ローマ法王パレスチナ訪問2題
- 2014年 6月 18日
- 時代をみる
- パレスチナ問題松元保昭
フランシスコ・ローマ法王は、アン マンからヘリコプターでベツレヘムの生誕教会に到着しました。法王は空から、1948年、1967年のパレスチナ難民たちがアレンビー橋を渡ったことを想い起こしたでしょうか?
法王がパレスチナ/イスラエルを訪問したのは5月25~26日でしたが、この前後にインティファーダ・パレスタイン に投稿された2篇のエッセーを紹介いたします。前篇は、法王がパレスチナを訪問する数日前に書かれたもので、ロンドン在住の中東アナリスト、ジェニン出身の71歳のパレスチナ人がパレスチナ問題を回顧します。
後篇は、現在シドニーで、「パレスチナ問題のための正義」のコーディネーターを務めている女性研究者による手厳しい論評。彼女は、2005年ヘルシンキのアチェ和平会談の人権アドバイザー、オーストラリア東チモール協会議長など歴任し、BDS(イスラエル・ボイコット)など活発な投稿活動をしています。拙訳ですが、紹介させていただきます。ご参考になれば幸いです。
なお、ベツレヘムのアイダ難民キャンプ近くの分離壁で法王が祈りのために車を止めたことはすでに世界中に報道されていますが、イスラエル当局が前もって壁を白く塗り替えていたところに、さらにパレスチナの若者が「パパ、われわれは自由に生きたい」という落書きをし、これが法王の目を止めたと言われています。http://i2.wp.com/www.intifada-palestine.com/wp-content/uploads/2014/05/Pope-prays-at-the-seperation-barrier-Al-Monitor-640×360.jpg
6月8日には、イスラエルのペレス大統領とパレスチナ自治政府アッバス議長が予定通りヴァチカンに招かれ「平和のための祈りの集い」をしたと伝えられましたが、ちなみに、イスラエル建国後のローマ法王の聖地巡礼は、第二ヴァチカン公会議後の1964年のパウロ6世が初めてで、フランシスコ法王が4人目となります。2000年のヨハネ・パウロ2世の聖地訪問では、ヤドバシェム(ホロコースト記念館)を訪れるとともに、ミサでは、十字軍、宗教裁判、反ユダヤ主義 にカトリック教会と信者がかかわった過去の罪を認め、神に許しを求めたといわれています。
し かし、この6月15日には、(紹介論考にも触れられているように、ついこの前、無防備のパレスチナの若者2名が背中を撃たれて殺害されたことを不問にしたまま)イスラエル入植地の若者3名が「行方不明」になったというだけの理由で、ネタニヤフが軍に厳命し、パレスチナ国会議員を含むハマース関連の80人が 逮捕されたと伝えられました。あろうことか、パレスチナ統一政府ができるというこの日にあわせて、この国家の狼藉のニュースがただちに全世界に配信されたのです。証拠も令状もなしに逮捕し、裁判もなく拘留し投獄する、暗殺も爆撃も民間人虐殺もほしいままにし、国際法を蹂躙して、何ら国際社会 からの咎めを受けない軍事占領のこの例外国家の存在は、世界の暗雲の源でありつづけています。(2014年6月15日、松元記)
ローマ法王パレスチナ訪問2題(前篇)
Posted: 24 May 2014 08:52 AM PDT
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じつに特別な神
ジャファール・M・ラミーニ(松元保昭訳)
2014年5月24日
インティファーダ・パレスタイン
私 たちは今なお、イスラエルの人々のせいで私たち自身のホロコーストを被っています。さらに、もし普遍的に認められている人権を訴えたり抵抗したり頭をもたげようものなら、イスラエルのもうひとつの植民地アメリカ合州国議会によってテロリストの烙印を押され、私たちは野蛮な力で押さえつけられるのです。これ は悲劇的な皮肉です。
