連作・街角のマンタ(第二部) 六月十五日(その5)
- 2014年 4月 13日
- カルチャー
- 川元祥一
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その日は正午に正門前からデモが出発するのをビラや立看で知らせていた。いつもだったら学生が昼飯を食う時間を考慮するのだったが、この日はその考慮もしなかった。それでもいつもより多い千名近い学生が正門前の通りに並んでいた。言わず語りに国会突入の期待があるのだろうか。俺は自治会室に戻り、そこに常備している二メートルくらいの太い棒を持ち出しデモ隊の先頭に立った。デモは六人隊列。その先頭に棒を横に渡して隊列をコントロールする。この役を俺がすることが最近多い。三、四年生の指導部がそれを許すのは俺がジグザグデモをためらわないからだろうと思っている。横棒をコントロールすることで隊列の動きをどうにでもできる。ジグザグデモもフランスデモも意のままだ。これまでは文学部の隊列でその役をやっていたが、最近はその文学部が全学の先頭に立っている。参加する学生が多いからだ。小野田と定岡が総指揮で景気づけの笛を口にくわえて自由なスタイルを取っている。学校旗の騎手はフランス文学の山田だった。各学部でそうした役分担がいつのまにか固まっているのだった。
駿河台下の交差点を右にとり靖国通りを登って行く。九段下辺りではいつもジグザグデモをして自動車を止めてしまう。付き添い役のように横を歩く警官隊にすぐ止められるが、警官隊ともみ合っているのもそれなりに面白い。靖国神社の横から千鳥ガ淵を回り、三宅坂を通って国会議事堂に近づく。
議事堂の前にあるチャペルセンターにたどり着くと、すでに色とりどりの学校旗がひらめいていた。それぞれの学校のリーダー達がハンドマイクでアジッているので会場は騒然とした空気だった。全学連だけの集会なので、これまでと比べて迫力が足りないかも知れないと思っていたが、そんな心配はなさそうだ。参加者は八〇〇〇人以上という話が伝わった。国民会議と一緒のときは六、七千人くらいなので、やはり参加学生が増えている。しかも反主流派もデモを組んで清水谷公園に行っているわけだから、参加学生が急増しているのは間違いないだろう。
正面にある全学連の街宣車の屋根に二人の男が登って国民会議の“お焼香デモ”をなじった。そして全学連単独集会の宣言などと、威勢のよい言葉をならべる。国民会議との別行動をけっこう意識しているのだろう。そして「我々全学連は去年十一月二十七日に続き安保反対国会構内抗議集会を決行する」とぶち上げる。
その時マイクを持っていたのがその頃新聞紙面を賑わしていた全学連委員長・唐道清太郎(唐牛健太郎)だった。去年十一月の国会突入の責任者として一月に逮捕されたのだったが、意外と早く釈放されたようだ。
唐道が立つ街宣車の向こうでは、国民会議のデモ隊がたどりつき、労働組合や市民団体の華やいだ旗が次々と降ろされ、畳まれていく。国会議事堂で請願運動するにはこうしなくてはならない。誰がいつ決めたのか知らないけれど、国の最高決議機関への抗議や請願の形だと言う。全学連主流派はそれを“お焼香デモ”として批判し、自分たちは決して旗を畳んだりしない。これも俺が全学連のデモを気にいる一つの理由だった。国の最高決議機関だとはいえ、主権在民が第一義であるなら、そんなことを行儀よく守る必要はないだろう。
やがて全学連街宣車の上の唐道がデモの出発を指示した。小野田が俺に近づいて横棒を握った。明大がデモの先頭だという。しかも最初からジグザグで行くという。
学校旗と学部の旗をはためかせ、デモ隊を動かした。膨れあがるような学生と様々な学校旗、プラカード。その中で動きだすデモ隊はまるで重戦車が動くようだった。
議事堂周辺の道路は国民会議のデモ隊で埋まっていた。旗やプラカードを降ろした彼らはまるでピクニックのようだ。そんなデモ隊の中に割り込んで行き、彼らを挑発するかのようにジグザグを繰り返す。
ここにきて、昼飯の時間を無視して十二時に学校を出発した意味がわかかった。国民会議より先に来て、彼らのデモ隊が議事堂を取り巻く、このタイミングを計ったのだろう。そんなふうに思った。
