「上野」、「皇室」、「大震災」を重ね、ホームレスと被災者の痛苦をつなぎ合わせて描く 〔書評〕柳美里著『JR上野駅公園口』
- 2014年 7月 1日
- カルチャー
- 『JR上野駅公園口』書評雨宮由希夫
〔書評〕柳美里著『JR上野駅公園口』(河出書房新社、¥1400+税)
「あゝ上野駅」という唄がある。作詞・関口義明、作曲・荒井英一、歌唱・伊沢八郎で、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964)の5月に発表された。
♪♪……どこかに故郷の 香りを乗せて 入る列車の なつかしさ……
就職列車に 揺られて着いた 遠いあの夜を 思い出す ……♪♪
中学卒業と同時に集団就職列車に乗って上京し「金の卵」と呼ばれた若者を題材にしたこの唄は、高度成長期の世相を描いて大ヒットした。
高度成長期の産物として集団就職があり、また高度成長期に出稼ぎ農家が増大した。
東北の農家の子弟は働き口を求めて集団就職や出稼ぎを選ばざるを得なかった。彼らは,東京をはじめとする首都圏で,それこそ脇目も振らず働いてその収入の大部分を家族のもとに送金した。彼らが最初に降り立った「北の玄関口」である上野駅は、かくして「おいらの 心の駅」となった。
「あゝ上野駅」より50年。『フルハウス』(1996年)や『家族シネマ』(1997年)など家族のあり方を問う作品を多く発表してきた作家・柳美里(ゆう みり)(1968年横浜生まれ)が『JR上野駅公園口』を書いた。
執筆のきっかけとなったのは12年前、上野駅でホームレスの男性を見かけたことだった。白紙からの取材だったという柳は、上野恩賜公園のホームレスは東北出身者が多いことを知る。
本書の主人公は、上野恩賜公園を居場所とする東北出身のホームレスである。
福島県南相馬郡八沢村(現・南相馬市)の農家に、昭和8年(1933)、8人兄弟の長男として生まれた主人公は、12歳で敗戦を迎え、国民学校を卒業するや、いわきの小名浜港に出稼ぎに行き、東京オリンピックの前年、30歳で出稼ぎのために上京し、オリンピック用の体育施設建設現場で土木作業員として働いた。
この小説にはさまざま仕掛けが講じられている。
ひとつ、“上野”という場所を舞台としたこと。
上野公園や動物園などが配されている上野の山は江戸の初めに、全山、徳川将軍家の菩提所たる東叡山寛永寺の境内となり、幕末には最後の将軍・徳川慶喜の寛永寺大慈院謹慎蟄居や彰義隊の戦いなど260余年続いた江戸時代最後の歴史的舞台となった。上野の山には、西郷隆盛の銅像があれば、傍らには彰義隊士の墓もある。
春には、寛永寺の創建者・天海僧正が吉野山から移植した“上野の桜”が戊辰戦争で敵対した両者を包み込むかのように咲きほこる。大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)3月の東京大空襲の際には、上野公園は多数の羅災者が逃げ込み避難場所の役割を果たしている。明治16年(1883)開業の上野駅の場所には、江戸の昔、寛永寺の子坊11ケ寺が在った。このように、上野では歴史が地層のように積み重なっている。
JR上野駅の公園口からお山の中に入ってゆくと、ブルーシートの「コヤ」が見え、そこに住むホームレスの人たちの世界が広がっているが、「通勤や通学で毎日決まった時間にこの公園を通り抜けている人々」は彼らの生きざまに思い遣ることはないだろうかと作家はシグナルを送っている。
ひとつ、主人公が今上天皇と同じ年、昭和8年(1933)の生まれであるとしたこと。さらに妻の名は貞明皇后(大正天皇の皇后)の名と同じ漢字の節子とし、皇太子の生まれた日(昭和35年2月23日)に生まれた長男は、浩宮徳仁親王の「浩」の一文字をとり「浩一」と名付けている。
ひとつ、主人公の出身地を福島県南相馬郡としたことで、「3・11」(平成23年3月11日の東日本大震災)の悲劇が出稼ぎの上に重なり合っていること。
主人公の先祖は文化3年(1806)、加賀越中(富山県)からの真宗移民であった。相馬といえば、相馬野馬追祭で有名だが、御先祖様は先住の相馬の「土着様」から「加賀者」と蔑(さげす)まれ、こっぴどく痛めつけられながらも「荒れ地」を開拓したというくだりは、原発と出稼ぎの歴史的背景を一気に江戸の後期まで遡らせて興味深い。
