「票より権威」のタイ式民主主義はおかしい -繰り返すクーデターの背後にあるもの-
- 2014年 5月 28日
- 時代をみる
- クーデタータイ伊藤力司
1932年以来20回ものクーデターを実行したタイ軍部が、5月22日またもやクーデターを実行した。全権を掌握したプラユット陸軍司令官は、昨年11月以来反政府派=反タクシン派が首都バンコクの目抜き通りや政府庁舎前を占拠してきた混乱を収めるためだと宣言した。政権を追われたのは、8年前の前回クーデターで追放されたタクシン・シナワット元首相(亡命中)の実妹インラック・シナワット首相の率いるタクシン派内閣である。
タイでは2001年の下院総選挙でタクシン党首率いるタイ愛国党が大勝して、タクシン政権が登場した。次の2005年総選挙でも愛国党が圧勝「わが世の春」を謳歌していたタクシン首相を追放したのが、2006年9月の前回クーデターだ。以来8年間、「微笑みの国」を自称するタイは、タクシン派「赤シャツ党」と反タクシン派「黄シャツ党」が、首都バンコクで大規模デモ合戦を繰り広げ、政情不安を続けてきた。
タクシン派はタイの北部、東北部の農民と都市の貧困階層で構成される、いわば“タイのプロレタリアート”。2011年の前回総選挙では、改名したタクシン派「タイ貢献党」が1500万票を集めた。これに対し民主党が中心の「黄シャツ党」は上院、軍部、官僚、司法界、財界など中産階級以上の都市住民で構成されるいわば“ブルジョワジー”だ。
タクシン元首相2001年からの5年間に、貧しい農村部に積極的な財政支援を行い、農民の間にタクシン派の堅い地盤をつくった。貧しい農村出身の都市貧困層もこれに加わったから、タクシン派は今やタイの多数派であり、2001年以降の総選挙ごと常勝。負け続けた反タクシン派は下院の多数派工作に成功した2008年12月から、民主党のアピシット党首率いる連立政権を維持したが、2011年7月総選挙でタイ貢献党に敗れて下野した。
こうした状況下、反タクシン派のスポークスマン役セリ・ワングモンタ氏(元タマサート大学ジャーナリズム学部長)は「質の低い1500万票より、上質な30万人の意見を尊重せよ」と高言したという(毎日新聞2014年1月28日)。反タクシン派はこれを「タイ式民主主義」と呼んでいるが、世界で通用する普遍的な民主主義からすれば「タイ式民主主義」はやはりおかしいのでは。
タクシン・シナワット(玖達新)氏(64)、はタイ北部チェンマイで生まれ育った華僑3代目。若くして優秀な警察官僚として注目されたが、1986年に立ち上げた携帯電話事業で大成功を収め「タイ国一の富豪」に成り上がったとされる。1994年に政界入り、7年後には首相に就任と言う異例なスピード出世を遂げた。しかも華僑がタイ政治のトップに就いたのも異例だ。
明末以来中国本土から東南アジア諸国に移民した華僑は、1世が肉体労働、2世が飲食店や商店などを経営、高等教育を受けた3世が経済界で出世するという出世パターンで語られる。3世、4世になると、社会のエリートとして活躍するケースが多い。教育を重視する価値観や勤勉さ、独特の商才でビジネスを成功させた華僑は、東南アジア経済の実権を握るに至っている。
しかし中国系が人口の多数派を占めるシンガポールを除いて、その国の政界トップに就いた華僑政治家はタクシン氏以外にない。もっとも、第11代フィリピン共和国大統領だった故コラソン・アキノ氏は華僑の出身だった。ただ彼女は1983年、マルコス大統領の政敵だった夫のベニグノ・アキノ2世が、マニラ空港での劇的な暗殺事件で犠牲になったのを受けて政界に担ぎ出されたという例外的ケースだ。現在のベニグノ・アキノ3世フィリピン大統領はコラソン氏の息子だから華僑の血を引いてはいる。
国王の権威と民主主義が併存するという「タイ式民主主義」とは、王宮と軍部、官僚、財閥など「王室サークル」と呼ばれる既成のエリート階層の特権を温存させる道具である。いわば「部外者」のタクシン氏が新興財閥を率い、貧困対策や「ばらまき政策」で地方の農民や大都市の貧困層の支持を集めた手法は、彼らの「タイ式民主主義」にとっては排除すべき対象だ。
タクシン氏は2001年の首相就任から2006年のクーデターで追放されるまで、それまで政治から見放されてきた農村や貧困層に光を当てた。大分県に範をとった「1村1品運動」を始め、農民の債務支払い猶予を支援した。医療保険未加入者が30バーツ(約90円)を支払えば、診療が受けられる「30バーツ医療制度」も導入。タクシン治世の5年間に貧困人口を半減させたとまで言われた。下院総選挙の度ごとにタクシン派が勝利するのは、人口の多数派を占める農民や貧困層が、タクシン治世で政治に目覚めたからである。