国民会議の指導部は全学連のジグザグデモを人迷惑と避難するのだったが、こうして彼らの隊列の中をデモっていると、普通の参加者からは結構人気があった。これまでもそうした実感を持っていたが、その日も周りから大きな拍手が起こるのだ。そしてあちこちで「全学連がんばれ」と声がかかる。
汗ばみながら国会議事堂を一回りする。天気もよく、議事堂を取り巻く人の顔はキラキラ輝いていた。安保闘争そのものは決して楽観出来るものではないのに、デモに参加する者はもう一つ次元の違う<晴の時>のような空間を作っていて、政治がどのように転ぼうと関係なく、生き生きと呼吸している。そんなことを感じさせるひと時でもあった。
ひと回りして正門に近づいた。チャペルセンターを出た時からわかっていたが、そこには戦車に似た装甲車が四台、車体をビタリと着けて並んでいた。議事堂正門の大きな門扉がそうした装甲車で塞がれているのだ。しかもその前には戦闘服姿の機動隊が三重の隊列を作って立っていた。機動隊は、道路上でデモ隊を規制する町の警官隊とはわけが違った。戦闘態勢そのものだ。石などが投げられるのを予想してヘルメットを被り、防御の楯も持っている。軍隊にも似た姿だった。そんな機動隊が門扉の中にも何重にも並んでいる。門扉が破られた時の用意だろうか。何かの拍子に門扉を超えてくる者がいたら即座に取り押さえる体制でもあろう。昨夜から流れている国会突入作戦がわかっている証拠でもあるだろう。しかも唐道はこの現場で公然とそれを宣言している。昨年十一月二十七日は社会党などの国会議員がこの正門から安保反対請願を行った。そのため警備員が正門を開けた。そしてその間隙をぬって全学連が突入した。機動隊側にはその反省があるのだ。だから今日のここは「開かずの門」といった空気が漂っている。
「開かずの門」を前にして一度デモ隊列を留めた。後ろにいた早稲田大学の隊列が前に出て来て明大と並んだ。これで横に十二人の隊列が出来る。これで機動隊に突入する構えだ。デモ隊の勢いで機動隊を二つに割り、それを散らした後装甲車を引っ張り出して門扉を破る。そうした作戦がすぐ読み取れるのだった。
機動隊に体当たりするのは何回もあった。国民会議と一緒にやっている時でも、南通用門や北通用門を警護する数十人の機動隊にぶつかっていくのだ。隙あらば門扉を破りたいと思っていた。しかし、それはそう簡単ではないのがわかっていて、突入の真似事か機動隊への嫌がらせくらいで終わるのだった。しかし今日は違った。
早稲田が明治の右側に並んだ後一拍置いて「いっせいの」と声をかけながら突進した。機動隊が持っているアルミニューム制の楯に体当たりする。これまでの経験でわかっているのだったが、機動隊や門扉などに直接ぶつかってからは、先頭にいる者は身動き取れない。両方の圧力に挟まれて身動きできない物体でしかない。ぶつかった以上後から人が押してきて前に進もうとする。特にその日は一万人にのぼる学生が自分たちの力で門扉を破ろうと押し込んでくる。機動隊の楯に阻まれて息苦しく、骨折を防ぐのが精いっぱいといったところだった。
といっても、その圧力は当然機動隊に伝わっている。それを期待して我慢もし、さらに押し込もうとする。装甲車の前の機動隊は三重の隊列だったが、一万の学生が押し込む圧力にかなうものではないはずだ。少しずつ機動隊がさがるのがわかる。そしてやがて機動隊がバラバラと解けて装甲車の横に移動した。デモ隊の圧力にかなわないとみて、指揮官が指示したのだろうか…。
学生たちは蟻のように装甲車に取りつき、取り巻いた。もうこっちのものだ。そう思った。装甲車は後ろ向きだった。そんな装甲車の屋根に全学連中執の誰かが登り、引きだすよう呼びかけた。学生が嬉々として取りつき引き出そうとする。しかしビクともしない。動かないようしっかりした装置が仕掛けられているようだ。横倒しにゆすってみるが、四台の装甲車がピタリと並んでいて、横には動かない。屋根の学生が気づいて車を引くのではなく、前に押すよう呼びかける。これなら装甲車の重さを逆利用して門扉が破れるかも知れない。第一、引くより押す方がやりやすい。学生たちに力が入った。気付くと俺の頭の上の装甲車の屋根にフランス文学の滝野がいて、明大生に気合いを入れる。それを見てまた誰かが登って行く。ワッショイワッショイと祭りの山車のようだ。それでも車が動かないのを知って、掛け声は綱引きのようになる。ヨーイショ、ヨーイショと力を合わせて押すのだ。なかなか気の利いたやり方だ。声に合わせて車を押す。装甲車がユラリユラリと動く。しかし前には進まなかった。しっかりしたブレーキが掛っていそうだ。
