連作・街角のマンタ(第二部) 六月十五日(その9)
- 2014年 4月 17日
- カルチャー
- 川元祥一
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店に戻ると誰も寝静まっていた。玄関の戸をゆっくり引いた。新聞販売店の玄関はいつも開いている。折込広告の束がいつ投げ込まれてもいいように。そしてまた、号外新聞がいつ出てもいいように。俺は忍び足でベットに潜り込む。すでに一時を過ぎていた。仮眠のように眠り、いつものように午前三時に起きた。朝刊をいつものように配った。しかしおやじが朝からプリプリしているのが手にとるようにわかった。
尾崎の話によると、昨日の夕刊は新聞拡張員の杉山が呼ばれて配達したという。
「おやじは放っとけばいいけど、杉山には礼を言っとけよ」
尾崎が忠告してくれる。
「そうするよ」
「何してたんだい?」
「デモに行ってた」
「好きにすりゃあいいけど、人に迷惑かけちゃいけないよ」
「わかってるんだ」
これ以上何を言ったら良いかわからなかった。尾崎の優しさはわかるし感謝したが、彼が安保反対デモに賛成しているわけでないのがわかっていた。しかも、今朝の朝刊遅番では、その一面に南通用門の門扉を破ってトラックを引き出すデモ隊の写真がデカデカと載っている。その中に、洗濯もせずに今も着ているチェック柄のシャツの男が映っていた。俺の顔を知っている者がじっくり見れば気づきそうな気がする。そんな事を考えながら朝飯を食っていると、おやじが顔を出した。
「川田よ、仕事するのが嫌なら辞めてもらっていんだぜ。店は遊び人を雇ってるわけじゃねんだ」
それだけ言って戸を閉める。
次の日もデモが続いた。東大の女子学生・樺美智子が国会突入の際、機動隊の警棒の下で殺されていた。その抗議のため、明治大学は無期限ストに入り、学生から教授まで、その日国会で行われた抗議集会に参加した。他の大学もほとんど同じ状態で、いつものデモより多くの学生がいたようだ。しかしその集会は静かなもので、俺は三時前には店に戻った。おやじに少しは良いところを見せなくてはならない。
とはいっても、おやじの機嫌は直らないままだった。首を覚悟しなくてはならないな、と思った。しかし自分からすすんで辞める必要はないと思った。俺は別に悪いことをしてるわけではない…。
小野田が出所してきたのはその次の六月十七日だった。完黙を通したので起訴されずにすんだという。活動家たちがいう通り、やはり大物なのか。まあ、それはそれでいいが、俺には彼が出所してすぐ話した六月四日の首相官邸突入の様子が気にいった。その時の彼の姿は多分他の学生も同じだろうと思う。そして、筋金入りの活動家が出所してすぐ、あまり自慢できそうにない心情をあっけらかんと語る小野田の性格がさわやかだ。もう一つ、筋金入りとは関係のない話があった。二日前の例の六月十五日、あまりに大勢の学生がパクられて入って来たので留置所が一杯になり、自分も含めてその前に入っていた学生が追い出されたという話だった。これもまた小野田の武勇伝には繋がらないだろうに、そんな話を得意気に話す小野田が、いかにも好人物に見えるのだった。そのうえ、これからこうした状況を作戦的に作り、逮捕者を早く出所させることができないだろうかと言う。冗談だろうと思うが、彼は意外と真剣そうなのだ。そうした思い付きと楽観性がいかにも彼らしい。
小野田が出所した日、夕刊を配って店に戻ると、めずらしく杉山が店にいた。正規の新聞配達員ではないので店が混雑しているこの時間に姿を見せるのはめずらしい。しかし俺は十五日の夕刊で世話になっているので礼を言う機会だと思った。新聞購読者を拡大する専門の営業マンなので毎日外を歩いているだろう、すっかり日焼けしていながら、さらにどこか黒々とした雰囲気を漂わす男だった。それなのに口調だけはもの柔らかくて優しげに聞こえる。
「先日はお世話になりました。有難うございました」
俺は立ち上がって彼に言った。
「いやいやいんだよ。気にしなくていんだよ。川田君と面と向かって話すのも初めてだしね。君はほとんど店にいないからね。今日はゆっくりしてるの?」
「まあ一応」
