現代世界を原点から見つめなおすための重要資料 ウクライナのナショナリズムとファシズム:歴史概観
- 2014年 6月 18日
- 時代をみる
- ウクライナ問題童子丸開
私は今までにイズラエル・シャミールによる二つの卓越した論文(『キエフのスペクタクル:ウクライナのファシズム革命』および『クリミア:プーチンの勝利…いま戦線は東部「ニューロシア」へ移る 』)の和訳を通して、現在のウクライナ情勢を、単にその時々に起こる事件からではなく、世界と東ヨーロッパの歴史的・地理的・文明的な広がりの中から眺めてみようと試みてきた。しかしそのためにはやはり、近代初期から年代順に追ったウクライナとその周辺の歴史を取り上げてみる必要があると考え、今回の和訳(仮訳)に挑戦してみた。原文は、2014年6月9日および10日に2回に分けて特集されたwsws.org誌の次の記事である。
Nationalism and fascism in Ukraine: A historical overview
Part one http://www.wsws.org/en/articles/2014/06/09/fasc-j09.html
Part two http://www.wsws.org/en/articles/2014/06/10/fasc-j10.html
このwsws(World Socialist Web Site)はトロツキスト系のウエッブ誌であり、おそらく左翼系のユダヤ人によって運営されているものと思われる。したがってその視点や物事の取り上げ方に一定の偏りがあることは最初からご承知おきいただきたい。それにもかかわらず私がこの記事の和訳作業を行ったのは、これが、現在のウクライナ情勢を近代初期からの歴史的な流れの中で把握し説明しようとしているからである。もちろんだが、この記事で取り扱われている歴史上の事実、21世紀に入って以降の事実の一つ一つについては、ウエッブ上でより詳しい説明を数多く見ることができる。しかしこの記事のように、素人でも読むことができる程度にコンパクトに、しかも一つの流れとして筋を通して説明している例に、ようやく初めて出会ったのである。
和訳に際して、人名や地名などの固有名詞にはカタカナでの音訳の後に原典のつづり(英語つづり)を添えておいた。より深く調べてみる際の参考にしてもらいたい。また訳語の中で、”nationality”は「民族」と訳したが、”nationalism”,”nationalist”はそれぞれ「ナショナリズム」「ナショナリスト」と音訳を用いた。[1],[2]などは原典の注記であり、本文の後に原典通りの脚注を載せている。また必要に応じて訳者からの【訳注】を施している。
この翻訳文の理解のためにはウクライナの地理的・政治的特徴を理解しておく必要がある。本文をお読みになる際に、ぜひ下記のUrlの図解で事実を確かめていただきたい。
●最初はウクライナの一般的な地図。Liviv, Kiev, Odessa, Donetsk, Mariupolなどの主要都市の位置を確認してほしい。
http://media1.s-nbcnews.com/i/newscms/2014_15/307336/140407-ukraine-map-1340_dd80fbe5b071554454f416998fa18e24.jpg
●次は2001年の調査に基づいた言語に関する地図。ロシア語ネイティヴの割合を表わしている。
http://seansrussiablog.org/wp-content/uploads/2014/02/ukraine610-1.jpg
●続いて2004年の大統領選挙で、ユシチェンコとヤヌコヴィッチの勢力を表わしたもの。青い色の地域がヤヌコヴィッチ支持者が多数を占める地域で、オレンジ色の地域がユシチェンコの側。これと、上の言語地域を重ねてもらいたい。
http://thepolitikalblog.files.wordpress.com/2010/08/ukraine-2004-presidential-election-by-region1.png?w=960
この地図はある英語版の政治ブログ(Part 1, Part 2)によるものだが、これによると、2010年にヤヌコヴィッチがティモシェンコと争った大統領選でもこの傾向がほとんど変化していないことが分かる。
●次はこの訳文に登場するガリシアGalicia の位置を表わしたもの。ここはウクライナ西部の複雑な歴史経過を象徴する地域である。
http://www.germangenealogist.com/wp-content/uploads/2011/06/Galicia-Poland-Ukraine1.jpg
最後に、私からの【翻訳後記】を和訳の後に付けておくので、こちらの方も併せてお読みいただきたい。
2014年6月17日 バルセロナにて 童子丸開
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ウクライナのナショナリズムとファシズム:歴史概観
By Konrad Kreft and Clara Weiss
2014年6月9日、10日
西側メディアはウクライナ新政府でのファシストたちの目覚ましい役割を何とかして控えめに描こうとしている。数多くの政府省庁で極右スヴォボダSvoboda 党のメンバーが大臣となり、ネオファシストの右派セクターの戦闘員たちがこの国の東部で抵抗運動を暴力的に抑えつける活動に血道を開けている。
スヴォボダと右翼セクターはキエフでの2月22日のクーデターで決定的な役割を演じた。そのクーデターはベルリンとワシントンが後ろ盾となっていた。これはたまたまのことではない。ドイツ及びアメリカのウクライナ・ファシストとの密接な協力関係は過去100年にもわたる長い歴史を持っているのだ。
ウクライナ・ナショナリズムのルーツ
