書評 欠如のない時代の方角
- 2014年 4月 29日
- カルチャー
- 大澤真幸宮内広利書評
3.11前でさえ、あまりに速い世相の移り替わりなのに、停滞感がぬぐえないのはなぜだろうとおもってきた。誰もが自意識が総敗北をしているのではないかというような焦りを抱いていたのだ。しかし、このような思想状況は、わが国だけの特殊な背景があるのか、それとも世界的な地殻変動なのかは定かではなかった。そんな疑問に答えるかのように、大澤真幸は次のように交通整理している。
≪整理するとこうなる。まず、理想の時代は、欠如を前提にしたスタイルの時代です。ついで、欠如の不在の段階がくる。そして九〇年代の、つまり『エヴァ』の時代には、再び若者は、欠如を覚えていることになる。しかし、この三番目の段階では、何が欠如しているのか。思うに、具体的に特定しうる何か―たとえばお金だとか、社会主義のような来るべき理想の社会とか―は、何も欠如していないんです。欠如しているとすれば、それは、欠如そのものです。何も欠如していないことに、欠如感を覚えているんです。これは自己矛盾的な欠如ですね。欠如が克服されたとき、今度は、欠如がまさに不在であるということに欠如を覚える段階がやってくるんです。それが現在です。≫『戦後の思想空間』 大澤真幸著
この本が書かれたのが1990年代というその「現在」が、歴史上の激変の只中ということもあって、「何も欠如していないことに、欠如感を覚える」などというふざけた台詞に、はたして実体があるのかどうか疑うのは当たり前で、まるで哲学者の自己意識が一人歩きしているかのようにみえるのは致し方ないのかもしれない。だが、こういう図式的な戦後の思想空間の整理の仕方が再生産されるにもそれなりの理由がなくてはならない。
大澤がここで「理想の時代」と呼んでいるのは、それこそ大雑把な言い方で、「理想」を共有できた蜜月時代というほどの区分であることがわかる。それは敗戦による米軍の占領にはじまって、対米依存と反発を繰り返しながらも、米国の世界経済における繁栄を「理想」の焦点としていた懐かしの時代のことである。つまり、ある種、精神的にも米国を超越的な他者として価値の源泉としながら、高度成長経済に邁進していった昭和40年代前半までの時代を指している。そのとき、わが国は「理想」や未来を自由と民主主義に託して、現状を「貧しさ」や「欠如」と感じ、米国という超越的価値からふりかえって、自身のアイデンティティの承認を求めていたことになる。そこでは経済的な目標と精神的な目標が重なって、米国に対する構造的依存体質が固まっていた。
ところが、そんな日米関係も1970年代の初頭には、微妙な誤差をみせはじめる。精神的な軸心が大きく変化し、まるで、それまでの幻想が剥離したかのような感覚があらわれる。戦後日本が敗戦の復興から年率10%を超える高度経済成長を続けていくうちに、次第に米国という超越的立場に肩をならべる予感が芽生えるにつれて、自身が米国抜きで、普遍的世界に立ち入ったかのような錯覚がうまれたのだ。それと同時に、昭和という自意識が希薄になり、あたかも世界と直接むきあい、むすびついているという感覚にとらわれるようになる。大澤は言及していないのだが、わたしなら、そのような米国に対する見方の変化は、70年代初頭の米国の世界的規模の威信低下として、次のように裏づけられるとおもう。
まず、第一に、1971年にドル・ショックが起こったことである。戦後、世界経済は米国のドルを基準通貨として、IMF体制によって維持されてきた。各国通貨は金と兌換性のあるドルとの比率が固定され、米国の豊富な金準備と国際収支の黒字によって、ドルによる世界経済の支配がおこなわれていたのである。ところが、ベトナム戦争の泥沼化とともに、米国の国際収支が赤字になり、ドルの海外流出がつづき、ドルの危機、国際通貨危機が深刻になった。
