あまりに安易な広報報道
- 2014年 5月 1日
- 時代をみる
- 藤田博司
「首相、本・佃煮お買い物」「首相百貨店へ 8%の痛み実感?」「首相『高くなったと実感』」などといった見出しの記事が、4月5日の夕刊、6日の朝刊各紙に掲載された。各テレビ局も5日夕方の番組で同じニュースを伝えていた。
首相が三越本店まで出かけて佃煮やレトルトカレーを買ったって? そのほか、本や靴も含めてしめて4万円弱のお買い物。その感想が「消費税がだいぶ高くなったんだという実感があった」だって。自分の財布から支払いをする首相の写真を付けたこの記事の、どこがニュースなんだろう、とつい思ってしまった。
非日常的な出来事をニュースの条件の一つと考えれば、首相自ら百貨店で佃煮を買うのはニュースには違いない。しかし一方で、特別の意図に基づいて演出された出来事をそのまま事実として伝えることはしない、というのが記者の常識ではないか。報道する側が報道対象を演出するのは禁じ手の「やらせ」になる。首相のお買い物は、報道側の演出ではないにしても、首相の側の演出であることは誰の目にも明らかだろう。
テレビも新聞もあまりに安易に、首相のイメージづくりの広報戦略に利用されているのではないか、そう批判されても返す言葉はあるまい。
広報に熱心な安倍政権
安倍政権が広報活動に異様な熱意を持っていることは発足当初から指摘されている。その熱意はいっこうに衰えていないらしい。3月21日にはフジテレビ系のバラエティ番組「笑っていいとも」に安倍首相が出演して盛んに愛想を振りまいた。現役首相の生出演はむろん初めてのことだ。メディアへの露出を極力増やし、首相のイメージをよくするためにメディアを活用しようという意図が透けて見える。
第2次政権発足以来の1年3か月余で、首相は18回、延べ37か国もの海外訪問に出かけている。外国首脳との会談は、中身のあるなしに関わらず、メディアで大きく報道される。それを計算に入れた広報戦略の一環である。
権力を持つものが権力維持のためにメディアを最大限利用しようと考えるのは、むしろ当然のことで、それ自体を異とするにはあたらない。ただ問題は、利用されるメディアの側が権力側の意図にどう対処するか、である。
何食わぬ顔で権力の側の思惑に沿ってニュースを伝えるか、それとも権力側から提供される思惑含みの情報をさりげなく無視するか。あるいは、権力側の意図をはっきり指摘して、ニュースが単純な事実の報道ではないことを警告することもできる。
視聴者、読者の立場から言えば、権力側の思惑に沿ったニュース報道など、とても信用する気にはなれない。消費増税で物価が「高くなったと実感した」と安倍首相が新聞に語ったとしても、へえ、そうですか、と額面通りに納得する市民はまずあるまい。首相の言葉を信用するかどうかより前に、こんな演出されたつくりものの「お買い物」をニュースとして伝える新聞やテレビの信用が問われることになるだろう。
言葉づかいで実質を変える
これほど意図の見え透いた出来事ではなくても、メディアが政府の提供する情報をその思惑通りにもっともらしいニュースとして伝える事例は、いたるところにある。集団的自衛権の行使容認をめぐる一連の報道にも、その要素が多分にある。安倍政権は当初、いわゆる安保法制懇の報告を待って政府の見解を正式に閣議決定し、その後国会などでの審議にかける方針と伝えられていた。しかしここへきて首相自ら集団的自衛権の「限定的容認論」なるものを打ち出し、自民党内や公明党との与党協議を一気に推し進めそうな気配を見せている。
もともと、首相の私的諮問機関に過ぎない法制懇の報告を閣議決定のもとになる重要見解と位置付けるような印象をメディアが作り上げてきたこと自体、政府の情報操作にまんまと乗せられたと見るべきだろう。しかしそれにさらに輪をかけて「限定的容認論」や、それがあたかも1959年の最高裁判決(砂川判決)に根拠があるとする主張に正当性があるかのような報道が最近のメディアのニュースにあふれ始めている。
安倍首相らの動きには、解釈改憲を通して何が何でも集団的自衛権行使容認を実現しようという強引さが目立つ。メディアの側にはその強引さや解釈改憲の不当性を指摘し批判する報道はあるものの、ともすれば目先を変えた政府側の主張に振り回されて、結果的に解釈改憲を当面の政治課題として事実上受け入れていく方向に流されている印象をぬぐえない。
メディア側に、産経新聞や読売新聞のように、一連の問題で安倍政権の立場を支持するもののあることが、政権側に自信を持たせている側面のあることも否めない。
政府の思惑に従順な報道のありようは、例えばニュースの言葉づかいの中にも表れている。「武器輸出三原則」は「防衛装備移転三原則」と呼び名を変更することで、日本がこの半世紀近く守り続けてきた、平和憲法に基づく外交通商・安全保障上の基本方針の中身をがらりと変えてしまった。4月11日に閣議決定された「エネルギー基本計画」では、原発を「重要なベースロード電源」という意味不明の表現を用いて、2030年代には原発稼働をゼロにするというそれまでのエネルギー方針を大きく転換した。
「防衛装備移転」にせよ、「ベースロード電源」にせよ、あいまいな言葉の表現の裏に隠された政府の意図をメディアが十分に読者、視聴者に説明できていたかどうか疑わしい。集団的自衛権の「限定的容認」と同じように、政府の主張をメディアが口移しで伝えることで、重要な政策変更の意味が失われてしまっている懸念をぬぐえないのである。
権力に従順な体質
むろん、すべてのメディアが権力側の情報操作を常に無批判に受け入れているわけではない。原発・エネルギー政策や憲法改正、集団的自衛権行使容認などの問題では東京新聞、朝日新聞、毎日新聞などが政府を厳しく批判する報道を続けている。しかしその足並みは必ずしもそろってはいないし、問題によっては同じ新聞社内でも政府批判の中身に揺らぎが見えることが少なくない。
政府の政策に同調的な新聞がともすれば強硬に政府を後押しする主張を展開するのに対し、批判派の新聞の主張はしばしば自信なげに見える。首相のお買い物の記事が批判派の新聞にも写真入りで扱われていたことに、これらの新聞の政府に対する姿勢のあいまいさが表れているようにも感じられるのである。
あいまいさの原因の一つは、日本のジャーナリズムの体質にあるように思われる。日本人の国民性の反映ともいうべきか、ジャーナリズムも権力や権威に従順なところがある。ニュース報道でも権力、権威側の情報に大きく依存する。権力、権威の情報には疑いをはさまない。異議や異論を唱えるものはとかく異端の扱いを受ける。そこから報道も大勢同調的な傾向を帯びやすい。
加えて同質性を好む国民性が、報道でも横並び競争を促すことになりがちだ。そうしたジャーナリズムの体質がかつて、軍部のお先棒を担ぎ日本を戦争に駆り立てた過去を持つことはいまだ記憶に新しい。
先の大戦での敗北と、第二の敗北と言われた3・11の経験を経て、日本は政治もジャーナリズムも国のありようを深刻に反省し、再出発を誓ったはずだった。しかしのど元過ぎて熱さを忘れた政治はすっかり元の木阿弥、ジャーナリズムにも政治の流れに同調する動きが強まっている。
「首相のお買い物」のニュースは、少し誇張して言えば、ジャーナリズムが過去の二度の敗北の教訓を忘れ去ったことを象徴する出来事のように思えてならないのである。
(「メディア談話室」2014年5月号 許可を得て掲載)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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