ヨーロッパの他の多くの国々とは対照的に、ウクライナではブルジョアジーによる強力な国民運動が全く起こってこなかった。ウクライナは中世以来ポーランドとロシアとの間で分割されていた。18世紀末のポーランド分割の後に、ウクライナはロシア帝国の一部となったのである。現在西ウクライナとなっている部分だけがハプスブルグ帝国に編入された。
ウクライナ国民運動の弱みは一面では経済的な後進性であり強力な中産階級の欠落だった。明らかな工業化はソヴィエト連邦の地域のみで起こった。他の面として都市人口の多くの部分がロシア人、ドイツ人、ユダヤ人で構成されていた点があり、一方で農村部人口は主要にウクライナ人だった。
1917年の2月革命でのロシア帝政廃絶に続いてブルジョアジー勢力がついにウクライナの国民国家を立ち上げたときに、彼らは即座に革命的な労働者階級と対峙することになった。ボルシェヴィキが10月【訳注】にロシアで権力を握ったのだが、それはウクライナの労働者階級から強い支持を受けた。それ以来、ウクライナでのブルジョア・ナショナリズムは、激烈な反共主義、革命的な労働者とユダヤ人に対するポグロム、そして帝国主義勢力の支援を勝ち取る試みをその特徴とすることになった。
【訳注:ロシア「10月革命」はユリウス暦1917年10月25日であり、現在の世界で使われているグレゴリオ暦では11月7日に当たることから「11月革命」と呼ばれることも多い。】
《写真:ヘトマンの将校たちと共にいるスコロパドスキー》
http://www.wsws.org/asset/d5508465-c497-4144-b76e-df8ea39bc4aJ/ukraine-skoropadskyi.jpg?rendition=image480
社会民主主義者が多数派を握るラーダRada(議会)は、1918年1月にウクライナの独立を宣言したのだが、ドイツとの合意を成し遂げようと試みた。しかしブレスト・リトフスク条約の後で、ソヴィエト政府はドイツへのウクライナ割譲を余儀なくされた。ドイツ軍が国内で行進したときに、軍はラーダを不要なものとし、ヘトマンHetman(軍司令官に与えられた特別の地位)であるパブロ・スコロパドスキーPavlo Skoropadskyiの下で独裁政権を確立した。彼は地主でありかつての帝政時代の将軍だった。スコロパドスキーはキエフを、極右翼で反ユダヤ主義者の政治家と軍将校たちがロシア全土から結集する場所にし続けたのだ。(参照: Anti-Semitism and the Russian Revolution: Part two )
《写真:キエフでのデニキンの軍》
http://www.wsws.org/asset/dd61afda-ff4f-41f8-950d-8f7c7ef9df8N/ukraine-denikinsarmy.jpg?rendition=image480
ドイツは第一次世界大戦での敗北によってウクライナからの撤退を余儀なくされた。打ち続くロシア内戦の間中、血まみれの戦闘がウクライナを包んだ。ソヴィエト政府に対する戦いの中でウクライナの地で西側勢力に支えられながら、デニキンDenikin 将軍率いる義勇軍は恐るべき犯罪と組織的な反ユダヤ・ポグロムを行った。1919年前半期だけでも白軍によって推定で5万人のユダヤ人が殺害された。
《写真:シモン・ペトリューラSymon Petliura 》
http://www.wsws.org/asset/8a66df39-9cee-4700-91b1-a271678c2feB/ukraine-petliura.jpg?rendition=image240
シモン・ペトリューラは、ナショナリストとなった多くの社会民主主義者の一人だが、キエフで権力を握った指導的な組織を率いた。この組織は同時に、ソヴィエト政府に対する戦争で西側勢力の後ろ盾を求め、3万人を超えるユダヤ人殺害の責任を負っていた。ペトリューラと、後に主導的な人物として登場するステパン・バンデーラStepan Banderaの両者は、今日のウクライナ・ナショナリストによって模範的な人物であるとみなされている。
レーニンはウクライナの自治を提唱したが、この民主的な呼びかけは抑圧されるウクライナの労働者と農民をボルシェビキに向かわせる決定的な役を演じた。ボルシェビキは1921年に内戦に勝利したのである。1922年にウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国が、公式に、新たに形成されたソヴィエト連合の一部となった。しかし西ウクライナはポーランドの支配下にとどまった。
帝国主義からの真の独立と民族文化の発展は、ウクライナではソヴィエト連邦の最初の時期の間だけ可能だった。これらの発展はレーニンとトロツキーの民族に対する政策から現われてきたのだが、この政策はソヴィエト連邦内の国々に幅広い自決権を認めるものであった。民族への抑圧はロシア帝政では一般的だったが、ボルシェビキによって厳しく拒否された。
ウクライナの民衆の文化的な生活と物質的な生活水準は1920年代にドラマティックに向上した。教育施設と大学が国中に設立されたために、文盲率は鋭く低下した。ウクライナの言語と文化は幅広く推進され、これが知的な生活を覆いに指摘した。レオン・トロツキーが1939年に書いているように、この政策のおかげで、ソヴィエト・ウクライナは労働者や農民、そして西ウクライナの革命的な知識人たちにとって非常に魅力的なものとなった。西ウクライナはポーランドによって隷属させられていたのだ。
ところが、スターリニスト官僚主義の登場がこの民族についての政策を終了させた。レーニンは、グルジアとウクライナの問題に関するスターリンの中央集権主義と官僚主義的な傾向を攻撃してきた。しかしレーニンの死後、スターリンは徐々に非ロシア民族への攻撃を激しくしていった。
