書評 風景としての空海
- 2014年 4月 27日
- カルチャー
- 司馬遼太郎宮内広利梅原猛空海
わが国に仏教が輸入されてそれほど時間がたっていない頃、学問重視の奈良仏教に対する真言密教の祖、空海の反抗は、自然との格闘の思想に深くかかわっている。仏教は紀元前5世紀頃にインドの釈迦が広めたことになっているのだが、その釈迦の死後、仏教はさまざまな流派にわかれる。ひとつは小乗仏教と呼ばれるもので、ブッダを釈迦だけのための尊称として、そのブッダの残した教えを忠実に守っていこうとしたグループである。その際、ブッダは釈迦の死とともにこの世から去ったのであり、彼らは自分が仏や菩薩になることは考えられていなかった。その仏弟子の聖者である「阿羅漢」になることを目標にしたのである。
これに対して、釈迦の在家の弟子たちは、釈迦の入滅後、ブッダを釈迦のみに限るのではなく、大智大悲を備えた高い人格を如来としてブッダと総称するようになった。そして、自分自身もブッダに向けて努力する菩薩であって、「仏になる」ことが目標にたてられるようになった。これが大乗仏教と呼ばれるものである。だが、この大乗仏教においても、仏になる(成仏)のは最終目的ではあるが、それは遠大だから、むしろ、ブッダを高く仰ぎ、その光明をたよりに精進することにこそ意義があると考えられた。しかしながら、空海はこの二つの流派とはまったく別の仏教をめざしたのである。一般の仏教では成仏するためにとてつもなく長い時間がかかり、一生涯では足りず、何度も生まれ変わって精進しなければならないのだが、空海の密教は両親から授かったこの命のままで成仏できるというのである。
空海は多くのブッダ、如来や菩薩などのおおもとに大日如来が実在していることを主張した。大日如来は多くの仏の中心に位置して「法身」と呼ばれ、自然界もわれわれ人間界も含め、すべての存在の根源を照らし出すものと考えられた。そして、われわれすべての衆生も大日如来と一心同体であり、そのままの姿において大日如来そのものだとみなしたのである。衆生は大日如来と異なったものではないのだから、自分たちが凡夫にとどまっているのは、この一心同体ということに覚醒しないことが原因ということになった。だから、そのことに気づきさえすれば、すべての人がたちどころに仏の姿になる、つまり、わたしたちはこの肉身そのままで仏であるというわけである。そのため、密教の修業によって別な自分に変えようとするのではなく、大日如来と自分との切っても切れない因縁を知ることに鍵が握られることになった。こうして、空海によると釈迦も大日如来のひとつの表われにすぎず、真言密教の考え方は仏教が発展した最高位のものであると自負したのである。
水の流れも風の音も、流れる雲などの自然界にも、人間界のすべてにも大日如来の威光としての身体の活動があるというような、いわば自我が裸にされた感覚は、空海に汎神論的な仏教を教えたことになる。こうした感覚を空海が身につけたとおもわれる人生上の転機を考えると、ひとつには彼が官吏養成の大学を途中でドロップアウトして、生来の巫人的体質をもったまま、四国の阿波の大滝嶽や室戸岬の山野をさまよった体験を抜きにして語ることはできないとおもう。空海はもともと土俗的巫人性をもっていた。おそらく彼は、岬の洞窟の中で肉体の限界と戦いながら、精神の力によって天と水、地が純粋に露出している抽象的世界に肌身をさらすことで、雑念をふりはらって宇宙と合一して、その法則性を確かにつかんだような感覚におそわれたとおもわれる。その結果、山河の諸霊と心を通じあわせながらもそれと戦い、諸霊のはるか向こうのおそろしく抽象的な世界と、その形而上学を手に入れたことを暗示している。この体験の風景について司馬遼太郎は次のように描写している。
≪かれが雨露をしのぐべく入りこんでいたと思われる洞窟は、いまも存在している。そのなかに入って洞口をみると、あたかも窓のようであり、窓いっぱいにうつっている外景といえば水平線に劃された天と水しかない。宇宙はこの、潮が岩をうがってつくった窓によってすべて夾雑するものをすて、ただ空と海とだけの単一な構造になってしまっている。洞窟の奥にひそみ、この単純な外景の構造を日夜凝視すれば精神がどのようになっていくか、それについてのへんぺんとした心理学的想像はここでは触れずにおく。ただ空海をその後の空海たらしめるために重大であるのは、明星であった。天にあって明星がたしかに動いた。みるみる洞窟に近づき、洞内にとびこみ、やがてすさまじい衝撃とともに空海の口内に入ってしまった。この一大衝撃とともに空海の儒教的事実主義はこなごなにくだかれ、その肉体を地上に残したまま、その精神は抽象的世界に棲むようになるのである。≫『空海の風景』 司馬遼太郎著
この記述には、当時の公認の儒教的倫理の世界があとかたもなく消えうせ、線と面だけで構成された宇宙的な抽象的秩序に精神が統一していくさまをうかがうことができる。このような世界をみると、ミルチア・エリアーデの記述した、シャーマンが宇宙の頂点である「世界の中心」に案内される情景と酷似していることがわかる。彼の心と身体は溶解し、自然の中に我彼の区別がつかないまま吸収されてしまったのだ。しかし、ここで注意しなければならないのは、こういう空海には、具体的な世俗的関心事などは、およそ眼中になかったのである。留学した唐の文化や朝廷との関係において人間関係をつくったのも、俗事とのかかわりをもたないことが前提にされており、いわば、人生論以前の人生論が彼の思想を裏づけているといえる。
このことは空海思想の単純明快な明るさとも関係してくる。彼の仏教は衆生に対して底がぬけたように開かれているのである。ブッダの世界に対してもそういう身構えをとっているからである。そして、ブッダの最高位にもってくる大日如来は、釈迦如来よりもっと高い位を有して、曼荼羅にみられるように現世の物質世界や精神世界の中心におり、しかも、それから発散された光が世界にあまねくふり注いでいる。すべては大日如来によって生かされているように、衆生と仏が直接に裸で面接するのである。