「奴らしっかり止めてるよ。この前の反省してんだな」
小野田が近づいて来た。小野田は十一月二十七日この正門から構内に入っている。その小野田の瞳は口とは反対にキラキラ輝いていた。
その時だった。一度下がっていた機動隊が膨れあがるように学生に襲いかかる。しかも警棒を振るった。頭を抱えた学生がギャーギャー騒ぐ。装甲車に取りついていた学生がたちまち散らかった。俺は装甲車に張り付きながら振り返り、学生に後ろへ下がるよう叫んだ。正門から二十メートルくらい下がったところで足を止め、隊列を整えるよう呼びかける。定岡も駆けつけた。校旗も近いところで揺れていた。その時、早稲田の隊列が正門の右側に動くのが見えた。その向こうの路上では国民会議のデモ隊が足を留め、幾重もの人垣を作って静かに見ていた。全学連と機動隊の衝突を鑑賞しているのか…。彼らはどんな気持で見ているのだろうか。請願行動はとっくに終わっているはずだ。それでも動いていないところを見ると、やはりこの衝突に関心があるのだ。過激な全学連に何かを期待しているのだろうか…。
早稲田の隊列が正門右脇の生垣に近づこうとして機動隊と揉めていた。すると、さっきまで早稲田がいた明大の横に水色の校旗が寄って来る。東大のデモ隊だった。同時に小野田が戻って来た。
「早稲田があそこで揉んでるあいだに、もう一回突っ込む」
なるほど考えるものだ。小野田たちが吹く笛が鳴り響き、ウワッと声が盛り上がる。東大と明治の隊列が熱っぽく、ジワジワと進んだ。機動隊の方も隊列を整え楯を並べて待ち構える。
とはいえ二度目の突撃は散々だった。機動隊が最初から警棒を振り回し、衝突する前から学生が逃げまどい散らばって行く。土手に取り着こうとしていた早稲田の学生も同じだった。俺も例の横棒を持って逃げた。この棒で機動隊と闘うことも頭を走ったが、勝ち目はなかった。無難そうなところに立ち止り、周りを見たが明大の校旗が見当たらない。学生を見分けることも出来なかった。この日のデモはこれでおしまいだろう。俺には時間の制限もある。俺はその後棒を担いで一人学校に戻った。仏文の山田に言わせると、デモの帰りに女を口説くとすぐ落ちるらしい。しかし俺にはそんな暇はない。今のところデモで燃えるしかないだろう。
次の朝刊を見て分かったのだったが、そのデモで唐道清太郎がまた逮捕された。いろいろと騒がしい男のようだ。ついでに言うと、唐道が最初に逮捕された去年十一月二十七日、同じように逮捕状が出た全学連書記長の秋水文夫(清水丈夫)はうまく身をかわし、今は東大駒場に籠城しているらしい。俺にはこっちの方が面白い。
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通常国会は五月二十六日で終わりだった。岸信介を党首とし総理大臣としている自由民主党(自民党)は、この間に日米安全保障条約改定を国会決議するため、強行決議も辞さず、といった構えだった。これに反対する社会党や共産党は審議不十分として国会会期を伸ばし、審議未了として廃案に持ち込もうとしている。しかし自民党国会議員が圧倒的多数の二八七名を占るため、一四六名の社会党議員と、たった一名の共産党議員ではいくら抵抗しても効果がない。五月の初めになって自民党の河野派や三木派が岸内閣に慎重な審議を求めることとなり、会期が延長される可能性がいくらか見えてきた、という情況らしい。
新聞の論評によると、昨年から始まった国民会議の安保反対運動は二十回ちかく繰り返されており、それを全国的に見ると三百万人の人が参加したことになるらしい。そして、これほど多くの日本人が政治的発言をし行動するのは歴史上初めてだとも言う。そうした情況を背景に、自民党国会議員の中に慎重な審議の声が広がるかも知れない。そんな期待も生まれているという。