「官僚主義は大ロシアの内部でも人々を苦しめ強奪した」とトロツキーは1939年に書いた。「しかしウクライナでは民族の希望の圧殺によって物事がはるかに複雑化していた。より大きな自由と独立を求めるウクライナ民衆の強く根深い願望に対する闘争の中で行われた、拘束と排除と抑圧とそして全てにわたるあらゆる種類の官僚的な蛮行による全面的な圧殺は、他のどこにもないものであった。」[1]
ウクライナの農民は1920年代後半から30年代初期にかけての強制的な集団化によって特に被害を受けた。ほぼ330万人の人々がこの政策の犠牲者となった。【訳注】
【訳注:この強制的な農業集団化に最も責任を負うべき者はラーザリ・カガノヴィッチである。】
スターリニスト官僚主義による民族主義的国家体制の悲惨な結末は「ペトリューラ支持者の後継者でありバンデーラ支持者の先駆けであるファナティックな反共主義に導かれる…ナショナリストの地下組織」を強化させるものになったと、ウラジム・ロゴヴィンVadim Rogovin は著書「スターリンの戦時共産主義」の中で述べている。 [2]
スターリンの殺人的な弾圧の政策はウクライナのナショナリストとファシストたちの手の中に入り込んだ。彼らは1941年にヒトラーがソヴィエト連邦に侵攻した際に、分断されたウクライナの西部で人々を扇動してヒトラーに協力したのだ。しかしながら、スターリニズムの犯罪があったにもかかわらずウクライナの大部分の人々は赤軍に加わってソヴィエト連邦を守るために戦ったのである。
第二次世界大戦におけるウクライナ・ファシストの犯罪
ナチスに協力した最も重要な組織はウクライナ民族主義者組織the Organisation of Ukrainian Nationalists (OUN)であった。そのメンバーは主要にペトリューラの側についてボルシェビキに対して戦った内戦の退役兵の中から募集された。
1930年代の間、OUNはウクライナ、ポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアで数多くのテロ攻撃を実行した。その思想的な主役はドゥミトロ・ドンツォフDmytro Dontsov (1883‐1973)であり、彼はジャーナリストとしての活動を通してウクライナの極右の主導的なイデオローグの一人となった。彼の活動の中にはムッソリーニのDottrina del Fascismo(ファシズム・ドクトリン)のウクライナ語への翻訳、およびヒトラーのMein Kampf の抄訳があった。
ドンツォフは早い時期から「非道徳」の論理を展開していた。それは、歴史家フランク・ゴロゼウスキFrank Golczewski によれば、 「大ロシアのあらゆる敵と、その政治的な目的を考慮することなく協力する」義務を力説した。それが「その後に続くドイツ人との協力関係」および冷戦中に米国の背後にいたウクライナ・ナショナリストの隊列への「思想的な正当化を成し遂げた」のである。 [3]
《写真:ステパン・バンデーラ》
http://www.wsws.org/asset/bc963ac3-ad0c-40ce-b766-fe4feae6df5L/ukraine-bandera.jpg?rendition=image240
1940年にOUNはバンデーラ(B)派とメルニクMelnyk(M)派に分裂し、それらはお互いに激しく争い合った。バンデーラのより過激なグループはメルニク派よりも多くの支持者をひきつけることができた。ウクライナの軍事組織(ロランドおよびナイチンゲール軍団the Roland and Nightingale Legions)がポーランドのドイツ占領地で確立されたことで、1941年6月にそれらとドイツ国防軍Wehrmacht の連合によるソヴィエト連邦侵略が開始されたのだ。
ドイツに征服された地域からの赤軍の撤退の後で、それらの軍団と特殊武装隊は無数のユダヤ人を虐殺することで補助部隊を務めた。1941年6月29日にOUN‐BがリヴィウLvivに侵入した後に、バンデーラ武装部隊(ナイチンゲール軍団)は何日間も続くユダヤ人へのポグロム殺戮を決行した。ウクライナ人の武装部隊はテルノピルTernopil、スタニスラウStanislau(今日のイヴァノ‐ファンキスクIvano-Fankisk )やその他の場所でユダヤ人を虐殺し続けた。ドイツ国防軍進撃の最初の数日間に関する文書による証拠は、およそ140のポグロムが西ウクライナで行われ、その中で1万3千人から3万5千人のユダヤ人が殺された。 [4]
1941年6月30日にバンデーラとOUN‐Bの彼の副官であるヤロスラフ・ステツコYaroslav Stetskoは、リヴィウでウクライナの独立を宣言した。OUN‐B政権のプロパガンダ局長であるステパン・レンカウスキStepan Lenkavski は、ウクライナ・ユダヤ人の肉体的な絶滅をあからさまに提唱したのだ。
ナチスはウクライナ人の協力者たちを、SS部隊にとってすらあまりにもおぞましい殺人と残虐行為をさせるために利用した。たとえばウクライナでSSの4a機動部隊は、自分たち自身は「大人を撃ち殺す」にとどめ「その一方でウクライナ人の補助部隊に子供たちを撃ち殺すように命令していた」のである。 [5]
ウクライナ人とソヴィエト連邦内のその他の協力者たちに対処することは、ナチの主導権に問題を引き起こす事柄だった。アルフレッド・ローゼンベルグAlfred Rosenberg はホロコーストに対するナチスの主要な責任者の一人だが、地元のファシスト勢力をより大規模な関与に駆り立てた。ヒトラーはナショナリストたちのいわゆる独立計画に反対した。ヒトラーの命令で、OUN‐Bの指導者たちは結局は逮捕され、ウクライナ人の軍団は武装を解除されて強制移動させられた。
1942年からはウクライナの武装部隊はベラルーシでの「反パルチザン作戦」と「安全保障任務」で、そして強制収容所での武装監視人として第三帝国に仕えた。バンデーラとステツコは1944年9月までザクセンハウゼン強制収容所に拘留され続けた。