俺はあいまいな返事をした。新日米安保条約が衆議院を通過しているので、明後日の十九日の午前〇時に参議院本会議で自然成立する。その抗議のため明日十八日は、国民会議をはじめ全国の団体が国会包囲デモを計画している。全学連も同じだ。同時にまたそれは十五日国会構内で死んだ樺美智子を追悼する集会でもあった。だから学校では今夜から準備にかかる。泊りこむ学生が大勢いるはずだ。俺も後で学校に行こうと思っている。とはいえ、ここでそのことを杉山に話す気はしなかった。初めて話す相手ということもあるが、それだけでなく、いかにも気心の通じそうにない男だった。
「川田君さ、前から挨拶も兼ねてゆっくり話たいと思ってたんだけどさぁ。焼き鳥でも食べに行かない。今日を外したらまたいつ会えるかわかんないじゃない。君も忙しい人だし」
杉山が言う。俺はハッとした。口で言うのとは違うことを考えていそうな目と柔らかい言葉。この男はこれを言うためこの時間に現れたのではないか。そしてもしそうなら俺とビールでも飲もうということも、何か意図するものがあるかも知れない。俺は直感的に思った。戸口の作業場には他の店員がいた。ベテランもいるのに、俺だけを飲み屋に誘うのが、どうみても変則的なのだ。しかしそのことで誰も顔を上げようとしない。もしかして、十五日の夕刊のお礼は口だけでは足りないという事なのかも知れない。そしてもしそうなら、夕刊を配り終えて店員が作業場に揃っているこの時間は、それを俺が断ることが出来ない状況ということではないか…。俺は杉山の慇懃な言葉で逃げようのない罠にはまっていくのを感じた。<こんな奴とは早くけりをつけた方がいい>そう思った。
「初対面の杉山さんに助けられたんですから、いろいろ教えてもらいたいこともあるし。杉山さんの都合よければいいですよ」
「そうしよう。僕もけっこう飛び回る人だから」
店の晩飯を抜くことを覚悟して俺は二階に上がった。着替えをしていると尾崎が上がってきた。
「いいかげんに切り上げろよ。あんな誘いをする時、奴は性質が悪いよ」
そう言ってラジオのスイッチを入れた。俺は有るだけの現金をポケット入れて下に降りた。大した金額ではない。もし足りないほど飲み進むようなら、新人らしく金がないのを言って、彼に貸してくれと言えばいい。あんな奴にかぎって自分の金を使うのを厭がるはずた。そのように腹を決める。
神田駅のガード下を歩いた。杉山が懇意にしているという小さなバーだった。中年の小奇麗な女がいた。
「一昨日はどうしたの?女の子とでも遊んでたの?」
カウンターに座って杉山が尋ねた。
「いいえ。そんなんじゃないんです」
俺は答えた。どう説明しようかと思った。適当な話題はないだろうか。一瞬思ったが、それらしい話題が思いつかなかった。勉強してた、というのが学生らしいだろうが、仕事を忘れて夜中までというのは出来すぎのようだ。そのうえ、俺の脳裡には<嘘をいう必要はない>という思いがあった。特に、こんな男に嘘を言いたくない。
「女子大生ってすぐ引っかかるんじゃない」
粘るような嫌な口調だった。
「そうよね。最近の女子大生は尻が軽いわよ。うちでもバイトの子いたけど男作ってすぐ辞めてったわ」
ママと呼ばれる女が相槌を入れる。
「柄になくデモに行ってたんですよ…。新聞に出てるからどんなものかと思って」
新聞を引き合いに出したのはまずいと思った。俺がそこに写っているのだ。それに、デモに行っただけで新聞配りを忘れるのは理屈に合わないだろう。しかしいちいち言い繕いたくなかった。
「おっ。新聞に載ってるあの騒動…?」
「……」
「学生はどうしてあんなことするんでしょうねぇ。女の子死んだんでしょう。大学まで行ってて。親御さん辛いでしょう」
「僕、新聞読まないからよく知らないけど、なんであんな大騒ぎするのかねえ、僕はまったく関心ないけど。川田君好きなの?」
「そんなわけじゃないけど…」
返事に困っているとママが口をはさんだ。
「杉山さん新聞拡張してるのに新聞読まないの?」
「ぜんぜん読まない。見るのは大きい見出しと写真だけ」
「それでよく拡張員出来るわねえ」
ママが言ってやっと話題が変わった。
この後、晩飯だと言ってラーメンを食いに行った。そしてもう一軒、やはり杉山の馴染みというバーに寄った。思っていた通りすべての勘定を俺に払わせる。やはり腹黒い男なのだ。こんな男が世を渡って行くこと自体不思議な感じではあった。
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次の日。六月十八日は、午後一時からデモ隊が出た。国会議事堂周辺に行くとジグザグデモをする余地もないほどに人が集まっていた。国民会議の発表では三十三万人以上らしい。これまでの最高だともいう。全学連主流派もその日だけは国会突入を狙っていなかった。だから今日は一日静かなデモになるだろう。
