第三者の評価に基づいて―評価の「真」を問う
- 2014年 4月 12日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
人はどれほど自らの評価で物事を判断しているのか。たとえ自らの評価と思っているものにしても、生まれ育った社会とその歴史、言語や教育から完全に切り離されたものではありようがない。そこから全ての人は所属する社会で生まれ育ってきた歴史や環境、現在の状況から、立場などさまざまなものから総合的に事象を理解して合理的に判断しているという理論?が出てくる。ところがこの理論、議論を分かりやすくするための仮説に過ぎない。人は往々にして合理的でない判断を下すことがある。
人は何かについて考え判断をし続けているが、妥当な判断をしているのかと考えると少なくとも二つの点で怪しくなる。まず何に基づいての判断なのかということ、次にその判断はどこまで誰にとって合理的なのか。この二つがはっきりしないと、判断がどれほど妥当なのか分からない。
ここでは、合理的でない判断をくだすこともあるというのを横に置いて、何に基づいての評価なのかに限定して話を進める。
人は常に誰かの何処かからか得た情報や巷の評判や風説を基に何らかの理解をして事象を評価する。ほとんど全ての人が、どのような組織に属していようが、事象の一次資料、一次データ、誰の手によっても処理されていない生の資料やデータを持っていない。仮に持っているデータが生のデータだったとしても、そのデータがどのような経緯で入手されたものなのか、その入手プロセスが事象に影響をおよぼさない、また全ての事象から一切バイアスのないデータがありえるのかと考えれば、データはたとえ生であったとしても、必ず何らかのバイアスがかかっている。仮にかかっているバイアスが無視できる程度だったとしても、そのデータをどのように処理して判断の素材とするか、その処理には必ず処理する人の、あるいは組織の思い入れや都合が影響する。
社会が発達すればするほど、専門領域が細分化され、個人の能力で知り得る、理解し得る領域が狭くなる。自分では分からない、理解し得ないことが増え続ける。その結果、意識してしないにかかわらず、全ての人が誰かの評価-第三の評価を基に自分の判断だと思って判断することになる。どのような判断になるかは、しばし一義的に知り得た第三者の評価でしかないにもかかわらず、自分の判断だと思い込んでいる。
ここまで何に基づいてといってきたが、話を先に進めるためにもう一歩踏み込んで、何を分解する。人が何に基づいてという“何”に対する信頼をかたちづくるのは“誰”が“何”を言っているかという二点に拠っている。
“何”の内容が聞いている人の理解の能力を超えたところに至る、あるいは理解が難しいと思った途端、人は言われている内容-“何”からではなく、言っている人の評判に拠って聞いていることの正当性を判断する。よく言われる“何を言っている”のかではなく、“誰が言っている”かによって“何“を受け入れ、自分の判断の拠り所にするかを決める。きつい言い方になるが”考える“を放棄して”信じる“に堕落する。
科学技術の進歩が加速してグローバル化し続ける社会では、たとえ個人で知り得る、理解できることが絶対量として多くなったとしても相対的には少なくなる。増え続ける情報に人の情報処理能力が追いつかない。そして、“誰が言っているのか”を物事の判断基準とする社会になってゆく。“何”の信頼性は“誰”によって保証されているはずという判断基準に至る。それではその“誰”の信頼性はどのようにして評価し得るのか?さらにその“誰”も。。。オリジナルの何を提供するのは、一握りの専門家(と思われているに過ぎないにしても)集団やその使徒に限られ、巷の“誰“は、専門家として振る舞い、人々からもそう思われてはいるが、しばしば伝言ゲームの一プレーヤに過ぎない状況に至る。信頼性を評価すべき対象としての”誰“を”誰“の評価を基に評価すればいいのかということになる。さらに専門家のほとんどが自分たちがしてきていることに批判的な立場を取ることは当然希で、自分たちに瑕疵があったとしても巷の人たちには公正に見える体裁を整えながらも自己弁護に終始する。