そこで、1971年8月15日、ニクソン大統領は、ドルと金との交換の一時停止、10%の輸入課徴金の実施、通貨の為替レートの変更について話し合いをするというドル防衛策を発表した。これは、ドル・ショックとして世界経済を直撃したが、ドルの基軸貨幣の崩壊という点で、この影響はいまだに引きずっており、世界経済をみる上で欠かせない重要な因子になった。73年から日本政府は変動相場制に移行したが、ドル・ショックによりドル安・円高により輸出にブレーキがかかり、輸出関連の中小企業は大打撃をうけたのである。
もうひとつの政治的変動は、1971年7月、米大統領補佐官のキッシンジャーが、極秘のうちに中国を訪問して、周恩来と会談したことである。翌72年2月には、ニクソン大統領が中国を訪問して、毛沢東、周恩来と会談し、中国はひとつであるとの米中共同声明が発表されることになる。その間、71年9月には、中国招請、台湾追放決議による中国の国連加盟が実現した。ここに戦後の世界体制が、政治と経済の両面で根底から崩れることになった。これらはベトナム戦争の終息とともに、国内的には学生運動の急速な減退と重なり、わたしたちの戦後の記憶を直撃した。
大澤は、米国という超越的価値を失ったことは、70年代をとおして、あたかも欠如自体を失った事態であるかのように、わたしたちの精神状況を支配したと考えている。ある朝、目を覚ましたら、まるでちがった夢をみていたことに気づいたといわんばかりに、時代の大きなターニングポイントとして位置づけられる。政治的欠如や物質的欠如に対するルサンチマンの時代から、欠如のない「戦後・後」の時代に突入していったとみなしたのだ。
それ以降、社会や政治を批判する理念や思想が次第に空疎に移ろい、「理想」を追求する時代は急激に色褪せたとされている。裏腹に、突如、理想や理念、個人のアイデンティティを探す意味、共同体の重みから解放されたかのような思想があらわれてくる。そこで大澤が挙げているのは、サブカルチャーの登場人物などではなく、廣松渉と山口昌男など、あくまでも堅物の哲学者たちの面々である。廣松の場合は、マルクスの疎外論から物象化論への転回をもたらしたこと、山口においては、共同体の中心に対して周縁の意味を繰りこみ対置しながら、ともに、人間性の中心という概念から距離をおいて、思想や理念を相対化したことになる。しかし、丸山真男に代表される進歩的イデオロギーの失効や理念の退廃という意味なら、わたしたちの実感では、ターニングポイントは少なく見積もっても、4、5年前倒しされなくてはならないとおもえる。
こうして、米国への依存と反発を繰り返しながらも、戦後の米軍占領を引きずったまま、背後に米国の善意を信じていた第一期、次に、米国の影について次第に遠近感をもってみることができるようになり、それに反比例するかのように米国の像としての理念が遠のき、世界や人生の意味を支える理念を喪失したことに気づいた第二期、そうして、80年代以降、現在と地続きの三番目の段階にはいり込む。
大澤は、1980年代以降の思想を「消費社会的シニシズム」と呼び、それをニューアカデミズムによって象徴させた。彼によれば、たとえば、浅田彰は思想や「知」を消耗品(商品)のようにあつかい、それぞれを消費されるための記号的な差異ととらえた。もちろん、これには大衆消費社会の成熟が加担しているのは間違いなく、わたしたちは、それが商品の生産に対する消費時間の遅延化が主な動因であることを知っているが、現象的には大澤の言うように、相対的な差異を求めて、微小な差異を競い合うゲーム思想を定着させた。
しかし、大澤のうがった見方によれば、浅田や蓮實重彦は、そういうシニシズムのパロディを演出したつもりであったのが、それをまじめに受け取った側では、彼らの意に反して、そのシニシズムの毒気をまともに吸引してしまった。浅田らは、ほんとうは相対的な価値には解消されない絶対的な差異の提供を逆説的に浮かび上がらせようとした。にもかかわらず、それを実体と表面を区別しないで受け取った人たちは、表面だけの差異を競い合い、ゲームや戯れの中に思想を還元してしまうことに慣れてしまったとされる。