かつての浜通りには、東京電力の原子力発電所や東北電力の火力発電所もなかった。かの地に原発を誘致する以前は、一家の家長たる父親や息子たちが出稼ぎに行かなければ生計が成り立たない貧しい家庭が多かったのである。そこに「3・11」が起き、多くの人々が津波や原発事故で避難を余儀なくされた。
さらにこれら「上野」、「相馬」、「皇室」、「大震災」が交差し、重なり合って、出稼ぎでありホームレスである男の日常の中に、ポリフォニックな「あの音」が沸き起こり、こだまする。
「あの音」とは上野公園内のチェーンソーや草刈りの音、上野駅構内のアナウンスや列車の奏でる機械音、街の中の見知らぬ男女の会話、都会の喧騒、「天皇陛下万歳」の叫び声であり、東京オリンピックの開会を宣言する昭和天皇の声であったりする。これらは作家のメッセージであり、小説の背景描写でもある。
昭和22年(1947)8月5日、昭和天皇を乗せた列車が常磐線原ノ町駅に停まったとき、「天皇陛下万歳」を叫んだ2万5千人のなかに、当時14歳だった主人公もいた。
昭和22年とは、台湾で2・28事件がおこり、古橋広之進が水泳400メートル自由形で世界新記録を樹立し、キーナン検事が東京裁判で天皇と実業家に戦争責任なしと言明し、皇室会議が開かれ11宮家の皇籍離脱が決定された年である。
およそ60年後の平成18年(2006)11月20日、「コヤ」をたたんで公園の外に立ち退いていた主人公は、日本学士院から帰る天皇皇后両陛下の車を上野公園で見送る。男は、目の前を通り過ぎる車の人たる今上天皇が手を振っているのを見て、反射的に手を振り返す。自分が生きた歳月と同じ73年が天皇にも流れたことを思い、まるで自分の人生を見送るようにして車を見送るのである。その瞬間よみがえった「あの音」は、昭和天皇を原ノ町駅で迎えたときの「天皇陛下万歳」であった。
皇族とホームレス。戦前ならば不敬ととられたに違いないテーマであろう。天皇とホームレスの一生を一つの構図の中に描くことにより、ふたりの人間の対照的な運命を浮き彫りにしている。
主人公の人生を回顧して、作家は「いつも、疲れていた。人生に追われて生きていた時も、人生から逃れて生きてしまった時も」と叙している。柳美里作品の読者であれば、この言葉の中には作家自身の深層心理が投影されていると看破するだろうが、本書における救われない人生、報われない終わり方が何ともやるせない。
出稼ぎで家族を支えるべく、なりふり構わず働き詰めた主人公。遊びもせず邪(よこし)まなことも考えず、何一つ贅沢もしていないのに、21歳の一人息子・浩一を失ってしまう。レントゲン技師を目指して上京した浩一は板橋のアパートで3年間暮らしたが、浩一が使っていた蒲団に座り、まんじりともしないで妻・節子とともに一夜を明かすシーンは酷すぎる。
出稼ぎを辞めて、郷里に帰ることにしたときには、60歳になっていた。ようやく妻との穏やかな老後を迎えるかに思われるも、それも束の間、妻の死に遭遇する。出稼ぎに出た夫に代わり、農村に残って留守と農業を守った節子であった。妻の死後、男は祖父想いの孫娘に面倒をかけるのが耐えられなくなる。21歳になったばかりの麻里を、祖父である自分とこの家に縛るわけにはいかないと思った男は、「おじいさんは東京へ行きます。探さないで」と置手紙を書いて再び上京。やがて上野にたどり着き、上野恩賜公園でホームレスになる。そしてあの東日本大震災と原発事故が起こる。男は故郷が津波に呑み込まれたことを知る。もはや命を絶つべく上野駅2番線のホームで身投げすることしか残されていなかった。
悲しすぎるラスト。捜索願いを出し、必死の思いで祖父を探し求めたであろう祖父想いの孫娘・麻里は、津波でさらわれたが奇跡的に助かり、やがて祖父との再会を果たすといったハッピーエンドで締めてもよかったのではないか。
読者はやがて気付くであろう。作家が男とその家族の生き方を綿密にたどりながらも、姓は森氏であるが、男には名がつけられていないことを。
意図的に擬人化の手法を採りいれることにより、「自分」という一人称で語る男の生涯を通して、長い出稼ぎの末に帰るべき家を亡くしてしまったホームレスの痛苦と、原発事故後の「警戒区域」に家があるために避難生活を余儀なくされている被災者の痛苦を二層でつなぎ合わせ、作家は近現代における厳然たる社会構造の変貌と家族、家の喪失を描いている。
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