思い起こそう「声なき声」の小林トミさんを -日本の平和運動は正念場に-
- 2014年 6月 11日
- 評論・紹介・意見
- 小林トミ岩垂 弘平和運動
毎年、6月になると、私は小林トミさんを思い出す。今から54年前の1960年6月にごく普通の市民の1人として反戦平和のために立ち上がった女性である。彼女が掲げた小さな灯火は瞬く間に世間が注目する反戦市民運動となり、その後、その灯りは小さくなったものの今なお点され続けている。今ではそれに関心を寄せる人は極めて少ないが、私には、今こそ、彼女が発し続けた声に応える時ではないかと思えてならない。なぜなら、私たちの政府は今、平和憲法をかなぐり捨てて「他国と戦争ができる国」になろうと猛進しているからだ。
1960年6月4日、東京・虎ノ門の街頭に一片の横幕がひるがえった。そこには「総選挙をやれ!! U2機かえれ!! 誰デモ入れる声なき声の会 皆さんおはいりください」と書かれていた。画家の小林トミさん(写真)が、知人の映画助監督とともに掲げた、日米安保条約改定反対のデモを呼びかける横幕だった。
小林さんは当時、30歳。千葉県柏市の自宅から都内に通い、子どもたちに絵を教えるかたわら、評論家・鶴見俊輔さんらが始めた思想の科学研究会の会員として活動していた。
そのころ、都心は騒然たる雰囲気に包まれていた。というのは、自民党の岸信介内閣が米国との間で結んだ新安保条約(日米安保条約を改定したもの)の承認を国会に上程。これに対し、社会党(社民党の前身)、共産党、総評(連合の前身)、平和団体などが「日本が相互防衛義務を負うことにより、自衛隊が米軍により協力することになる」「自衛隊の強化が義務づけられる」「条約適用地域があいまい」などとして、改定反対運動を起こしたからだった。とりわけ、この年5月20日に自民党が衆院本会議で新安保条約承認を単独で強行採決したことから、国会周辺は連日、全国各地からやってきた人々による抗議デモで埋め尽くされた。デモの中心は労組員や学生だった。
小林さんもデモに加わろうと思ったが、労組員でなかったからデモの経験がない。会員仲間に相談すると「じゃあ、普通のおばさんも気軽に歩けるようなデモをやってみよう」ということになり、にわかづくりの横幕をもって他団体のデモが出発する虎ノ門にやってきたのだった。
横幕に書き入れた「声なき声の会」は、岸首相の発言を逆手にとったものだった。首相が安保改定反対デモについて「私は『声なき声』にも耳を傾けなければならないと思う。いまあるのは『声ある声』だけだ」と述べ、「声なき声」、すなわち国民世論は政府の方針を支持しているのだ、と言明したのに対し、小林さんらは「声なき声」も抗議の声をあげていることを態度で示そう、と考えたのだった。
小林さんらが歩き始めると、沿道の歩道にいた一般市民が次々と隊列に入ってきた。国会近くを通り、新橋で解散したが、その時、デモの参加者は300人以上にふくれあがっていた。さまざまな職業の人たち。「またこのようなデモがあったら教えてほしい」との声があがり、小林さんが紙切れを回すと、200人もの名簿が出来上がった。「声なき声の会」の誕生であった。
声なき声の会のデモはその後、7月初めまで5回にわたって行われた。参加者は毎回、500~600人にのぼった。デモの中にはいつも小林さんの姿があった。会員の意見交換の場として創刊した『声なき声のたより』は、3500部に達した。「声なき声の会」はその後、ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)の母胎となる。
安保改定反対運動は国民各層による幅広い運動に発展。6月15日には、全国で580万人参加の労組によるストが行われ、11万人が国会周辺につめかけた。その夜、全学連主流派の学生が国会構内に突入して警備の警官隊と衝突、東大生樺美智子さんが死亡した。この6・15事件は内外に衝撃を与え、岸内閣はアイゼンハワー米大統領の訪日中止を決めた。が、新安保条約は6月19日に自然承認となり、同月23日には日米両国政府によって批准書交換が行われ、新安保条約は発効した。条約は1970年6月23日に10年の固定期限切れを迎えたが、日米両政府から破棄通告はなく、その後毎年、自動延長され、現在に至っている。
ところで、小林さんは6・15事件から1年後の61年6月15日、樺美智子さんが亡くなった国会南通用門を訪れた。事件直後、そこは樺さんの死を悼むおびただしい人々と花で埋まっていたのに、1年後はわずか20人ばかり。ショックだった。「日本人はなんと熱しやすく冷めやすいことか」