ほとんど全ての人たちが自分で“誰”の信頼性を検証する能力も術も持っていない。そこでは信頼性に関する情報を提供するのは第三者にならざるを得ない。それでもこの第三者の信頼性は。。。と限りなく信頼のある誰か探しになる問題は解決できない。実社会では信頼性のおける第三者として、例えば安全性に関する公共機関の認証だったり、歴史によって培われた企業の評判だったり、英語検定や資格試験を提供している準公的機関のような体裁をまとった社会法人だったり、調査会社や格付機関だったりする。
結果として、巷で信頼のおけると考えられているというのか思い込まされているだけなのかもしれない第三者の信頼性が、たとえどれほどのものかという疑問は即社会の信頼性の骨格に対する疑問になる。リーマンショックに続く金融危機でその骨格が揺らぎ今までの暗黙の信頼性に基いて、鵜呑みにしてきた人たちの判断基準が崩壊するのを見てきた。
近代経済学が高等数学の導入に偏重したというのか、数学者が経済学をその応用領域として活躍したのか、それとも経済学者が高等数学を一つのツールとして導入したのかは知らないし、知ろうとも思わない。知ったところでなになるという気持ちの方が強い。彼らが社会と人のありようを科学の名のものとに簡素化し数学を駆使してモデル化した。
扱える範囲の都合のいいデータに限定し、実社会から乖離した単純なロジックで成り立った社会を仮説として唱え、それがときの政治権力層によってもてはやされたに過ぎないのを、金融市場の崩壊で思い知らされた。
格付機関や調査会社、半公的な顔をした調査機関や保険機構。。。優秀な専門家集団がそろいもそろって疑ってしかるべき第三者の評価に基づいて、しばし自らも根拠の疑わしい評価を提供する第三者として振る舞い、機械的に物事を評価してきたに過ぎないことが露呈した。
巷の人たちが専門家として崇める金融機関のアナリスト、エコノミスト、有象無象の評論家連中から、多少の距離をおいてマスメディア、その後ろ盾となった御用学者。このうちの誰が一次データを自らのロジックで分析し、自らの判断基準で物事を評価してきたのか、あるいはする能力があるのか。単純なロジックで仮説を事実と勘違いしてか騙してか売り歩いた学者先生以外には皆無といって差し支えないだろう。巷の人々の目には優秀な専門家のはずの人たち、極端に言ってしまえば伝言ゲームの一プレーヤに過ぎない。根拠を問われても、そう言われているからそうなんでしょうとしか言えない程度の状況把握に過ぎないものが専門家として公言してきた。
社会の進歩が専門家を極端に狭い領域での専門家にするとともに伝言ゲームの一プレーヤを巷の専門家としてきた。もし市井の人たちが、その専門家からでてくる評価に基づいてしか社会の事象を評価し得ないとしたら、一体何を基にして何を評価し判断してゆけるのか。第三者の評価を拠りどころとしなければ、何の評価もし得ないし、社会が成り立たない。それでもし得る些細な努力が一つある。“誰が言ってる”からと鵜呑みにするのを避け、言っている“何”に対して“なぜ”という説明を試みれば多少の助けになるかもしれない。説明できなければ、どこかにロジックの欠陥がある、あるいはごまかしがある。
2014/1/5
模倣主義的行動―自己弁護に
その程度の人たちが専門家として大手を振って生きてい行ける。
簡素化もモデル化も高等数学をもってしてはじめて可能になった大層なものに聞こえるが、要は能力に合わせてできることをしたまでに過ぎない。簡素化しなければ彼らの能力ではモデル化できなかったと言った方があたっているだろう。
巨大な予算を持ちノーベル賞に輝いた数学者や経済学者が揃って大きな過ちを犯した。彼らは犯したとは思ってないだろうし、犯したとこと認める程真っ当な人間ではないだろうが、そもそも合理的判断なるものは何に基づいてなのかという彼らの仮定の最も基本的なところで、彼らの都合のいいように簡素化された。