だが、直輸入思想がわが国のマイナスの伝統であることを知っているわたしたちにとって、ニューアカデミズムの流行とは、概して、フランスの思想を教科書風に切れぎれの解説を加え、仲間内だけにわかるように暗号化し、いかにも得意げにお喋りをしている嫌味な連中のことを指していた。したがって、このようなパロディ以前の段階において、自分の言葉に翻訳するための粘りも、ひとの実感に訴えかけようとする積極的な気持ちも欠けた中途半端さに対する大澤の評価はにわかには信じられない。むしろ、彼らは差異や戯れの中にいながら、ほんとうは逆に、相対化が許容される実体の範囲でしか、その自由な遊戯ができないとした大澤の突き放した見方の方が、現在と地続きの中で韜晦する思想の在り処に、より近くによりそっているといえる。つまり、ニューアカデミズムが示したのは、ほんとうは思想商品の雑多な交換によって、マルクス主義などの「知」の宗教が、「理想」としても「未来」としても失効してしまったことの確認であった。実際、その後10年もたたないうちに社会主義やソ連邦は自己解体した。
大澤はデリダの「デコンストラクション」が、自分自身の虚偽性を自覚したメタ虚偽意識のイデオロギーという点において、消費社会的なシニシズムの代表格であることを認めている。彼はハイデッガーの思想とのからみで、デリダの思想の核心を「自己―外―存在」と位置づけ、精神が自身の同一性をもたない不在の精神のありかに言及している。それは自己意識の動きが純粋な差異そのものによって作られているメカニズムにおいて、たえず、同一性から逃れる差異性と定義される。そして、その「不安のないのが不安」というこのシニカルな差異性について、資本主義そのものの現象としてとらえる。彼が、資本主義が行為や体験に意味づけを与えることを「経験可能領域」と呼び、それを資本主義の定義にする場合、この「経験可能領域」をより包括的なものに普遍化していくシステムを指している。
この普遍化とは、「経験可能領域」が定常ではなく、たえずダイナミックに変化していくということ、そのことにおいて安定していくこと、このような、一見、矛盾する行為を前提にしていることに着目する。過去の労働の蓄積が、過去に労働力を買い、現在に働かせることで剰余価値をうみだすこと自体、時間の変異をつらぬいて、価値変化が起こったことを意味し、過去の規範やルールを打ち破ることなしにはできないメカニズムである。過去の時間と現在の時間の交叉や変異を包むことが、普遍性ということの証明になりうるからだ。
しかし、それにとどまらず、この普遍性へのステップはより高次に移行していく。「経験可能領域」は、より普遍性の高みに登ろうとするのだが、その都度、具体性や特殊性に阻まれてしまうから、抽象的なエレメントの超越性への参加と同時に、いままでの「経験可能領域」をみずからの内部に取り込むようになる。つまり、以前の「経験可能領域」は、特殊性の対象となって格下げされ、いわば、メタレベルからオブジェクトレベルに解体される。それでも置き換えられた超越的エレメントも完全な抽象性はありえないので、また、置き換えられ格下げされる。壊したものは壊される、そして、また、それを壊したものも同様な運命をたどる。解体の解体とその解体…、それ自体にあたかも超越性があるかのように、そんなメタレベルが存在しないことの証明を繰り返す逆説的行為が、資本主義を再生産し、思想のシニシズムや脱構築を支えているとみなしたのだ。
ここで大澤は、貨幣の抽象性が資本主義を支えており、それから次第に抽象性そのものの質が変わっていく経緯を、使用価値と交換価値の対立をめぐってさぐりをいれている。やがて、こうした超越性の不可能性を弁証することによって、大澤はポストモダンの現在のありかが、ちょうど、1930年代のファシズムの台頭期にあらわれた「近代の超克」論議と相似していることに気づく。そして、京都学派の西田幾多郎や田辺元らの哲学においては、人類普遍的なものが、直接、国家、民族などの特殊的でしかないものと結びつくカラクリを暴こうとするのである。彼は1930年代の思想をみることで現代の思想をおしはかることができると述べており、ここから昭和初期の日本の思想がポストモダニズムなら、現代はファシズム前夜であるという結論に達する。