ヒトラーの軍隊がスターリングラードでの敗北後に撤退を開始したときに、OUN軍団のメンバーたちがウクライナに戻り、1943年にウクライナ反乱軍(UPA)を作った。バンデーラはドイツ当局者によって釈放されるやいなやウクライナに戻ってUPAを率いた。
UPAはドイツの武器を与えられ、民族的に純粋なウクライナ国家のための状況を産み出すために広汎な民族浄化計画を実施しようと試みた。1943年と1944年に、UPAは9万人のポーランド人と数千のユダヤ人の命を奪った殺戮を組織的に行った。同時にソヴィエト連邦への参加を望む農民と労働者を残虐に脅迫し拷問し処刑した。UPAは1953年にその暴動が完全に抑えつけられるまでにおよそ2万人のウクライナ人を殺し続けたのである。
冷戦期間中のウクライナのファシストたち
《写真:ナチのラインハルト・ゲーレンReinhard Gehlen 少将》
http://www.wsws.org/asset/cc8ad3ef-389d-46af-809d-12bbd31f917E/ukraine-gehlen.jpg?rendition=image240
第二次世界大戦の直後に、アメリカのシークレット・サービスと軍はナチスとナチ協力者の重要な地位にある者たちを、ソヴィエト連邦に対する思想的、政治的、そして軍事的な闘争のために、人材登用した。ホロコーストと何百万ものソヴィエト国民の殺害に直接に関わったドイツと東ヨーロッパのファシストと戦争犯罪人たちは、アメリカ諜報機関によって代替の活動に利用され、あるいは自由ヨーロッパ・ラジオのようなプロパガンダ機関のために働いた。
ソヴィエト連邦内での隠密活動に関するCIAの責任者だったハリー・ロシツケHarry Rositzke によれば、「反共主義者でさえあれば」その者が「いかなる私生児であろうとも」良いのであった [6]。CIAが1940年代と1950年代に東ヨーロッパとソヴィエト連邦内に作り上げたネットワーク【訳注】はナチ協力者の連携の上に非常に大きく支えられていた。
【訳注:有名なステイ・ビハインド(Stay Behind)作戦だが、この作戦が失敗した後、大勢の元ナチスとナチ協力者たちがアメリカに移住した。元カリフォルニア州知事シュワルツネッガーの父親もその一人である。またアメリカはバチカンの協力を得て第二次大戦終了直後に3万人以上と言われるナチス幹部を中南米に逃亡させた形跡がある。】
その重要な仕事がラインハルト・ゲーレンによって行われたが、この人物は東部戦線におけるヒトラーの軍事諜報部を率いていたが後に西ドイツ連邦諜報部の初代の長官、つまり対外諜報作戦の責任者となった。1946年から彼はワシントンのために働き、ロシアのウラソフVlasov 将軍の反ソヴィエト軍やその他のナチ・ネットワーク内のウクライナ協力者たちの間に以前からあった関係を利用することができた。
ソヴィエト連邦を不安定化させるCIAの最初の大規模な作戦はウクライナの内戦への介入を含んでいた。CIAの前身であるOSSは、イギリス秘密諜報機関(SIS)と共に、ウクライナ反乱軍(UPA)とウクライナ・ナショナリスト組織‐バンデーラ派(OUN‐B)によって遂行されつつあった地下での戦争に対して、世界大戦が終了する以前からすでに物資と軍需品を供給していたのだ。これには、軍事訓練と同時に、ソヴィエトとポーランドの領地へのパラシュートを使った要員の送りこみが含まれた [7]。ウクライナでのゲリラ戦は冷戦期間中に世界中でCIAが行った同様の作戦の原型を為したのである。
《写真:ミコラ・レベド》
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CIAにとって最も重要なUPAの連絡員はミコラ・レベドMykola Lebed だった。アメリカ軍事諜報機関は1946年に彼のことを「よく知られたサディストでありドイツ人の協力者」として描いた [8]。1949年にCIAは彼の合衆国移住の保証人となりその戦争犯罪をもみ消した。移住に際して彼はOUNのバンデーラの軍から分派したOUN‐Zを率いたが、それはアメリカに資金を提供された。彼はアメリカとUPAの戦士たちとの間に接点を与えたのだ。
1953年以降、レベドはCIAの資金提供を受けた亡命者の出版社プロローグProlog の経営に関わったが、それはナショナリスト、反共主義者、そして歴史修正主義の文学を広めた。1945年から1975年まで、プロローグはまたミュンヘンで、ウクライナのファシストを共産主義と戦う自由の戦士として描き、また彼らの戦争犯罪への参加を否定するまたは消し去るための書籍を出版した。
1943年以来UPAは、アメリカ帝国の同盟者として自らを受け入れさせるために、「ドラマティックな自由の戦士」という神話を作り続けている。その典型的な嘘はこうである:OUNとUPAはナチスと共産主義の両方に敵対して民主主義のために戦った。
スウェーデンの歴史家ペル・アンデルス・ルドリンクPer Anders Rudling はファシスト的なウクライナのディアスポラ(離散)【訳注】 というプロパガンダについて次のように書いている。「学術的認識とディアスポラの政治との間にある一線は、ナショナリストの学者たちがプロパガンダと学術的な研究活動を結びつけるときに、しばしば曖昧なものになった。レベドのサークルはOUNの犯罪つまり大量虐殺を決して非難せず、単にそのようなことが起こったと認めるのがせいぜいだった。逆に、OUNとUPAの戦時中の活動を否定すること、あいまいにして混乱させること、そして誤魔化すことを、その知的活動の中心的な視座にしたのだ。」 [9]
【訳注:もちろんディアスポラは古代パレスチナからのユダヤ人の離散のことだが、東欧のユダヤ人を虐殺したファシストたちはこの言葉を平然と使用したわけである。】