とはいえ一方で、新日米安保条約が自然成立するのが今日の深夜、つまり明日午前0時だ。その時間まで国会議事堂を取り巻いて抗議すると国民会議は発表している。全学連主流派もそれに同調しているが、深夜になると何が起こるかわからない。そんなことを考えながらも、今日は四時前に店に帰ろうと俺は思った。何回も杉山の世話になりたくはない。
ジグザグデモをしたり、議事堂の通用門に体当たりしたりしていると時間はあっというまに過ぎるのだった。しかし、何もせずに座っているだけでは時間は随分ゆっくりしたものだ。チャペルセンターに集まった全学連主流派ではあるが、どこを見ても人の群があり、何かを叫んだり、拳を突き上げたりしている。
そんな全学連の街宣車の屋根では、さっきから威勢のいい女が立ってインターナンショナルや万国の労働者という歌のリードを取っていた。こうやって時間を潰すしか方法がないのだろう。
そんな中で一つだけ動く集団があった。水色の旗をなびかせる東大のデモ隊だった。その先頭には樺美智子の大きな写真が掲げられ、弔意を表す黒い布が掛けられていた。その意味でそれは葬列でもあった。彼らは沿道を埋める人々の間を静かに行進し、機動隊による虐殺を抗議しながら南通用門で簡単な弔いを行っている。昨日もそうだった。そしてその時から気づいていたのだったが、その写真の柔らかい丸顔、特にその頬の丸味や目元などが、十五日に東大のデモ隊の中で声を掛けた女に似ているように思ったものだ。十六日の新聞では機動隊による撲殺とする見解と、デモ隊の中での圧死とする見解が半々といったところだったが、その場にいた俺の実感からすると、あの位置にいてデモ隊によって圧死することはないだろう。それに、構内に流れ込むデモ隊の中で倒れたとするなら、それはデモ隊の足元で起こることであり、誰かが気づいて抱き上げるなり搬送するなりしただろう。あの時は行く手を阻むものがなくなり、人々はわりとゆっくりと歩いていた。そんな状態の中、もし彼女が傷つき倒れるとしたら、構内で機動隊に追われた時ではないか。
もう一つ、これは後で思うのだったが、あの翌日、十六日以後は、頭に包帯を巻いた学生が目立っていた。十五日の夜機動隊の警棒で叩かれたせいだ。しかし、俺が見た限り、女子が包帯を捲いている例はない。そのことを当時なんとなく不思議に思っていた。というのは、俺が声を掛けた東大の女と同じに、当時デモに参加する女はけっこういたのだ。そのことはまさに、仏文の山口に聞けばよりはっきりするだろう。そうした女たちもあの日構内に入ったはずなのだ。それでも頭に包帯を巻く者がいなかったのなら、もしかして機動隊は、女の頭を叩かない申し合わせがあったかも知れない。そんな風に俺は思った。女に優しい機動隊といえば言えなくもない。しかしその代わり、一定の配慮をしながら機動隊は女の腹を警棒で突いたのではないか。だから樺美智子は内臓破裂した。これは後で統計を取ればわかるかも知れない。そんなことを考えたものだ。
それにしても十八日は退屈な日だった。こんなことなら一人や二人抜けても影響はないだろう。そんなふうに思いながら、もう少しもう少しと時間を延ばしていた。
店に戻ったのは四時少し過ぎていた。玄関の作業場はガラガラだった。みんな夕刊を束にして飛び出している。その後に残る一束の新聞の塊り。それが俺が配る分だった。みんなが飛び出せば俺の分が残るわけだ。折込広告があればそれも一緒に積まれている。最近そんな様子が多くなっている。
しかしその日、その塊りがなかった。おかしいと思って作業場の隅々を探した。
その時だった。奥のドアが勢いよく開いた。
「おい川田。お前何様だと思ってんだい。インテリ振りやがって。デモがそんなにいんならそれで飯を食え。もういいよ。店に来なくていい。荷物片づけて出て行ってくれ。新聞は杉山が持って出たよ」
そう言っておやじがドアを閉める。おやじの顔に血が上っていた。まだ四時過ぎではないかと思った。これくらいの時間はこれまで何回もあった。これまでと情況が違うというのだろうか。もしかして、と俺は思う<奴が話したのか>と。あの嫌な奴…。
しかし、仮にそうだとしても、おやじはどうして急変したのだろうか。
もっとも、おやじが怒るのを疑ってみても仕方ないことかも知れない。俺が仕事をスッポかしたのは確かだ。