格付機関が何に基いて合理的な判断をしてきたのか?彼らの判断を判断基準として世界の多くの政府や金融関係、製造業からサービス業に至るまで、自分たちで判断したと思ってきたのだろう。判断したのはそれぞれの人たちで、企業であり機関だったろうが、判断の基礎は第三者の格付機関から提供されたのもだった。それでは、その格付機関が何を基礎として判断したのか。さすがの格付け機関であっても、全てが一次資料でも一次データでもないだろうし、まして、その基礎データを基に最終的に判断する人は、社会の、歴史の教育。。。全てのバイアスから自由に自分で判断したといえるのか。あり得ない。
自分で責任の取りようのない第三者の評価、どのように下されたのかも知り得ない評価を基に、とんでもない影響のある評価を自らの評価として提供することによって禄を食んできた人たち。彼らが提供する判断材料なるもの、そこらの詐欺師のうまい話の根拠としてささやかれる巷でもっともらしく思われる情報、根拠を知っててささやかれる詐欺話の方が、ある意味真っ当とさえ思える。
巷の人たちが聞いて、うん、そうだろうと信じるガセ。金融機関が金を払って提供を受ける第三者から提供される情報。その情報の根拠はと突き詰めていったら、ああだのこうだの、高等数学の出番もあれば、多変量解析なり、なんとかアナリストなどという輩のお知恵もあるだろうが、どこかから出てきた一次データとその処理が、まわりまわってその社会のなかでの常識にまでなったことがあちこちでこねくり回されて、ありがたい基礎判断基準にまで昇華したものに過ぎない。誰も百パーセント自分の知識と情報を基に判断し得ることはない。常に、自分でもなく、評価される人でも組織でもない第三者の評価、あっちの第三者、こっちの第三者、。。。絡み合って融合して別れて。。。を基に判断している。その判断も、歴史的、社会的には、あらゆる点でその人の百パーセント独自のものではあり得ようがない。
ノーベル賞級の学者が高等数学を駆使して開発した経済政策。それを濫用して金儲けに走った金融界。学者先生も金融界の融資や債権に関してはプロの人たちも、その人達より明らかに経済のことも融資も債権についても知識も情報も限られている巷の人たち、プロの人たちの犯した経済犯罪の後始末にこうした巷の人たちの金が使われる。
彼らの大前提である合理的状況と合理的判断なる人の判断のモデル化、人はどこまで自らの知識と能力で事象を理解し合理的に判断しているのかを説明しているという。
全ては統計処理で処理できる、。。。
その道の専門家を自認する人たちのうちどれほどの人たちが独自のデータ収集と独自のデータ解析にもとづいて物事を判断しているのか。ほとんどすべての人たちが、一握りのあっちの、こっちの専門家と呼ばれる人たちから提供されるブランド品のような評価を基にか、組み合わせてあたかも自分の独自の評価のような顔をしているようにみえる。
その顔しているように見える人たちが評価の社会での多数派を締め、少数派-多数派とは違った評価を下す人たちを評価市場の片隅に追いやっている。多数派のムードのようなものが支配的になって、否というのはかき消される。自分の評価と言いながら、あるいは思いながらも、実は評価の受け売りに過ぎない人たちがほとんどではないのか。
扱える範囲で都合よく取り上げたデータに限定したうえで、社会や人々の判断プロセスを彼らの扱える範囲に簡素化した。彼らの能力の限界から経済判断はすべての情報が公平に公開されていて、それに基づき全ての人たちが合理的判断という仮説-小学校レベルの仮説を必要とした。それ以上複雑なモデルを作り上げる能力がない。環境条件の仮説も、判断ロジックの仮説も現実離れしていること、そこから導き出される経済指標が現実から乖離している、彼らの社会思想が長期的視点では社会の問題解決にならないことは当初から分かっている。フツーに考えれば、誰もがそう思うはずなのだが、彼らの出してくる経済指標も社会思想もある特定の社会層が必要としていたものだった。
記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion4809:140412〕
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