何年もの間、西側の秘密諜報機関によって作成された印刷物を「ソヴィエト連邦や西ウクライナのリヴィウに密輸するための主要な通路がポーランドとチェコスロバキアを通して作られていた。」 [10]
ポーランド生まれのズビグニュー・ブレジンスキーがジミー・カーター大統領の補佐官となったときに、アメリカは反ソヴィエトのウクライナ・プロパガンダに対する資金が増額された。印刷物とラジオ放送に加え、ビデオカセットが作成された。
レーガン大統領の下で、民族問題を持ち揚げることによるソヴィエト連邦不安定化の戦略が激しくなった。CIAはソヴィエト連邦内の様々な民族集団に向けられた情報資料を作成し分離主義ナショナリズムの傾向をかきたてた。1983年にレーガン大統領は、OUN‐Bのリーダーと戦争犯罪人ヤロスラフ・ステツコをホワイトハウスに迎え入れ、「あなた方の戦いは我々の戦いだ。あなた方の夢は我々の夢だ」と持ち揚げた。 [11]
《写真:1983年にブッシュ副大統領【訳注】 と会見するステツコ》
http://www.wsws.org/asset/c471d994-d5c6-419b-9eec-f9e188b2722B/ukraine-stetsko.jpg?rendition=image480
【訳注】レーガン政権で副大統領を務めたブッシュ(父)は元CIA長官。】
ウクライナ・ナショナリストの歴史家タラス・クジオTaras Kuzio によれば、プロローグはアメリカの財政援助のおかげでソヴィエト・ウクライナの中で350万ドルに相当するプロパガンダを作成することができた。これは出版物と新しいテクノロジーの使用に支払われたのだが、クジオによるとそれは、「1980年代後半のウクライナ独立に向けた最終的な前進の中で反体制活動と反対派グループを維持し増加させることに対して重大なインパクトを与えるものだった。」 [12]
西ドイツではBNDは、その中で数え切れないほどの元ナチスが活動していたのだが、その反ソヴィエト活動の中で亡命ナショナリストを支えていた。BNDの本部が置かれるミュンヘンには戦後にウクライナ亡命者センターが設立されプロパガンダ出版物を広めた。バンデーラとステツコというOUN‐Bの最も重要な二人のリーダーもまた偽名の下にそこで生きていた。1959年の10月に、バンデーラはソヴィエトKGBによって発見されミュンヘンで殺害された。亡命OUN‐Bのリーダーであるステツコは1986年に死亡するまでその地で生きながらえた。
多くの学術研究が西側とウクライナ・ファシストとの協力関係を覆い隠してきた。1950年代を通して第二次世界大戦に関する数多くの本が出版されたが、それらはウクライナと東ヨーロッパでの協力者たちの役割を封印し、あるいはそれらを賛美した。メディアもまた同様であり、その多くが沈黙を守った。
アメリカのジャーナリストであるクリストファー・シンプソンChristopher Simpson は、CIAの活動の中にある旧ナチスのネットワークを暴露したのだが、その1988年の著作「Blowback: America‘s Recruitment of Nazis and Its Effects on the Cold War」の中で次のように述べた:
「つい最近までアメリカのメディアは通常、CIAのために働いたと非難されるナチの背景を持つ亡命者リーダーたちについて思慮深い沈黙を守り通すものだと見なし得た。情報公開法を通して手に入れられる機密解除された記録によれば、この国にある数多くのメディア組織が ― 時としてCIAと直接に協調して働くわけだが ― 第二次世界大戦でナチに協力した特定の亡命者たちを「自由の戦士」に、そして共産主義に対する新たな形の闘争での英雄に仕立て直しながら、冷戦神話を推し進めるための道具となったのである。」 [13]
ウクライナのファシストを民主主義者や自由の戦士の典型として祭り上げる今日の戦争プロパガンダは、この伝統の上に立っているのだ。
1991年以後のスヴォボダの登場
1991年の独立後に、ウクライナでは、他の旧ソヴィエト連邦の地域と同様にだが、極右集団が雨後の筍のように湧き上がってきた。これらの極右勢力は帝国主義勢力とウクライナ国家によって後押しされた。
OUNとUPAの組織的な回復作業が1990年代に開始された。1997年にウクライナの第2代大統領レオニード・クチマLeonid Kuchma の下で、OUNとUPAに関する政府委員会が確立されそこに著名な歴史家たちが参加した。2000年と2005年に作られたその委員会による報告書はファシストたち、特にOUN‐Bの役割をかき消してしまった。
この委員会の目的は赤軍退役兵とOUN/UPAを同等の地位にする法案を準備するための思想的な準備作業だった。これらの勢力の回復作業の大展開はビクトル・ユシチェンコViktor Yushchenko 大統領の下で続けられたが、この人物は西側が後ろ盾となった2004年の「オレンジ革命」の結果として権力の座に就いた。彼はこの法案を通しあの者たちに国家による承認を与えたのだ。
スヴォボダSvobodaは「オレンジ革命」の中でユシチェンコを支持した。その書記長であるオレー・ツィアニーボックOleh Tyahnybok は独立議会の議員として選出され、ユシチェンコのNasha Ukraina(我々のウクライナ)ブロックに参加し、そして議会の予算委員会のメンバーとなった。
その時にツィアニーボックはUPA/OUN‐Bの退役兵たちについて語った。「あなた方は露助(Moskali)やドイツ人やユダ公(Yids)やその他のクズどもと戦った…。あなた方はウクライナで露助・ユダ公のマフィアに最も恐れられた。」この演説は YouTubeで見ることができる。
人々の圧力の結果、ユシチェンコのブロックはツィアニーボックを弁護することが不可能となり、彼を数年間追放することとなった。ところが扇動罪の起訴は拒否された。