ロンドンにて―きょうは私の誕生日です。私は71歳ですが、この地上に生を受けてからずっと、私は神とは何か、神が誰か、ときどき分からなくなります。
私は、預言者ムハンマドがムスリム信仰を確立する彼の旅と彼の苦労について読みました。私は、イエスを褒めたたえる賛美と彼が人類にもたらした正義と平和のメッセージについてキリスト教の聖職者から説教を聞きました。
私は、神の唯一性やその服属と神との関係について語る律法学者をたくさん読んだり聞いたりしました。これら三つのいわゆる「アブラハム信仰」、すなわちユダヤ教、キリスト教、イスラームのあいだには多くの類似点がありますが、それらはまた、依然として大海のように隔たっています。
こうしたときにも、私はなぜ神に呼びかけるのでしょう?たぶん私の誕生日だからでしょう。たぶん今年が、約3700万人もの無用な死に責任のある第一次世界大戦100年の節目に当たるからでしょう。たぶん最近が5月15日のナクバの記念日であるからでしょう。あるいはたぶん、私の母国パレスチナが永遠に失われないという希望のほんのかすかな光でも見たいという絶望的な必要からくるのでしょう。そしてたぶん、彼らに降りかかったイスラエルというこの邪悪から私の兄弟たちが解放されるだろう、その期待を越えることを私が願っているからでしょう。
私たちの土 地のシオニスト占領者たちによると、私たちの地パレスチナをあらゆる他の者たちに先立って彼らのものとして相続するよう「彼らの」神が彼らを選び彼らに約束したというわけです。
21世紀には私たちはここ地球村で暮らしていますが、シオニストたちによれば、依然としてユダヤ人の神が現実の所有権を分けると決定したことになっています。
パレスチナ人として、私の同胞の大部分のように、私はユダヤ人やキリスト教徒たちが兄弟または隣人として一緒に暮らすことに何の問題も持っていませんでした。その問題は、シオニストのユダヤ人、無神論者テーオドール・ヘルツルと数人の同じ志をもつ個人たちが彼らに言わせると世界のどこか安全な場所を持たねばならないと決めた19世紀末に始まりました。
これらのシオニストたちは、アルゼンチンについて考え、ウガンダについて考え、そして最近明らかにされたことによると、アル・ハサと呼ばれる現在のサウジアラビアの一部についてさえ彼らは考えていたのです。私たちにとってはまことに残念なことに、彼らはパレスチナに入植したのです。
あらゆる手段と武器、とりわけ「神の意思」が、パレスチナの民族浄化を正当化するために私たちを抹殺するために、これら私たちの土地の占領者たちによって利用されたのです。これが、シオニズム運動の初期の指導者たちの幾人かに「1895年6月、創設者テーオドール・ヘルツル」と言わせたことなのです。
「われわれは、国境の向こうに文無しの住民を連れ出そうとしているのだ。…没収の手順と貧しい奴らの移送は慎重に遂行されねばならない。」 リクードの中核イデオロギーを形づくる修正シオニズム運動の創設者ウラジミール・ジャボティンスキィは1923年に言明した。「…植民地化は、 ―先住民が突破することのできない鉄の壁で…現地住民の自主的な力から保護さえされれば続行され発展できるだろう。われわれは、われらの民が圧倒的多数派を占める領土が必要なのだ。…われわれは「人種差別」という言葉を恐れる必要はない。」
このプロジェクトの支援を確保するため、英国系ユダヤ人作家イズラエル・ザングィルはひとつの言い回し「民なき土地に土地なき民を」を造り出しました。およそ1890年代前半のパレスチナには、ほぼ410000人のパレスチナ・アラブ人(ムスリム とキリスト教徒)が暮らしていたという事実は、彼を悩ますことはなかったのです。