が、それにしても今日ここで何があったのだろうか。考えながら俺は二階に上がった。俺の帰りが遅い理由を、あらためて杉山がおやじに話したとして、おやじはなぜ急に俺を首にすると言うのだろうか。いや、それを問うのは無理だろう。杉山がデモを批判的に見ているのを考えると、おやじも同じと考えておいた方がよさそうだ。しかし、それでも気になることがある。もし俺のこの推理が当たっているとしたら、おやじはこれまで俺が遅いことをどう思っていたのだろうか。俺には信じられないことだったが、デモのことをまったく気づかなかったというのだろうか。もしそうなら、おやじもまた杉山と同じにデモにまったく関心を持たなかったということではないか。あれほど新聞を賑わしているのだ。しかもその度に俺が遅く戻る。そのことに気づかないというのが信じ難い…。
俺はベットのある部屋に入り、窓を開けた。乾いた風が入ってくる。どうしたらいいだろうか…。おやじの部屋に行って頭を下げて謝る。その場合は、二度と遅くなりません、と言うべきだろう。しかしそんな事が言えるだろうか。俺の自由は保ちたい。しかし半分は労働者だ。それくらいの不自由は我慢すべきか。労働者が時間に縛られるのは仕方ないことだろう。だからこそ残った時間が自由だ。それが近代労働者というものだ。高校時代の商業の時間に長尾が教えてくれたものだ。といっても、出来ればそこに与したくなかった。<第一ここには杉山がいる。あの嫌な奴と一緒にいたくはない>。そう思った。
辞めてもいいだろう。しかしジタバタすることではない。辞める決意をすれば後はこっちの自由だ。そう思って、自分のベットの傍に立った。右側の上段だ。いつもなら今頃学校に行っているだろう。これから行ってもいい。しかし今日そこに行けば、もうここに戻ることが出来ないだろう。おやじは俺に引導を渡した。仮に二、三日ここで粘るとしても、それはもはや意味がない。おやじに謝らない限りここにはいられないだろうから…。
そのように考えると急に現実が迫ってきた。店員たちが戻ってきたら面倒な気がした。いろいろ配慮しなくてはならない事が起こりそうだ。少なくとも尾崎には事情を話しておかなくてはならない。彼のことだ、辞めるのを止める可能性があった。そんな尾崎の心情を無にするわけにはいかないだろう。いっそこのまま消えた方がいいかも知れない。
そう思いついた俺は、店の物である作業着を脱ぎ捨て、ベットに上った。畳一畳より少し広い空間。そこに俺の財産すべてがある。片付けるのは簡単だ。一人で持つには少し大きいだろうが、紐で結わえて大学まで運べばこっちのものだ。何とかなる。
ベットの隅にわずかたまった本と衣類を紐で結んで階段を下りた。おやじに何か声を掛ける必要があるだろうか。戸口に立って奥のドアを振り返った。そこにおやじの部屋がある。もう一つ奥では法子が晩飯の用意をしているだろう。しかしここにきて掛けるべき言葉は思いつかなかった。俺は黙って外に出た。白々しい空気と疾走する車。車のせいか初夏の季節のせいかわからない風が頬を洗う。白々しく乾いた歩道と雑踏。すでに通い慣れた道ではあったが、そこに手応えのある残影はない。
俺は大きな荷物を肩に担ぎ、一人足を進めた。見送りもなく、出迎えもなく。未来もない道。これまでもそうだったような気がする。一人で歩いて来た。未来があると思って踏み出してはみるが、それが本当の未来かどうかわからないまま…。しかしそれでもなお、一歩踏み出してみる。自分の足でそれだけは出来るのだ。自分で意図した方向へ…。それで充分というべきかも知れない…。
俺は無人の学生自治会室に入った。荷物を置いたが、それをどこへ持って行くか見当がつかなかった。同時に、半月ほどの給料を貰い損なったのに気づく。おやじに声を掛けるべきはこのことだったのだ。しかしそれは後で手紙ででも請求すればいい。たいした金額ではないが、今の俺には大金なのだ。俺は一人大きなテーブルに座った。いつも学生が話し、作業をするテーブル。彼らは今、国会議事堂にいるだろう。今日は何十万という人がそこで夜を明かすだろう。これからそこに行ってもいい。そしてそれが永遠に続けばもっといいと思う。しかしそんな事はありえないだろう。それぞれみんな事情があるというものだ。そしてそれぞれの生活が始まる。<俺の生活も…>ふと思う。何もない生活。それが悪いとは思わない。しかし何か一つ、一つあればいいと思うもの…。あの満たされた一瞬…。そうした未来…。
終
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