全学連主流派の執行部は岸内閣による強行決議を警戒しようと呼び掛けていた。改定の是非を具体的に審議している衆議院安保特別委員会というのがあって、その委員会が民間人を呼んで意見を聞く公聴会を続けているが、それが審議充分として打ち切られる可能性もあるという。公聴会が打ち切られるようなら、つまりは審議が終わったということであり、強行決議の前兆とも考えられるというのだ。そのような情況判断のもとに全学連主流派は五月十三日、公聴会停止反対、衆議院通過阻止を掲げ、さらに国会構内大抗議集会を明確にしてチャペルセンターでの独自集会とした。
明治大学でも四月の独自集会と同じように、前日から自治会室に集まって準備した。その頃になると、貸布団を借りて学校に泊り込む活動家が増えていたし、俺もその頃は毎日のように晩飯の後、学校に駆けつけた。店にいて店員たちと無駄話をするよりはるかにやりがいがあった。
とはいえ、そのやりがいについて俺は店員達に話してはいない。このことについて俺にもいくらか忸怩たるものがあった。自分で満足していることを人には言えない。こんなことは俺の生き方からしておかしいのではないか。そんなことを思うのだった。<隠さなくてならないものはない>俺はそう思う。<隠さなくてはならない価値も俺の前にないはずだ>そう思うのだった。ほとんど毎日浸っている学生運動とデモ。これを店員達に話し、共感を得たり、安保反対の意思を店員に話して同意を得たりする。そんな自分が頭を過ることがないとはいえない。しかし俺はなぜかそうした自分に好感がもてない。<聞かれもしないのにベラベラしゃべる気がしない>そう思うことがある。それを話そうと話すまいと、俺たちを包む情況は同じだろう。新聞を見ておればわかることだ。そうした情況を前にして何を考えるか、何をするか、一人ひとりが自分で考えればいい。そして多分人は、良かれ悪しかれ、そうやって生きているのではいか。そんなふうにも思う。
しかし小野田は違うかも知れない。そんなことを考える。彼なら安保反対を店員たちに話し、もしかすると革命的前衛までも話すかも知れない。そんな風に想像できる正直な小野田を俺はある意味感服するのであるが、しかし俺はやはり、そこまでしたくはない。新しい未来が必要とは思うが、それは自分の現実から考えたい。自分がそこにいる足場から…。そうした意味で俺は活動家ではないのだ。活動家になりたいとも思わない。どこにでもいる平凡な一人の人間でしかない。
もっとも、そうしたことを考えていると、もう一つ、俺の脳裡をはしるものがあるのに気づく。例の疑問難問だ。部落民という言葉で表わされるもの…。俺はこのことを人に隠そうとしているのではない。話してやろうと思っている。話したらどうなるか試してみたいと思っている。叔母のことは知っている。明子がひどい目にあったのもわかった。その意味で俺はどうなのか、と思う。同じなのかも知れない。しかし何もしないうちに<俺もそうだ>と決めて生きることは出来ない。だからこの店でも、いつか話してやろうと思う。いったいどうなるのか…。しかしその機会が今のところない。だから隠しているかに思える時があるものの、何のきっかけもなく話すのは嫌なのだ。何のきっかけもなく、いきなり告白するなんて糞喰らえだ。当然、許しを請うようなことではまったくない。カミングアウトも意味がない。それを話すのは何かのきっかけがあった時、店員の間で故郷の話が出た時などだ。俺の村の辻にお地蔵さんがあるように、その歴史の一面を話す。そんな風に思う。
その日も深夜まで作業をしてから店に戻り、三時間ほど眠って朝刊を配った。そして再び学校へ。泊まり込んだ数人の活動家が早々と起きていて、なにやら気怠るい空気の中で立看をいじったり、印刷のローラを回したりだ。昨夜の張りつめた空気はどこにもない。なぜなのか…。そう思っていて気づくと、立看を書き直している奴がいる。
聞いてみると、今朝早くデモの方針が撤回され、会場が日比谷野外音楽堂に変わっていた。国会突入もやめるという。山田の話では、今の時点で国会突入をやると安保特別委員会の公聴会を閉じようとする自民党の言い逃れに使われる、と考えたらしい。俺には状況が読めなかったが、過激派を自認する全学連主流派も突っ張ってばかりではないらしい。そうした柔軟さもまた俺は好きだ。