1915年にポーランドに生まれ2度イスラエル首相に就任した反英テロ組織シュテルン・ギャング団の指導者イツハーク・シャミールは、アラブ人を「正規の民ではない砂漠の野獣」と表現しました。1947年のメモには、彼のシュテルン・ギャ ング団は望むらくはイラク方面への全パレスチナ住民の強制排除を指令しました。
もうひとりのイスラエル首相ゴルダ・メイアは、1969年に英国の全国紙サンデー・タイムズ に次のように語りました。「あたかもパレスチナにパレスチナの人々がいてそこにわれわれが来て彼らを追い出し彼らの土地を取り上げた などということは間違いです。」ついで彼女は、 「彼らは存在しなかったのです」と言ったのです。
この拒絶の方法論は、最近のシオニスト指導者の一群によって今日も継続しています。オスロ合意以降、イスラエル閣僚の多くのメンバーに擁護され保護された入植運動の形態をとってパレスチナに対する植民地化と民族浄化の新しい顔が現れました。
はっきり言えば、ウクライナ出身の悪党アヴィグドール・リーベルマン外相は、西岸にあるこれらの植民地主義者の不法入植地のひとつノクディムに住んでいます。
シオニストたちによれば、上に述べたすべてが彼らの特別な神によって定められています。ウラディミーリ・ジャボティンスキーが語ったように、「われわれユダヤ人は神に感謝する。東に欲しいものは何もない。イスラームの魂はエレツ・イスラエルから一掃されねばならない。」
イスラエルのすべての前提は彼らが東に属していたことだったと私は考えました。それゆえ、現在のイスラエル首相ネタニヤフ氏によれば、多くの儀式における声明では彼らは占領者ではなく帰還者であると言うことらしいのですが、どっちなんでしょうね?
あらゆる機会に、あらゆるところで、イスラエルの人々はホロコーストを引き合いに出します。彼らの叫びは「二度と御免だ」です。私は同意します。それは世界の誰にもどこでも二度と起こってはならないことです。イスラエルの人々が故意に忘れていることは、そのホロコーストにパレスチナ人がまったく何の役割も果 たしていなかったことです。
その証拠に、シオニズムは、ホロコーストに先立つ50年前、その先住民所有者パレスチナ民 族からパレスチナを強奪することを正当化するために、利己的に神を利用した無神論者によって考案されたものでした。
私たちは今なお、イスラエルの人々のせいで私たち自身のホロコーストを被っています。さらに、もし普遍的に認められている人権を訴えたり抵抗したり頭をもたげようものなら、イスラエルのもうひとつの植民地アメリカ合州国議会によってテロリストの烙印を押され、私たちは野蛮な力で押さえつけら れるのです。これ は悲劇的な皮肉です。
1948年のイスラエル国家創設以来、徐々にですが、パレスチナの状況は非常に悪くなっています。さらなる虐殺と殺戮、家屋破壊と経済基盤の破壊、土地の没収、牧草地の焼却、何百年も育っているオリーブの老木の根扱ぎ、農地の汚染、強制退去、男たち・女たち・子どもたちに対する裁判なしの投獄と囚人の拷問、自然資源の窃盗、ユダヤ人専用の入植地と道路の建設、検問所、挙句の果てに、ジャボティンスキー氏が何年も前に必要な鉄の壁と語っていた分離壁。
キリスト教徒とイスラム教徒双方の聖地に対する冒涜が同じペースで続いています。2,3日のうちに、フランシス法王が聖地を訪問するといいます。入植地の狂信者たちは、彼らの神が他者のものより勝っていると優越性を証明するため「値札(プライス・タグ)」攻撃 (注1)と称するもので、人種差別のスロー ガンや冒涜の言葉を教会やモスクに吹きかけました。