空海は大日如来が「地水火風空識」の六つの要素(六大)で構成されており、その構成はわれわれ生身の人間とまったく同じであると言っている。生身の人間も大日如来とまったく同じ形や活動をし、身体のまま、心のまま存在することが高らかにうたわれているのである。それは大日如来の中には世界のすべてが過不足なくすっぽり収まっており、逆に、世界の中に大日如来が鏡に映っている状態を指している。大日如来はあらゆる存在とひとつに溶けあって、一であると同時に多でもある。梅原猛はその様子を次のように解説する。
≪そのように、世界におけるすべての存在は六大からなり立ち、すべてのものはすべてのものをその内面に宿し、しかも、その世界そのものの中心に大日如来がいて、そしてそれを、多くの仏菩薩がとりかこんでいるとすれば、われわれは、われわれ自身の中にすべての世界を宿し、われわれは自己の中に大日如来をはじめとして、さまざまな仏菩薩を引き入れることが出来る。≫『空海の思想』 梅原猛著
現世のひとつひとつの存在は、互いに関係がないと同時に関係をもっているととらえられる。すべての存在は統一しているとともに、ひとつひとつ色がちがうように多様に識別されている。また、部分と全体の区別がつかないで、互いが互いの鏡に映したような同一性をたもっているうえ、それが大日如来を呼びこんでいるというのだ。いわば、仏の一毛の中にすら世界が含まれるという意味である。したがって、このような存在との不思議な一体感を自覚することによって、人はそのままの姿でおのずと成仏する。つまり、「即身成仏」するといわれ、空海の修業とは、この自覚知の獲得そのものをさしている。元来、自分自身が仏菩薩という存在であるからには、自覚知に先立っては、特に心を空しくすることも卑下することも、身体を酷使することもなく、そのままの肉身で仏菩薩になるということが強調される。
しかし、このような空海の壮大な宇宙論的ともいえる思考法には、もとより苦悩や貧困の問題は生じようがない。なぜなら、貧困や苦悩そのものがやがて仏菩薩になりつつある通過的、媒介的な人間のあり方から生じているからである。そうではなく空海は、もともと、人間は苦悩や貧困をもつように生まれついてはおらず、刻苦して仏菩薩になろうとする過程自体が、苦悩や貧困の原因になっていると言っているようにみえる。空海にすれば、人の心の欠けた状態である苦悩や貧困という言葉自体が、大日如来の満円の心にとって不似合いなのかもしれないのである。
そのような言葉の解釈がうまれるのは、空海にとって言葉とは、世界の実在そのものをそのまま映して具現しているものとみなされているところに理由がある。実在は感覚として人に伝えられるものだが、その感覚こそが声となり字となってあらわれるのだ。だから、言葉そのものや実在自体が単独にはないということになる。しかも、これらの言葉の中で最も真理であるのは大日如来の言葉にほかならない。そして、さらにおおもとをさかのぼっていくと梵字の阿字から吽字までにいきつくのである。したがって、空海は実在世界を声と字に象徴させ、その声と字の由縁を仏界の声字に求め、さらにそれらを大日如来の声字に、また、梵語の一語に解体したといえる。
このように言葉は感覚そのものであり、実在を離れては存在しないという考え方が『声字実相義』において展開される。それなら、感覚としての色や形もすべて大日如来の言葉のひとつの表われであるように解釈できることになる。言葉を実在そのものとしたうえで、本物の言葉と偽物の言葉の区別がおこなわれ、それらをすべて大日如来の言葉に集約させるのである。わたしたちが耳で聞く風の音にしても川の音にしても、一木一草すべて大日如来の声になるのだ。そして、結局、真言密教(大日如来)の言葉を理解することが悟りにつながるのである。このような考え方を極端につづめると、大日如来の発した一声の中に世界があり、実在があるということになる。事実、空海はそう述べている。
それは、わたしたちから見ると、空海の宗教がはじめも終わりもないようにも見える理由になっている。なぜなら、ここには人間の心の影がなく、ひたすら横にひろがるのっぺらぼうな世界認識しか存在していないからだ。言葉がそのまま実在世界の重さを指さし、世界が言葉を包みこんでしまう相補性の中では、人の心の入り込む余地がうまれようがないのだ。つまり、空海の風景というのは、彼自身が風景になりきった風景としてのみ存在する人間のありかを指し示している。そのため、わたしたちは大日如来の世界に触れるための初発の動機が得られなくなるという結果になってしまう。つまり、彼にはのちの親鸞や日蓮のような仏教者のプロセスを含んだ認識論を認めておらず、論理を組み立てる際の基礎工事のようなものが欠けているようにみえる。これだとまるで、始まりが終わりであり、終わりが始まりという原因と結果の相即的な同一性しか残らないからだ。
わたしたちは空海の思想に触れようとしたときに、すぐさまシャーマニズムやアニミズムの世界に引きずり込まれるような飛躍を迫られる。彼は宗教の出入口の煩悶の過程をぬかしているため、あれこれ考えた上で迷いながら行動するようなことはなかった気がする。行動したあとで、すべての動機を剥いでいくと大日如来に行き着いたという具合なのだが、こういうところが是非をこえて、わが国独特の真言密教を紡ぎ出した空海という人の特徴を伝えている。もしかしたら、これがシャーマニズムやアニミズムをくるんだ心性の中に仏教を土着化させた由縁かもしれない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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