一方国民会議は五月九日から十五日までの一週間を大きな山場とし、その週を第十六次統一行動週間と決めていた。総評・労働組合による時限ストを全国的に呼びかけ政府に圧力を掛ける方針も出している。五月十三日全学連主流派が日比谷野外音楽堂でこじんまりした集会をやった翌日、五月十四日に彼らは清水ヶ谷公園で中央集会を開き国民に向けて<非常事態宣言>を発した。岸内閣が強行採決をねらっているのをこの国の自立と民主主義の危機ととらえたのだ。それもまた大切かと思う。そうした危機感や制度の流動性の中で人は自分の意見を見出し、主張したり闘わせたりすることが出来るというものだろう。ただいくらか心もとないのは、そのような宣言を出す目的として、政府の意図を覆すきっかけを本当に生み出すことができるかどうか…。これもまた一つの形式に思えてしかたない。<もっと違ったやり方。政府からは見えないような、深いところでやること>そうしたものはないものなのか…。
次の五月十六日、全学連主流派が予想し、国民会議の非常事態宣言が危惧したように、衆議院安保特別委員会の公聴会が打ちきられた。自民党と岸内閣が本気で日米安保の改定、つまり新日米安全保障条約を成立させようとしているのが政治に疎い俺にもわかった。新安保の中身は最近の新聞で読む程度だったが、少なくとも日本という国の自立的要素がアメリカの軍事的要素に縛られるのは間違いなさそうだ。そうした条約をこれまで意固地に守り、そのうえこれほど多くの反対意見を無視して結ぼうとする政治やその権力の在り方が、何かに操られているようで、不可解な靄が感じられるのだった。
そしてその、国民全部が騙される五月十九日の深夜がやってくる。汚い手を使う狸じじいたち。奴らはやはり何かに操られている…。
その日学校から帰ると俺はいつもの通り夕刊を配った。晩飯を食った後「たまには一緒に行こう」と言う尾崎に誘われて近くの「ふじ湯」という銭湯に行くことにした。店に風呂がないので、いわばここが俺たちの風呂場だ。店で働き始めた時、おやじがすぐ教えてくれたのがこの銭湯だった。最初俺には違和感があったが、風呂場をひと目見ただけで違和感が消えた。特別驚くような情景ではなかったが<これが都会だ>と、感激さえした。その後俺は銭湯が好きになった。と言っても風呂に入るのは一週間に一回か二回。金を払うのが玉に傷だ。
店の古株であり店員のリーダー的存在でもある尾崎に誘われたのもこれまで二回ほどあった。彼は店の近くのアパートに住んでいるが、風呂はやはりここを使っていた。そんな尾崎がなんとなく俺に好意的なのを感じていた。デモに行って夕刊を配る時間が少々遅れてもうるさい小言を言うことがない。折込広告の手配などでミスがあっても、彼が黙って修正してくれたりする。働きながら大学に行くことにいくらか同情しているのだろうか。
二人で湯に入り、帰りに尾崎の馴染みの居酒屋に入って一杯飲んだ。新聞配達員の夜は早い。夜九時か十時には寝床に入る。だから酒を飲むといっても酔い潰れるような飲み方はない。たいていビール一本か二本飲んで帰って行く。
その時俺は、最近心に引っ掛かるものを思い出し、尾崎に話してみようと思った。朝夕配達している新聞には、ほとんど毎日デカデカと書かれている。しかも大きなデモがあった日に限って俺が店に戻るのが遅れている。尾崎が気づいている可能性はあるだろう。
どこまで話そうかと思いながら、大学で安保反対デモが盛んになっているのを話した。そして自分もたまにテモに行くと話した。尾崎はニヤニヤしていた。何か質問するかと思って俺はいくらか構えたものだ。しかし尾崎は関心を示さなかった。まったく関心がない、そんな感じなのだ。少なくとも大学のキャンパスで、また国民会議に参加する政党や労働組合では、けっこう大騒ぎしていると思うし、国会議事堂前では機動隊と学生の肉弾戦が、結構本気でやられている。それでもなお、びくりともしない生活圏の分厚い層のようなものがあるのか…。