【訳注1、「値札(プライス・タグ)」攻撃: 過激入植者による「値札」攻撃は「価格を支払え」という脅迫のメッセージ。アリエル・シャロンの首相時代2005年8月 のガザ地区の入植地撤去に対するユダヤ人入植者の抗議に始まるが、その後、西岸でこの暴力的なキャンペーンが広がった。主にパレスチナ人の村落や農地、オリーブ、家畜、車など資産の破壊、殺人を含む人身攻撃、キリスト教会やイスラム教モスクの破壊などを攻撃目標にしている。ときには、入植地を縮小しようとするイスラエル政府や彼らを取り締まるイスラエル警察、治安部隊に対しても「値札」攻撃がなされる。イスラエル政府は公式には彼らの暴力行為を非難しているが、彼らが逮捕され処罰されることはほとんどない。何千本ものオリーブの樹を焼き尽くしたり、何十頭もの妊娠した羊を焼却したり、モスクや教会に放火したり、狼藉を重ねては「アラブ人を殺せ」「アラブ人に死を」などとともに「値札 (プライス・タグ)」の 落書きを残していく。】
私がこれを書いているときにも、アル・アクサ・モスクとイスラーム第三の聖なる寺院、岩のドームとともに8世紀に造築されたハラム・アッシャリーフ(神殿の丘)の敷地内でユダヤ人の儀式や祈りをできるよう入植者やその他の者たちに許可する法案をイスラエル議会(クネセト)が通過させようとしています。
さらに危険なことに、この古代の最も神聖な場所を実際に破壊して入植者たちが第三神殿と呼ぶものに置き換える計画もあります。このイスラエル人の特別な神のさらにもうひとつの具体化として、私たちのすべての上に力づくでそれを設置するというのです。
ナクバ(NAKBA)が起きたとき、私は5歳でした。75万人のパレスチナ人が、シオニスト・ ギャング団によって彼らの故郷から強制的に追放されました。そして、500以上の町や村が地図上から抹消されました。この悲劇は、終りも見えず今なお進行中です。
この特別な神の改造によって、たとえどんなにパレスチナ人の犠牲者が増えようとも、それは十分ではありません。イスラエル人はゲームのルールを変え続けています。そしてワシントンのコーラスはその承認をオウム返しに繰り返します。すべてが、この特別な神によって命じられたように。
ジャボティンスキー氏が1923年に返事を書いたように:「将来の合意への唯一の道は、合意に向かう現在のどんな試みをも無条件に拒絶することである。」
わが同胞よ、こうした心的態度の人々と和平を前に進める努力は、事実上の不可能事であるというのは今日明らかなことです。これらの会談の発案者についてあなた方が何も知らないなら、あなた方の敵対者の大義名分の勝利です。どうか、蜃気楼を追って無駄な時間と資源を浪費するのを止めてください。
どうか、4週間前に署名した(注2)真実で強固な前進的方針という統一 合意を実現させてください。地位と目的の統一なしには、すべてが失われるでしょう。
【訳注2、4週間前に署名:2014年4月23日に発表されたPLOとハマースの和解声明。】
シオニストとその支持者たちが非常に早い段階から私たちに対して展開した、そしてまだ終わっていない、これが究極の対抗手段です。
聖書、欽定訳、申命記1章7節:「身をめぐらして道に進み、アモリびとの山地に行き、その近隣のすべての所、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海べ、カナンびとの地、またレバノンに行き、大川ユフラテ にまで行きなさい。」
まことに、 じつに特別な神ではある。
Source: Salem-News.com
(以上、翻訳終り)
【ご参考:著者の申命記の引用個所につづいて、8節は「見よ、わたしはこの地をあなたがたの前に置いた。この地にはいって、それを自分のものとしなさい。これは主が、あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた所である。」となっている。ユ ダヤ教を利用するシオニストたちが典拠とする個所のひとつでもある。】
(後篇につづく)
ローマ法王パレスチナ訪問2題(後篇)
Posted: 28 May 2014 09:19 AM PDT
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法王の訪問は不発
ヴァシー・ヴレィズナ(松元保昭訳)
