来たのは俺が大学二年になった春だった。彼女は四歳年上の従姉だった。これまで何回か東京に来ていて、大泉学園という私鉄駅近くに家を持つ伯母のところで家事手伝いをしながら看護婦養成学校に通ったりしていた。しかし三年前、俺が密かに大学入試の準備を始めた頃、看護婦の資格試験に失敗して田舎に帰っていた。彼女の家は津沢の町の中にあったので、以前から学校の帰りによく遊びに行ったものだ。東京から戻ったころ、東京の大学に入った彼女の同級生の話が出ていた。その男が新聞配達をしながら大学に通う男だった。俺は入試の準備をしているのを人に話さないようにしていた時期だったが、東京の空気を知っている彼女には胸の内を話していた。すると彼女が友人のことを話したのだ。彼女もまた「そんなことが出来るんだって」と驚きの表情だったが、その話で俺は自分の心を決めたと言っていい。
「川田電話だ」
素っ気ないおやじの言葉でおやじの部屋にある電話器をとった。朝刊を配って飯を食っている時だった。こんな時間に新聞配達員に電話を掛けるのは珍らしいのではないか。しかしそれが明子からだとすると、彼女は東京での新聞配達員の生活パターンを心得ているのかも知れない。そしてそうだとすると、三年前の彼女の友人の話が改めて身近に迫る。
「今東京に来とるんじゃ」
明子が言う。
一瞬信じられなかったが、俺がひと時仮宿した伯母と、もう一人東京にいる伯母の弟、俺の母の弟でもある伯父に自分の居場所だけは知らせておいた。明子はその伯母の家から電話を掛けてきたのだった。
「明日御茶の水駅まで行くけん。会うてくれる?」
「ええけど。どがいしたん?」
くすぐったいような懐かしい方言だった。
「会うてから話すけど。いろいろあってなぁ。伯母ちゃんに相談に来たんじゃ。明日は清ちゃんとこえ行くけん、そのついでにそっちへ寄る。御茶の水駅の聖橋側の改札口で会おう。一時頃でもええか?」
明子は俺よりはるかに東京を知っている。彼女が通っていた看護婦養成学校も御茶の水近辺にあったはずだった。明治大学の位置も把握しているのだろう。
このようにして、久しぶりになつかしい田舎の方言に触れ、気心の知れた明子に会うことになった。明子が言う“清ちゃん”とは長井清。二人にとって伯父だった。明子が寄宿する伯母は俺たちの親戚の中で唯一経済的に成功した女だった。それだけでなく、彼女が育った実家、俺もそこで育ったのだったが、そこには<登紀子の神話>とでもいえそうな話がたくさんある。子どものころから天才少女と言われる女だったようだ。<男だったら総理大臣になれる>というような神話はある意味平凡に聞こえるくらいだったが、津沢の高校を卒業する時、校長がわざわざ家に来て彼女の両親を前にそのようなことを言い「是非大学に進学させてやってほしい」と頼みこんだという。そのため父親が田圃を二枚売って金を作ったともいう。誰からも反対され、一人として歓迎する者がなかった俺に較べると天と地の違いだ。東京女子大というクリスチャン系の大学に入ったらしい。彼女は今も日曜日の教会に行くクリスチヤンだ。そしてそのためなのかどうか、彼女はけっこう人思いでやさしいところがある。俺の大学進学に反対しながらも、結局助けてくれるところなどは、そうした気性が現れていると思うし、俺自信、彼女のそうしたやさしさに期待したところがあった。
もっとも、そうはいっても、その気性がそのまま広く広がるわけではない。ある局面になると、妥協を許さない厳しいものになる。
それは本来彼女の性格に関係ない事柄と言うべきだったが、現象としては彼女の性格として厳しい形で現れる。一人の人間として、一人の女の人生として考えれば、非常に残念だと思うのだったが、他の誰の言葉というわけではなく、それはやはり彼女自身の言葉として現れる。そしてそれが、俺が彼女の家に長くいることが出来ない理由でもあった。
それはまた、明子が明日会いに行くというもう一人の親戚、俺たちの伯父、登紀子の弟にあたる長井清と姉弟でありながら一緒に生活しない原因でもあった。登紀子は二人の家政婦を置いた独人暮らしだ。しかも独人暮らしには広すぎる二階家を持っている。親戚の者が寄宿しても何の不都合もない様子だった。それでも俺や清が一緒に暮らせない理由と原因がある。
その理由を考えると俺と伯父の清は、登紀子を前にして同じような立ち位置だったし、その意味で清と俺は考え方が合うのだったが、正直いって俺は清が好きではない。ずるい男なのだ。ずる賢いのではない。ずるくて汚い奴。いやらしい男だ。しかし俺にはそれ以上に、伯母がこだわり、清や俺と対立する原因の方が困る事柄ではあった。だから清のずるさを我慢して彼と付き合うことがある。そんな微妙な、やっかいでおかしな疑問難問が俺たち親戚の間に横たわっている。
清は俺が大学に入ってまもなく東京に来たのだった。俺が大学に合格したので嫉妬したと俺は思っている。しかしまあそれはどうでもいい。清は小説家になるといって実家にある五反ばかりの田んぼの半分を自分の相続分として売り、金を作って出て来た。
俺の母はそんな清を窘めたらしい。が清は、登紀子もそうやって東京に出た、と言い張ったという。俺の母は嘆いたし、誰が考えても登紀子と清の言い分では質が違うだろうが、そんなことに何らためらいも羞恥もないのが清だ。女ばかり五人姉妹の最後に生まれた男の子として甘やかされて育ったのだと俺は思う。とはいえそれでも、清より二十年近く遅れて生まれた俺には、わからないことの多い清の性格だった。