ツィアニーボックの党は、様々な右翼集団と学生団体を寄せ集めて、ウクライナ社会国家党(SNPU:Social-National Party of Ukraine)【訳注】の名で1991年に創設された。それはオレンジ革命の少し前にスヴォボダ(自由)と改名された。
【訳注:この党名にある”Social-National Party”がナチの党名”National Socialist Party”(ドイツ語の”Nationalsozialistische”)と似通っていることに注目。】
ユシチェンコは、大統領職に就いた直後に、ウクライナのファシストとそのナチス協力者たちの幅広い名誉回復キャンペーンを開始した。2005年6月に彼は「国家記念協会」を設立して、ウクライナ秘密諜報機関SBU(KGBの一部だった)にプロパガンダの実行を委託し、そして旧ソヴィエト占領記念館の創設を支援した。彼はその協会の所長としてボロドミール・ビアトロウィクVolodomyr Viatrovych を指名したが、この人物はウルトラ・ナショナリストの活動家としてOUN‐B後継者の機関である解放運動研究センターの所長でもあった。 [14]
シモン・ペトリューラのような数多くのOUNとUPAの闘士たちとナショナリスト指導者たちが、その肖像を載せる国家作成の特別な切手や記念コインを使って公式に称えられた。
権力の座にあった最後の年の間にユシチェンコは、チャンネル5のようなマスメディアがスヴォボダに対して分不相応な大量の放送時間を与えるようにさせた。ツィアニーボックと党のイデオローグのユリー・ミカールキシンYuriy Mykhalchyshyn が「Velyka polityka」(大政治)と「Shuster Live」のような人気あるトークショーに登場した。特にそれに続く2009年の西ウクライナでの選挙の成功では、この党は幅広いメディア報道を勝ち取った。 [15]
ユシチェンコはリヴィウとテルノピルに戦争犯罪人ステファン・バンデーラの記念碑を作らせたが、2010年に大統領の任期を終えるたった何日か前に彼はバンデーラをウクライナの英雄であると宣言した。ポーランドとEUからの抗議の後で、新大統領ヴィクトル・ヤヌコーヴィッチViktor Yanukovychは、ファシストのロマン・シュケーヴィッチRoman Shukhevych へのものと共に、この栄誉を取り消した。
スウェーデンの歴史家ペル・アンデルス・ルドリンクは2013年にそのイデオロギー的な雰囲気について次のように書き現した。「主導的なナショナリストの語り口は同時に学術界にも反映されているが、そこでは『正当性を持つ』学術研究とウルトラ・ナショナリストのプロパガンダとの境界線が往々にして曖昧にされる。主要な書店ではしばしばホロコースト否定と反ユダヤ主義の作品が取り扱われ、その一部は主流の学術研究にその方向を向けられている。」 [16]
ユシチェンコ政権のファシストへの協力はスヴォボダに限られることがなかった。ステツコの未亡人スラヴァSlavaの参加を得てOUNの後継組織として1992年に創設された反ユダヤ主義を公言するウクライナ民族主義者会議(KUN)は、2002年にユシチェンコのブロック「我々のウクライナ」に加わり、2012年まで議会にとどまった。党書記長のシュヴァリッチSvarytshはユリア・ティモシェンコYulia Tymoshenkoの最初の政府に加わり、2006年にはヤヌコヴィッチの反危機同盟内閣の法務大臣となった。
これらの状況の下でスヴォボダは、その党員によればだが、2004年から2010年の間にメンバーを3倍に増やした。にもかかわらずこの党は選挙ではほんの些細な姿を現すのみであった。スヴォボダの得票は2007年の議会選挙で0.78%、2009年の大統領選で1.42%だった。
対称的に同党の西ウクライナでの地方選挙の得票は著しく高い。2010年の地方選挙でこの党は東ガリシアGalicia【訳注】 で20%から30%の票を獲得し、全国で5.3%を勝ち取った。それ以来スヴォボダの拠点はリヴィウとなっているが、そこはOUN‐Bが1941年に短命に終わった独立ウクライナを宣言した場所だ。
【訳注:ガリシアは現在のウクライナ北東部からポーランド南部にかけて広がる地域で、リヴィウはそこにある。この訳文の先にお知らせした地図を参照すること。】
2012年の議会選挙は、独立以来最も投票率が低かった(58%)が、スヴォボダは10.45%の票を得て、ヴェルコーフナ・ラーダVerkhovna Rada (議会)で第4党の地位に就いた。その最も高い得票は西ウクライナで出ており、3つの選挙区では合計30%から40%である。一方で、東ウクライナではわずかに1%を得たにすぎない。リヴィウでスヴォボダは50%以上の得票を成し遂げ、そしてキエフでは第2党となった。
スヴォボダはそのファシスト志向とナチスへの賛美の芽を疑いようも無く萌え出させている。2011年1月29日、1918年に起きたクルーティKruty の戦いの記念行事の際に、この党は他の独立の右翼グループと一緒にナチスのシンボルを掲げて松明行進を組織した。
2011年4月28日に、同党はナチ武装親衛隊(Waffen-SS)ガリシア支部設立68周年を祝った。そのデモ行進の道筋に沿って、プラカードが「我が国の栄誉」を宣言した。参加者たちは、同党のイデオローグであるミカールキシンを先頭にして、「一つの民族、一つの国家、一つの国土」を唱え、バンデーラ、メルニクそしてシュケーヴィッチをウクライナの英雄として称えたのである。
2011年6月30日、スヴォボダはドイツによるソヴィエト侵略70周年を、ステツコのウクライナ国再生と共に記念した。それはある民衆の祭典の中でであったが、そこでならず者の闘士たちはSSの制服で登場したのだ。