五月十九日のその夜、俺が居酒屋で酒を飲んでいた頃、明大の学生自治会中執室には全学連指導部から非常事態宣言が届き、そこにいた活動家や夜間部の学生、教授などが国会議事堂に向かっていた。国民会議の方もその日の夕刻全国に緊急動員をかけ、労働組合や市民団体が続々と国会議事堂に向かったという。
俺が寝食している神田淡路町から四キロと離れていない霞が関の小高い丘の上。その夜そこで一つの歴史が刻まれた。小野田の好きな歴史的瞬間とはこのようなことだろうか…。しかし小野田の意に反してそれは<帝国主義反動>から起こっている。
その日の国会は、正午頃から議員運営委員会の理事会(議運理事会)が開かれ、そこで与野党の担当議員によって通常国会の会期延長をめぐる議論が行われていた。しかし午後になっても妥協点が見つからず紛糾していたという。通常国会の会期は二十六日までだった。その前に強行採決も辞さないとする自民党と、会期延長して審議をつくそうとする野党社会党などの対立だったが、自民党の三木派や河野派が中間的な立場に立っていて、議論が進まない状態だったようだ。
そのため十九日午後四時二十分、議運理事会はひとまず休憩をとり、それぞれ政党幹部を含めて根回しをし、解決の道筋を描こうとした。
ところが休憩にはいってまもなく、根回しの合意がみられないまま自民党の委員だけで、議運理事会ではなく議員運営委員会(運営委員会)が開かれ、五十日間の会期延長を強行決議した。会期延長に反対していた多数派の自民党委員が勝手に延長した形なのだから事は複雑だ。そしてこの時点で国民会議や全学連の緊急動員が始まったようだ。
一方、衆議院の日米安全保障条約特別委員会(安保特別委員会)も十九日の午後開かれていた。しかし平行して開かれていた運営委員会での会期延長議論が結論を得るまでとして休憩に入ったという。
こうした二つの委員会の動きを、自民党の政略と考えると、重大な政治的意味がありそうだ。安保特別委員会が休憩に入ってまもなく、運営委員会による会期延長が強行決議されたのだ。
そして、明らかにその強行決議を待っていたかのように午後十時二十五分、休憩中の安保特別委員会が再開された。唐突な再開であったようで、急いで戻ってきた野党委員たちは、その性急さに抗議し、異議申し立てをしている中、突然議長から審議中の日米安全保障条約改定案の承認を求める動議がなされ、自民党委員による賛成多数で新日米新安全保障条約と、関連法案がたちまち決議されたというのだった。この後は、衆議院本会議の決議を待つばかりだ。
しかも安保特別委員会で強行決議が行われると同時に、衆議院本会議の開会を知らせるベルが鳴り響いた。このベルを耳にした社会党議員が衆議院本会議場入口に座り込み、本会議の開会を実力阻止しようとした。それを見た衆議院議長の清瀬一郎が警官の出動を要請、社会党議員をゴボウ抜きして排除。それが十一時七分だった。
こうして開かれた衆議院本会議場には自民党議員しかいなかった。しかし彼らが絶対的多数だ。開かれた本会議では最初に、六時間くらい前に議院運営委員会が強行決議した五十日の国会会期延長を可決。それが午後十一時四十分だった。これで一九六〇年五月十九日の衆議院本会議が終了した。しかしそれから十数分後、つまり一九六〇年五月二十日午前〇時六分、再び本会議開会のベルが鳴った。延長したばかりの国会本会議の開会だった。集まるのは自民党議員だけだった。社会党をはじめ野党は本会議の強行開会や委員会での自民党単独決議に意義申し立てをし、本会議への参加を拒むことで国会会期延長を無効にしようとしたのだったが、絶対的多数を占める自民党議員には勝てなかった。清瀬議長が延長国会の衆議院本会議開会を宣言し、新日米安保条約に関するすべての法案を提案、自民党議員だけで可決した。
このようにして一つの歴史のページがめくられた。俺はその記事が一面トップニュースとして黒々と印刷された新聞を、まだ暗い東京のビル街を走り廻って配り、店に戻ってからめずらしく隅から隅まで活字を拾ったものだ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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