2014年5月28日
インティファーダ・パレスタイン
私が子どものころは、爆竹を鳴らして遊んでいたものです。ほとんどはかなりの衝撃で、強力な爆発音にみんな逃げ出すのです。いくつかはまずいものもあって、 うまくいかず不発に終わりました。私たちはそういう不発弾を「どじ」と呼んだものです。法王の旅は、真実にとってまたパレスチナ人の大義 にとって日和見的な不発弾でした。
さらに前もって、この訪問は「政治的なものではなく」単なる巡礼であるとパレスチナ人はヴァチカンに通告されていました。ふつうのキリスト教の聖なる場所は さておき、二人の戦争犯罪人ネタニヤフとペレスが同席するテーオドール・ヘルツルの墓場への巡礼で、キリストの代理人フランシスコはユダヤ人テロリスト軍団に犯されたナクバの虐殺行為を引き起こしたシオニズムの立案者を記念して大きな花輪を捧げたのです。つまりナクバ、500ものパレスチナの村々の虐殺、強姦、 略奪、破壊、そして彼らの愛する地から750000人の先住パレスチナ人の強制追放と資産強奪…ホロコーストのわずか3年後に。
シオニストには何という誇りでしょう!シオニストの無神論者ヘルツルに敬意を表するカトリックの法王!フランシスの友人でラビ、アブラハム・スコルカが、それを「シオニズムへの同意と理解されたかもしれない」と 気づいたとき、まったく正しかったのです。それはすぐれて同意以上のことでした。上機嫌のネタニヤフ一味にとって、それはフランシスの二国家解決を否定する大イスラエル主義の 領土拡張政策に対するひとつの承認であったのです。
偶然にも? まったく同じ日に、「すべてのユダヤ人の町と入植地を含む西岸の約60パーセントを占めるエリアCを併合することができる」10の法案がクネセト(イスラエル議会) に付託されました。
ベツレヘムで、法王は不法な併合/アパルトヘイト・ウォール(分離壁)で不意に車を止まらせ静かな祈りを捧げたと伝えられています。ヴァチカン当局は、フランシスコは「治安の壁に反対して祈ったのではなく、こうした壁を造らせるような状況に対して祈ったのだ」とイスラエル外務省を安心させました。
そう、しっぺ返しとして、テロ犠牲者の慰霊碑(注1)で余儀なく車を止めることに同意させられたのです(奇妙なことに、パレスチナの犠牲者はその予定表には記載されていなかったのですが)。その後、巡礼はホロコースト記念館 ヤド・ヴァシェム(注1)に礼儀正しく到着しました。フランシスコは、そこで「もう二度と、主よ、もう二度と」とイロニーの頂点を口にし、そして6人のホロコースト・サヴァイバー(生存者)の手にキスしたのでした。
【訳注1、慰霊碑、ホロコースト記念館ヤド・ ヴァシェム:イスラエル西エルサレムの「ヘルツルの丘」は国立共同墓地となっている。ここに上記のヘルツルの墓をはじめ、第二次大戦中各国兵士として戦ったユダヤ人記念碑、1948年 に亡くなったユダヤ人記念碑、ホロコースト生存者の没後記念碑などとともに、パレスチナとの「テロ犠牲者」の記念碑があり、西の丘にヤド・ヴァシェムと呼ばれる国立ホロコースト記念館がある。ここには、徴兵されたイスラエル兵の「研修」もあって兵士姿も必ず見られる。ホロコーストの歴史や証言とともに度重なる侵略戦争で領土を獲得したイスラエルの歴史も顕彰されており、同じく侵略戦争を顕彰する日本の靖国神社を彷彿とさせる。】
彼は、巡礼をしたのではありません。テロ国家イスラエルによって殺害された何万人ものパレスチナ人を哀悼する花輪を捧げませんでした。
ローマ法王の嘆願「もう二度と、主よ、もう二度と」は聞き届けられませんでした。10日前に平和を愛するイスラエルの軍隊に背中を撃たれた若いムハンマド・アブー・ダーヘルとナディーム・ナワーラ(注2)の簡素な墓にたった一本の花さえ置かれることはなかったのです。もちろんパレードの行列は、イスラエルの寛容の記念館に道をあけるため外観を隠して冒涜し古いイスラム教徒の墓地を避けたのです。