しかし既成権力側も反撃の機会をうかがっていた。2006年1月、タクシン一族は携帯電話会社から巨大通信会社に育てたシン・コーポレーションを、シンガポールの会社に733億バーツ(約2280億円)で売却した。この売却益に対する課税が節税工作により2500万バーツ(約7750万円)に過ぎなかったことが明るみに出された。この節税工作をタクシン首相の腐敗行為と断定した反タクシン派のメディア戦略が奏功してタクシン氏のイメージが傷つく中、2006年9月19日夜から20日未明にかけて軍がクーデターを決行して全権を握り、タクシン政権を追放した。
時のソンティ陸軍司令官以下のクーデター政権は、2007年8月に新憲法を制定してタクシン派を無力化しようと試みるが、新憲法下で行われた2007年12月の下院選挙でもタクシン派が勝利。これを受けてタクシン派のサマック氏が2008年2月組閣するが、憲法裁判所はサマック首相が憲法違反を犯したとして失職させた。サマック政権を引き継いだソムチャイ内閣も選挙違反の判決を受けて崩壊した。タイの司法界は軍部と並んで王室擁護派の牙城とされ、裁判所はタクシン派に対して常に厳しい判決を下してきた。
こうした空気の下、検察当局もマスコミに暴露された一族の節税工作をタクシン首相の汚職防法違反として訴追。タイ最高裁は2008年10月21日、同氏に禁固2年の実刑判決を下した。これを予見したタクシン氏は同年8月に国外に逃亡、以来今日も亡命生活を続けている。さらに最高裁は2010年2月26日の判決でタクシン一族の不正蓄財を認定、一族の資産の6割に当たる460億バーツ(約1430億円)没収の判決を下した。
2008年にタクシン派のサマック、ソムチャイ両政権が司法判断でつぶされた後、反タクシン派の民主党が軍のテコ入れを受けて一部タクシン派下院議員を切り崩して多数派工作に成功、2008年12月ほぼ8年ぶりに反タクシン派のアピシット内閣が誕生した。2010年2月のタクシン一族の資産6割没収の最高裁判決に抗して、赤シャツ隊(タクシン派)が同年3月から5月にかけて激しい反政府デモを展開した。これに対して軍の治安部隊は赤シャツ隊に容赦ない弾圧で臨み、約90人が死亡、約200人が負傷した。
2011年7月の次の総選挙では、タクシン派のタイ貢献党がまたもや勝利。タクシン氏の実妹インラック氏(1967年6月生まれ)が、タイ王国初の女性首相として就任した。インラック内閣が2013年8月、亡命中のタクシン氏の帰国を許すことになる恩赦法を下院に上程し、11月1日に与党が強行採決した。これに反発した反タクシン派が、11月末以来連日首都バンコクで大規模デモを展開。黄シャツ隊が目抜き通りに座り込んだり、政府庁舎の幾つかを占拠したりの騒乱状態が続いた。
インラック内閣は事態を収拾するため12月9日下院を解散し、本年2月2日に下院総選挙を行った。反タクシン派は選挙ボイコットを実行しただけでなく、地盤のタイ南部各地で投票妨害活動を展開。憲法裁はこれと符節を合わせたかのように、3月21日に総選挙を無効とする採決を下した。行き詰まったインラック内閣に対し、さらに憲法裁は5月7日インラック首相が3年前に行った高官人事は憲法違反に当たるとする判決を下し、首相以下9閣僚を失職させた。インラック氏は2008年以降、裁判所に解職された3人目のタクシン派首相となった。
こうした状況下、タイ軍部は5月20日に全土に戒厳令を発令。さらに22日午後5時過ぎ、プラユット陸軍司令官がテレビ演説を行い「軍と警察が政権を掌握した」と発表。インラック首相失職後ニワットタムロン副首相が首相代行を勤めていた貢献党政権は完全に追放され、プラユット司令官を議長とする「国家平和秩序維持評議会」という長たらしい名前の暫定政権がタイを統治することになった。
暫定政権を司る陸軍はタイ全土で5人以上の集会を禁じているが、首都バンコクをはじめ全国各地でクーデターに抗議するデモや集会が起きている。米国を始め多くの国々の政府がクーデターを非難する声明を発表して、早急に民主主義体制に戻すよう要求している。東南アジアでインドネシアに次ぐ経済大国となったタイだが、2006年の前回クーデター以来今回まで8年間続いた政情不安を全権を再び握った軍部が正常化できるかどうか。いつまでに民政復帰を実現できるのか、民政復帰の総選挙でまたもタクシン派が勝てば軍はどうするか。
1946年に17歳で即位してから67年間君臨してきたプミボン国王は、国民から圧倒的な敬意を集め「タイ式民主主義」を担ってきた。その国王も今や86歳、昨年まで4年間の入院生活を送るなど病身であることが知られている。いずれ王位継承の時期がやってくるが、ワチラロンコン皇太子よりシリキット王女の方が玉座にふさわしいと言われて久しい。果たして王位継承がスムースに運ぶかどうか。東南アジア経済発展の優等生と見られてきたタイ王国だが、いよいよ国の先行きが読めない時代に入ったようだ。
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