わたしは、彼が第一次大戦と第二次大戦の間の断層にこそ、ファシズムが登場した理由があったとするのは、ナチズムの台頭に限定するなら肯けるとおもう。その戦間において1923年の世界恐慌があり、帝国主義列強の植民地強奪競争のつばぜり合いの中、資本主義の不安定さや破綻の予感が現実のものになったからだ。しかしながら、資本主義の世界的終末観そのことと、わが国のファシズム台頭は直接には結びつかないとおもえるのだが、大澤はそう考えていなくて、その理由を二つ挙げている。ひとつは、第一次大戦で戦場となった西欧諸国の経済の疲弊と世界システムの中心からの脱落によって、その主導権は米国に移ったということ。もうひとつは、恐慌によって貨幣=金本位制が解体したということである。
これらが当面したのは、ある種、世界システムの「超越性」が否定される事態だった。とりわけ、前者は、それまで世界の文明史を牽引してきた西洋近代の普遍性への期待が地に墜ちたということであって、究極の価値や普遍性の不可能性への認識が深まり、どのような普遍性もせいぜい普遍性を偽装するに過ぎないものとして、拒否されるべきだとするシニシズムを育てる温床になった。さらに、「近代の超克」論者は、その拒否すること自体を逆転の契機にして、その普遍性にいたる夢を志向しはじめた。「不可能性」を否定的な媒介にして、最も普遍的な境地に立つことをめざしたのである。この逆説的な超越性を措定してしまうことで、普遍性はより確実に担保された。この内面化された超越性こそが、「国民の天皇」として天皇制ファシズムの根源にあったとされるのである。つまり、要約すると、彼は資本主義の普遍性への志向性そのものが、ファシズムをもたらしたと考えていることになる。そして、おそらく、資本主義の危機感がファシズムをもたらすという点において、同じ資本主義なら現在との通路も開かれていると考えたのにちがいない。
しかし、当然のことながら、わが国の戦前のファシズムの運動を天皇制独自の問題を脇において、資本主義の現象面からのみとらえることは不可能である。要は、大澤の倫理観も関係しているとおもえるのだが、戦争の「非合法性」が資本主義の「合法性」の範囲の中でどう位置づけられるかに関わっている。丸山真男のように、明治維新が「下からの革命」でなかったがゆえに、わが国の近代社会が脆弱で未成熟であって、超国家主義的ナショナリズムの流れを食い止めることができなかったという「特殊性」を言い訳に挙げれば、そもそものはじめから、わが国の近代化は跛行的、もしくは「非合法」であったことになるのである。
だが、近代社会への入口の歴史においては、農民から強権的に土地を奪い、飢える自由をもった労働者に変えていったことや、資本主義が商品や労働力の売買だけではなく、戦争によって命の売買もおこなったことを知っているわたしたちにとっては、西欧諸国とわが国はさほどの通路のちがいはなく、あくまで近代化の急激さと緩慢さの時間の長短の差でしかないとおもえる。当の西欧諸国にも実際には存在しない仮想的な「市民社会」像をわが国に無理やり当てはめるのは、逆に、丸山自身が正当に指摘したように、外来の思想を雑多にまる飲みしてしまう「理論信仰」でしかないのである。そこで、もし、戦争の不可避性も含め近代国家の「非行」性を認めたうえの論理に限定して、ポスト・モダンが唱える「戦争機械」のように、善悪の区別なく戦争を吐き出してしまう身も蓋もない戦争だけではなく、別の戦争の形もあることも踏まえれば、ナショナリズムや国家の形は、「合法」と「非合法」の区別が前提になってくるとおもえる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
〔culture0049:140429〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。