【注2、10日前に背中を撃たれた(二人の少 年):本年5月15日の「ナクバの日」にイスラエルのオフェル監獄に向けて、ハンスト中のパレスチナ政治囚への連帯デモに参加していた非武装のナディーム・ナワーラ(17)とムハンマド・アブー・ダーヘル(16) がイスラエル治安部隊に背後から射殺された事件。国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」(HRW)は、「占領当局の治安部隊が一般市民を意図的に殺害することは、戦争犯罪に当たる」と責任者の処罰を求めている。現場動画サイトは、http://www.palestinechronicle.com/hrw-killing-of-palestinian-teens-could-amount-to-war-crime/#.U5lESnmKBMs 】
フランシスコのスピーチは、パレスチナ人とイスラエル人の物語は対等です、すなわち、陸軍も海軍も空軍も核武装もないパレスチナ国家は、世界で4番目に大きな核軍事力をもつイスラエルに匹敵しますといって、独特の感銘を与えています。
「この 終結のために、真の合意に達するために表明された願望を否定するようなイニシアティヴと行動をみんなが控えましょうという私の深い希望を表明することができるだけです。」
アッ バス大統領に向かって、彼フランシスコは、アッバスではなくネタニヤフ政府こそがパレスチナのキリスト教徒が復活祭にヴィア・ドロローサや聖墳墓教会に近づくことを制限して威圧したり、あるいは教会に対するヘイト・クライムをしでかしたり、同様にアル・アクサ・モスクを破壊する計画を口止 めしたりするのは、ムスリムではなくユダヤ人であったということをおそらく知らないで信教の自由の重要性について長々と話し続けていたのです。
彼が「この 紛争からもっとも苦しみに耐えている人々に親近感」を持つと表明している間、
法王は まぎれもなく、実際、懲らしめられ、かろうじて生き残り、生きることにもっとも苦しみに耐えているガザの家族たちに注意を払うことを省略してしまいました。ローマ法王(のいる地点)から46キロメートルも離れて、たぶん身 近ではなかったのでしょう。
アッバスは 統一政府のためにハマースとの交渉で板挟みになっているけれど、いつもの習慣で彼もまた、イスラエルの不法で冷酷な封鎖によるガザの深刻な人道危機についての言及を忘れていたのです。
彼のスピー チでは、「パレスチナ国家」に対する法王の承認は大方なされていました。何も驚くようなことはありません。すなわち、2012年11月にパレスチナが圧倒的多数でオブザーバー国家として国連に選出されたあとの2013年3月に、国連事務総長潘基文が、国家 (もはや領土もない)当局としてのパレスチナに言及していたのです。
スピーチの すべてがありきたりの内容にもかかわらず、ブラック・ブラック・コメディであろうとコメディの瞬間が演じられました。
法王フランシスコは、ペレス大統領を「とても賢い男だ」と賞賛した:同じペレスが、国際的な武器禁輸を犯してアパルトヘイトの南アフリカに武器を供給しさらにイスラエル核弾頭の売却を提案し、ほぼ数十万人のレバノン人が彼らの家を失うことになる「怒りの葡萄作戦」を1996年 に開始し、イラク、イラン、そしてシリアに対する戦争を奨励した。また彼の「現地のパレスチナ人の拒絶、および2013年 には、土地なき民の神話の売り込みを繰り返している。…彼が属している地域の近くに、そこにほぼ1200万 人の人々が生きているという存在を彼は否定しているのだ。」(イラン・パペ)
法王は、 アッバスに「あなたは和平の男として知られています」と語りました。「ほんと?」アメリカ合州国の指導者がイスラエルに対するパレスチナ人の抵抗を容赦なく押さえつけるパレスチナ自治政府治安部隊を訓練したのでは、アッバスさん?