俺の母・伸子は清のすぐ上の姉で、十九歳で父川田新次郎と結婚した。同じ岡山県の山奥の村だ。結婚してすぐ神戸に出たが、父が早世したので母は自分の実家に戻って俺と弟の文博を育てた。その他に家には、母の姉が若い頃生んだ男、俺の従兄弟にあたる長井順一もいて、結構な家族数だった。そしてその一つの家に川田と長井の二つの姓があるのもそのせいだった。俺は何も意識しなかったが、その家の長男の立場にいる清には悩みの種だったらしい。だからいかにも清らしく、ずるくて汚い方法でそれを解決することになる。しかしまあ、そのいきさつは追々に書くとして、清が作家になろうとするきっかけが、俺の人生にけっこう影響を与えることになるのだった。
清は若い頃軽い結核にかかっていたらしい。だから俺が物心ついたころでも、それを理由に仕事をせずに遊んでいた。その頃家にあった五反ばかりの田圃は俺と順一が耕し米作りした。毎日の生活に必要な現金は母が病院の炊事婦をして稼いでいた。その頃すでに東京にいて小さな結核療養所を経営していた伯母・登紀子が清に医療費として毎月まとまった金を送っていたようだ。清はそれを当てにして毎日町に出て、映画を観たり友人と会ったりしたらしい。
そんな時の友人というのが、清がひと時入院していた病院の文学仲間だった。彼らが出している同人誌に清がたまたま一つの小説を発表した。同人仲間は雑誌を何人かの有名作家に送り、彼らの評価を楽しみにしているのだったが、そんな作家の一人、左翼的作家として有名で俺でもその名を知っており、本を一冊くらい読んだことのある作家が清の小説について、未熟ではあるが大きな可能性を持つ人と評価した手紙を同人グループに当てて来たと言う。これで清が舞い上がった。
当時俺は高校一年だった。外で働く母の帰りが遅かったせいもあって、清と順一を頼りに遊びに来る村の青年が大勢いた。そんな青年たちに、作家から来た手紙を清が読んで聞かせる。しかもそれは一度ではない。俺は何回もそれを聞いた。隣の部屋で布団を被りながら、こんなことでいいのかと思った。清を励ます作家の言葉は、その文を見てなくても清が読むのを聞くだけで真摯なもので、胸に届くものがあった。そのため清はよけいに舞い上がるのだろうが、それは人に読んで聞かせるようなものではないのではないか。真摯な気持で手紙を書いたであろう作家に失礼ではないか。俺はそんな思いで、のぼせ上がった清の声を聞いていた。
その有名な左翼的作家・野茂広治が、清の小説を未熟と言いながら可能性を奨励する意味は、清が読み上げる手紙でよくわかる。<被差別の痛みを持つ者の大きなエネルギーが爆発する作品であり、その完成への限りない期待をもっている>。というもの。そしてそのための激励だった。
このような激励に異を唱える<被差別者>はいないと思う。俺もそうだ。しかし清のやり方はちょっと違うのではないか。そんな思いがあった。そんな思いにはもう一つ理由があった。清は作家に送った同人誌を何冊も家に持ち込んで、青年たちに配っていた。だから当時俺もその小説を読んでいた。
暗い映画館の中で見知らぬ女の胸に手を延ばして触る。触っても女が逃げもせず黙っておれば成功だ。そして女の体を撫ぜまわし、女の体から力が抜けていくのを感じたら、そっと耳元で囁き外へ誘い出す。それに応じて来ればもうこっちのもの。暗くなった河原に連れ出し、女の急所を撫ぜ、抱き込んで、硬くなった男のシンボルを押し込む。その快感。しかしその快感は愛でも何でもない。復讐だった。「これは復讐だ、復讐だ、と言いながら彼は腰を突き上げる」そんな表現で終わるのだった。
物語の粗筋を書いただけのような文章であり、野茂が言う通り未熟な感じだったが、物語としては意表を突くものだろうと思う。とはいえ、清を知らない者には意表かも知れないが、清の身近にいる者には意表でも何でもない。いつも清がやっている遊びなのだ。それがわかるのでガッカリだ。作家の手紙が来る前から清はほとんど毎日町に出て、映画館に入っては女を引っ掛ける。登紀子から送られる医療費がその資金に使われた。しかも、毎晩遊びに来る村の青年に、その遊びを手柄話しのように聞かせるのだ。だから自分の遊びを小説にしただけと言ってよい。
しかもその上、<被差別者の痛み>とか、何かの<復讐>というのは、性癖のような自分の遊びを正当化しているだけという感じが湧き上がってくる。もし本当に<復讐>などと考えていたなら、清はそんなに軽々しく人に話さなかったのではないか。そして例えば、それらの言葉の背景になっている部落問題を考えたり話したり、あるいはその勉強をしていたりの、何かの跡形があったのではないか。そんな思いがするのだったが、当時そのような跡形はまったくなかった。
そんな清が小説の完成に集中すると言って東京に出て来た。田舎にいても仕事は何もしていないのだから時間は自由なはずだった。誰も邪魔をする者はいない。それでも東京に来ると言うのが清的だと思う。俺に言わせれば<それらしく格好をつけている>としか言えない。しかも田圃を売ってまで出て来るのだ。登紀子の真似をしたのだろうが、清の性格を知っている者にすれば、それも屁理屈だろう。しかしそれを指摘する者がいないのだ。だから清は平気で屁理屈を通す。しかもそこに<<被差別の痛みを持つ者の大きなエネルギーが爆発する>と激励する有名作家のバックがある。
清が登紀子の家に寄宿出来ない理由はここにあった。登紀子は、清のテーマである<被差別者>の立ち位置をすっかり捨てて、一切口にしないようにしている。そしてまた、そこには彼女の人生を左右した出来事があった。
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