小林さんは、決意する。「安保条約に反対する運動をこれからも続けてゆこう。そして、運動の中で1人の女性の生命が失われたことを忘れまい」。以来、小林さんは毎年6月15日に声なき声の会会員とともに集会を開いた後、国会南通用門を訪れ、献花するようになった。やがて、小林さんは声なき声の会の代表世話人となり、会の継続に力を注ぐ。
反安保運動の退潮で、1980年代には集会の参加者が数人になり、声なき声の会の看板を下ろそうという声も出た。しかし、同会会員によると、小林さんは「のたれ死にするまで、やれる人がやればいい、私はやると」と言って、会をやめなかった。「それで、その後も会が続いてきたんです」と会員。
小林さんは2003年に病没、72歳だった。小林さんが亡くなった後も、6・15集会は彼女の遺志を継ぐ人たちによって毎年続けられている。
小林さんの活動は、それまでの社会運動と比べて3つの点で際だっていたと思う。まず、その活動が他から命令されたり指示されたものでなく、あくまでも自発性に基づいたものであった点。第2は口舌の徒でなく、必ず行動を伴ったものであった点。第3は長く継続する活動であった点だ。
それにしても、彼女を反戦市民運動に駆り立てていたものは何だったろうか。それは、少女時代の戦争体験だったのではないかと思われる。そうした体験を通じて「戦争はいやだ」という強い意思が形成され、それが生涯を通じて失われなかったということだろう。
日本がアジア太平洋戦争を始めた1941年当時、小林さんは11歳で、東京湾に面した漁師町、千葉県浦安町(現浦安市)に住んでいた。山本周五郎の名作『青べか物語』の舞台となった町だ。父は下駄と鼻緒の行商だった。戦争が激しくなると、日用品が乏しくなり、配給制度に。やがて、食糧難。町の若者に召集令状がくるようになり、何人かは再び町に戻ることはなかった。残された男たちは軍需工場に徴用された。
彼女は都立葛飾高女(現都立南葛飾高校)へ進むが、そのうち授業はなくなり、専ら勤労動員の日々。教室が工場に変わり、無線機の組み立てをさせられた。空襲も激しくなった。1945年3月9日から10日にかけて米軍機による東京・江東地区への空襲があり、約10万人が死んだ。「川一本隔てた東京の空が一晩中、恐ろしいほど真っ赤に燃えていた。翌朝、真っ黒にすすけた顔の被災者が逃げてきた。なんともかわいそうでした」。小林さんはかつて、私にそう語ったことがある。
一家は父の郷里の茨城県土浦市へ疎開する。が、そこでも空襲から逃れられなかった。隣町に海軍飛行予科練習生の基地があったからだ。毎晩、荷物をもって逃げ回った。転入学した土浦高女(現土浦第二高校)でも授業はなく、講堂で飛行機の部品づくりに追われた。
「戦争はいやだ」という意思はこうした経験に裏付けられたものだったのである。
小林さんは、かつて「なぜ一般市民の立場から安保改定反対運動に参加したか」との私の問いにこう答えたものである。「あの時、国会につめかけた人たちの心の中には、二つの思いがあったと思うの。新安保条約が警官が導入された中での多数党のごり押しによって強行採決された。民主主義が破壊されたから、今こそ民主主義を守れ、という憤り。もう一つは、新安保条約によって日本が戦争に巻き込まれるのではないかという素朴な恐れ。わたしにも両方あったけど、戦争になったら大変、という気持ちの方が強かったわね」
やはり、虎ノ門で横幕を掲げた彼女を突き動かしていたものの一つは戦争体験だったのだ。
それにしても、最近の政治状況は54年前のそれとあまりにもよく似てはいまいか。今国会中に閣議決定によって憲法解釈を変え集団的自衛権を行使できるようにしたい――安倍政権が進める手法は新安保条約の承認を急ぐために承認案件を衆院で強行採決した当時の岸内閣のそれとあまりにも似ていると思うのは私だけだろうか。
情勢は緊迫している。今こそ、小林トミさんの発言を思い起こしたい。戦争体験のない人は、彼女の著作を読んで戦争というものについて想像の翼を広げてほしいと思う。
★今年の6・15集会は6月15日(日)14時~16時、東京の豊島区民センター第3会議室で開かれます。JR池袋駅東口から5分。集会後、国会南門で献花。声なき声の会主催。どなたでも参加できます。
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