加えて、スヴォボダはリヴィウに多くのレストランを開店した。その一つ一つの食堂の中に、バンデラの拡大肖像写真が掲げられ、ポーランド人とユダヤ人についてのジョークが便所の壁に書かれた。出される料理の中には「手を上げろ(ドイツ語で)」や「戦いのセレナーデ」という名のものがあった。地域の極右サッカー・ファンはその広告にリヴィウを「バンデーラの街」として描いた。リヴィウの通りにはナチ協力者たちとスヴォボダの市会議員たちの名前が付けられた。
党の若いイデオローグ、ユーリ・ミカルチシンは1982年にリヴィウで生まれたが、2005年に右翼のシンクタンクを創設した。彼は最初そこをジョセフ・ゲッベルスにちなんだ名にし、後にエルンスト・ユンガーErnst Jünger の名を付けた。その著作の中で彼は、エフゲン・コノヴァレツEvgen Konovalets、ステパン・バンデーラやホルスト・ヴェッセルHorst Wessel などのファシストの「英雄的な」遺産について大っぴらに言及した。彼はホロコーストを「ヨーロッパ文明の輝かしいエピソード」として描いている。
ファシズムはウクライナで何百万人もの犠牲者を出したのであり、政府とメディアのファシズム礼賛は国民の大部分による嫌悪と反対に直面してきた。ところが西側勢力は逆に、ユシチェンコ政権を、それがファシズムの思想的・政治的な復活を促したにもかかわらず、民主主義のモデルとして描いた。同時に、スヴォボダと右翼の武装集団である右派セクターは、西側の諜報機関と政党からの支援を得た。
スヴォボダはドイツの極右NPD(国家民主党)と密接な連携を保っているのだが、そこは指導部がシークレット・サービスの工作員で満たされているために2003年に裁判所判事から「国家組織」と述べられた党である。2004年5月にNPDは、友好訪問のためにドレスデンの国家議会にやって来たスヴォボダの代表団を歓迎した。キリスト教民主同盟と提携するコンラッド・アデナウアー基金もまたスヴォボダに講演の機会を与えた。この基金はスヴォボダのメンバーを2012年総選挙の教訓に関する会議とセミナーに招待したのだ。このときにはヤヌコヴィッチが再選されたばかりだった。
アメリカの共和党もまた、何十年にもわたるウクライナ・ファシストとのつながりを持っている。アメリカ政府はヤヌコヴィッチに対するクーデター準備に巨額の資金を投下した。ヴィクトリア・ヌーランドはアメリカの欧州・ユーラシア担当国務次官補だが、ワシントンが過去20年間にウクライナの政治プロジェクトで50億ドルを「投資した」と語った。
この5月9日にロシアの政府系新聞イズベスチアは、右翼セクターのメンバーが4月末頃にアメリカ政府と会談するためにワシントンに飛んだことを報道した。ヌーランドは右派セクターに、武装の放棄と政党への転身のために500~1000万ドルを提供した。しかし右翼セクターの指導者ドミトロ・ヤロシはこの提供をはねつけた。
西側諸国政府のウクライナ・ファシストに対する強力な支援は、ウクライナの労働者に対してだけではなく世界中の労働者に対して向けられている。ベルリンとワシントンはウクライナで熱心にファシスト勢力を育て上げており、いまや労働者階級に対して社会的な攻撃をかけるために、そしてロシアに対する大きな戦争を準備するために、それらを利用しつつあるのだ。
脚注
[1] Leon Trotsky, “Problem of the Ukraine,” Trotsky Internet Archive
[2] Vadim Rogovin: Stalins Kriegskommunismus, Essen 2006, p. 377
[3] Frank Golczewski: Die ukrainische Emigration, (Hrsg.): Geschichte der Ukraine, Göttingen 1993, p. 236
[4] Per Anders Rudling: “The Return of the Ukrainian Far Right. The Case of VO Svoboda,” in: Ruth Wodak, John E. Richardson (ed.): Analyzing Fascist Discourse: European Fascism in Talk and Text, London 2013, pp. 228-255. The article is accessible online.
[5] Quoted in Christopher Simpson: Blowback. America’s Recruitment of Nazis and Its Effects on the Cold War, London 1988, p. 25
[6] Cited by Simpson, 1988, p. 159
[7] Taras Kuzio: US support for Ukraine’s liberation during the Cold War: a study of Prolog Research and Publishing Corporation, in Communist and Post-Communist Studies, no. 45, 2012, p. 53
[8] Simpson 1988, p. 166
[9] Per Anders Rudling: The OUN, the UPA and the Holocaust: A study in the manufacturing of historical myths, in the Carl Beck Papers in Russian & Eastern European Studies, no. 2107 (2011), p. 19. The article is accessible online.