ここに、ネタニヤフの信じられない言葉があります。
「法王様、キリスト教徒がしばしば迫害される荒れ狂う暴力の中東、この中東の中心でイスラエルは寛容の島です。私たちは、信仰の権利を保護してきました。私たちはすべての人々に礼拝の自由を保証しているし、キリスト教徒、イスラム教徒、そしてユダヤ人の聖なる場所で現状を守ることを約束し ます。」大笑いです。
法王のスピーチは、現実に対する、真実に対する免疫を注ぐような外交的駆け引きの語りと婉曲法を吹き込んで、聖地だけでなく全世界で彼が巧みに使いこなした 正義と平和への潜在的な影響力を先細りにしました。とはいえ、法王は真のキリストのような勇気をもつことをわかっていません。
フランシスコのなまぬるい控えめの声明、「私は、ますます受け入れ難くなったこの状況を終わらせる時が来たという心からの信念を表明したい。」は、 ピウス12世の第二次世界大戦のなまぬるい声明を想い起こさせます。
信仰の擁護者(ローマ法王)もまた、ユダヤ人に対する彼の懸念の証拠としてひとつの公然とした声明に注目させます。これは、1942年の彼のクリスマス・メッセージ です。そこで彼は語りました。「人類は、彼ら自身に何の過ちがなくともときに彼らの国籍や人種という理由だけで死あるいは段階的な絶滅に定められる何十万人もの人々に対してこの誓いを負っています。」声明は、とくに目立って「ナチ」や「ユダヤ人」という言葉を挙げることはないので す。
コーンウェルが引き合いに出すギュンター・レーウィー:「ヴァチカンのラジオを越えて広く放送され、また多くの司教によって説教壇で読まれたピウス12世の大量虐殺に対する公然たる弾劾は、東部への強制移送が何を引き起こしたかユダヤ人とキリスト教徒に示したことになる。しかし、同盟国の放送が戦争プロパガンダとしてしばしば無視されていたのに、法王は信じていたのでしょう。」(ミッチェル・バード)
確かに、フランシスコのスピーチは(彼が話しかけている人々に)曖昧さを含んでいました。例えば:
「誤ったイデオロギーに拍車をかけられ、いつか人間の悪が落ち込みうる奥深い永続する象徴[ショアー]」
「あなたが善と悪との主人であると誰が考えさせましたか?あなたが神であるなどということを誰が あなたに信じさせましたか?あなたは兄弟姉妹を拷問し殺害したばかりか、自らを神にしたことによって、あなた自身のために彼らを 犠牲にしたのです。」
だから私は、この祝福された地は、彼ら自身の宗教的な伝統の価値を絶対化し食い物にして他の人々に向かって不寛容と凶暴さを証明しているような人々の場所ではないだろうという私の希望と祈りを表明しておきます。
それにしても、イスラエルのアパルトヘイトと占領の下で時々刻々苦難を受けているパレスチナ人が、いかに真理は彼らを自由にするとはいえ、曖昧さや外交辞令的な中立の立場から希望を拾い集めるものではないでしょう。
正義のために、率直なイエスを手本にすることは、フランシスコ法王を注目させます。その人イエスは、「『わが家はすべての諸国民の祈りの家 と呼ばれるだろ う』と書かれていないか?しかし、あなた方は盗賊の隠れ家にしたではないか。」と神殿を清めました。あるいは、少なくとも、恐れを知らないデズモンド・ツツ大主教の誠意に満ちた花火の箱から流星花火を取り出しておきましょう。
『私は、イスラエル治安部隊の兵士たちによるパレスチナの男たち、女たち、子どもたちに対する組織的な暴力と屈辱を目撃しました。彼らの屈辱と痛みは、私たち南アフリカ人にとってあまりにも見覚えのあるすべてなのです。
南アフリカでは、世界中の人々の助けなしに私たちの民主主義を達成することはできなかったのです。何十年もの長きにわたるアパルトヘイト体制への支援をひっくり返すために、人々はボイコットや資本引き揚げという非暴力手段の活用を通して彼らの政府や法人組織の関係者を励ましました。イスラエ ルの占領と結びついている圧制を終わらせようと彼らの苦闘を前進させるために彼らが非暴力の同じ戦術を活用しようとしているとき、私の良心がパレスチナの 人々とともに立つことを私に強いるのです。』
『不正義を見て見ぬふりをする人々は、じっさい不正義を永続させるのです。もしあなたが不正義の状況で中立であるなら、あなたは圧制者の側を選んで いるのです。』
(以上、翻訳終り)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye2666:140618〕
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