[10] Kuzio, 2012, p. 56
[11] Russ Bellant: Old Nazis, the New Right and the Republican Party, Boston 1991, p. 72
[12] Kuzio 2012, p. 61
[13] Simpson 1988, p. 5
[14] Rudling 2013, p. 230
[15] Ibid ., p. 244
[16] Ibid ., p. 231
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【翻訳後記】
現在、東ウクライナでは、ペンタゴン契約企業のアメリカ人私兵、ポーランドなどでアメリカ軍やCIAによる軍事訓練を受けたファシスト武装勢力が中心となって、「対テロ戦争」が遂行されている。 キエフ政府の発表では少なくとも257人が死亡し1300人が負傷したとされるが、その中にどれくらいの民間人が含まれるのか、内訳は明らかではない。しかし、女性と子供を中心とする大勢のウクライナ人がロシアに逃げている状況から、キエフ政府側の攻撃が「テロリスト」だけに向けられたものではないことは明らかだろう(あるいはアフガニスタンやイラクと同様に女性や子供や老人も「テロリスト」なのか)。一方キエフではロシア大使館が暴徒に襲われた。その情勢の中で、ロシアはついにウクライナへのガス供給のストップに踏み切った。
今までに この私のサイトや「マスコミに載らない海外記事」様などの数少ない日本語サイトが、東欧や中東を中心にして、こういった今日の世界の情勢を日本語にして伝えている。しかしそれにしても本当に数が限られている。おそらく大多数の日本人に世界で起こっている事実が伝わることはないだろう。もっと残念なことに、いま現在起こっている個々の事柄を歴史の流れを軸にして捉えていこうとする努力が余りにも為されていないのではないかと思う。専門の翻訳家の方々ばかりでなく、その点について歴史や社会学などをご専門にしておられる方々のご尽力をぜひともお願いしたい訳だが、とりあえずのところは私のような無学な者の拙い訳であっても、今回のような歴史的な視点で書かれた英語記事の翻訳を公表していく以外に方法が無いのかもしれない。
このwsws誌記事の内容から浮かび上がってくることだが、現在ウクライナとされている地域は、まるで最初から分裂と紛争を宿命づけられているかのようだ。特にキエフを中心とするこの国の北西側半分は、近代初期から21世紀の現在に至るまで、常に、ユーラシア大陸の覇権を確保しようとする西ヨーロッパとアメリカの西側帝国主義にとって最重要な戦略的拠点の一つであり続ける。そしてその覇権への意欲の今日的な現われが2013年の後半以来続く危機的な状況である。そして、この地域から世界の地理と歴史を見据えるならば、二つの世界大戦、ロシア革命、冷戦とソ連解体というような歴史の区切りが単に表面上の色分けに過ぎないことに気付かざるを得ない。
アメリカと西側勢力は「民主主義・自由主義」を旗印として掲げ、第二次大戦後の冷戦期間中にはラテンアメリカ諸国を軍事独裁とファシズムの巷に変えたうえでネオリベラル資本主義で食い荒らしていった。そしてソ連邦解体以降は多くの東ヨーロッパとバルカン半島のナショナリスト勢力を利用しながら分裂と混乱を次々と作り上げた果てに、それらの地域をネオリベラル資本主義の餌場に変えていった。そのナショナリスト勢力は、特にウクライナでは明白なのだが、基本的に、大富豪の上流階級が財政支援を行い、中産階級の一部によってファシズムが理論化・組織化され、街のヤクザやサッカーファンを装うならず者たちの実行部隊によって形作られるものである。その周辺で西側勢力から派遣された「人権団体」を名乗る種々のNGOがこのナショナリストと西側勢力との連携を作っている。アメリカとEUはこのような政治工作と実行部隊の武装・訓練に、各国国民から税金として巻き上げた膨大な資金をつぎ込んでいる。
この事実を目の前にすれば、第二次世界大戦を「ファシズム(全体主義)vs民主主義・自由主義」と描いて後者の勝利を称えてみせる学校教科書的歴史観など、単なる悪質な帝国主義プロパガンダにすぎないことが明らかになるだろう。この歴史観を大前提にして、ヨーロッパの一部や日本で起こっているナチス・ドイツや軍国日本を肯定する傾向に向かって、口角泡を飛ばして「修正主義」と呼ぶ人々がいる(残念ながらwsws誌を含めて)わけだ。しかしそれは「修正」でも何でもない。同一のプロパガンダの裏と表をひっくり返しただけの単なる茶番に過ぎない。(日本で憲法の改正を叫ぶ勢力がただの一度たりともアメリカの侵略主義・戦争政策とネオリベラル資本主義を否定したことが無いのがその何よりの証拠だ。)今まで当サイトで申し上げてきたとおり、「民主主義・自由主義」を標榜してきた勢力こそがファシズムの本体に他ならない。
さらにもう一つ、現在の事実を通して浮かび上がってくる「歴史」という名のプロパガンダのほころびが明らかにされるべきだろう。このwsws誌の記事には全体として、「ファシズム/ナチズム=反ユダヤ主義」という図式が「アプリオリな真実」、「不動の方程式」として貫かれているようである。最も伝統的で典型的な「左翼らしさ」と言えるのだろうが、しかし実際には、かつてのナチ同盟者を英雄と称えるスヴォボダや右派セクターを最も熱心に支えているアメリカ人(ヌーランドを始めとするネオコン)の多くがユダヤ系人士あるいはその信任を得ている者たちであり、さらにウクライナの右翼政党自体が地元のユダヤ人大富豪の手厚い援助を受けて活動しいる。そして大統領になったポロシェンコはユダヤ・マフィアの親分、また彼と大統領選を戦ったティモシェンコもユダヤ系、現首相ヤツェニーク自身を含め政府閣僚にはユダヤ系人士が多く見られる。ファシズムの中核を為しているのは支配階層の中にいるユダヤ人たちなのだ。
これらの諸事実を、歴史の皮肉、あるいは歴史の不条理と言うべきだろうか。しかし、皮肉も何も、いま現在目の前にある事実はこの通りなのだ。現在を歴史と照らし合わせてみてそれが「皮肉」あるいは「不条理」と映るのなら、逆にその歴史観の方を疑うべきだろう。現在の事実の原因は過去にしか存在しえないのだ。 単純な話である。 ウクライナを含む現代の東ヨーロッパ情勢は、第二次大戦後の「パックス・アメリカーナ」の中で定着させられた世界観と歴史観の、真の意味での修正を、最も鋭く求めている。そしてそのことが、日本を含む西側世界の多くの人々(特に知識階層)に、ウクライナで起こっている事実から目をそむけさせる理由となっているのかもしれない。
事の本質は、「○○主義vs△△主義」、「○○国vs△△国」、「○○人vs△△人」等々の対立図式に目をくらまされているうちは感知されることが無いのだろう。経済破たんと文化的混乱、戦争や動乱を利用しながら、あらゆる人種や民族や国民を上下方向に分断して、政治・経済・情報の3方面にわたる「1%と99%」の支配・被支配の構造を世界規模で完成させ固定しようとする動きの危険性の方がもっと本質的なのではないかという感想を、改めて持つ。
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