クリミア問題補論
- 2014年 7月 9日
- 時代をみる
- クリミア問題岩田昌征
『現代思想』(2014年7月)の「ロシア特集」にある有力なユーラシア研究者がロシアのクリミア編入を批判して、「なぜ欧米はコソヴォの独立を認めてクリミアの編入を認めないのか、などという問いは問題のすり替えでしかない。」と書いていた。
果たして「すり替え」とまで言えるかどうか。その問題を考えるために、ここで3ヶ月前に私が一水会の木村三浩氏に書いた私信を紹介したい。
『レコンキスタ』(第419号)のプーチン演説は、全文掲載に値するものであると一読して思いました。勿論、賛否は別ですが。
ところで、3月18日のプーチン演説から1週間後3月26日、オバマ大統領がベルギー・ブリュッセルのFine Artセンターで2000人の聴衆に向かって、プーチンのクリミア併合批判の演説をしました。
眼目は、クリミア問題をコソヴォ問題に類比する事は全く出来ない、と主張するところにあります。クリミアにおけるとは異なって、コソヴォ住民投票は、国際法の枠外で行ったものではなく、かつ国連との慎重な協力関係の中で行われたものである。それに反して、ロシアは、クリミアにおいて、国際法を侵犯し、ウクライナの主権と領土的一体性を否定している。
第三者の目から見ると、オバマ演説は、この点で全く歴史的事実の偽造をやっております。2008年2月、コソヴォ議会がセルビアからの独立を宣言しました。NATO諸国軍の駐留の下です。そして、スペイン等の国内に同種の問題をかかえている諸国を除く欧米諸国は、ただちにコソヴォ建国を承認した。議会の独立宣言が断行されたが、コソヴォの住民投票は、1999年NATO空爆以降、いわゆる国際共同体が管理するコソヴォにおいて組織されたことはなかった。何故、米国大統領ともあろう者がかかる単純な歴史偽造をおこなったのか、不可解。
もしかしたら、1991年9月26-30日にルゴヴァのコソヴォ民主党がリードして組織した、コソヴォの住民投票が念頭にあったのかも知れない。セルビアのミロシェヴィチ政権は、かかる住民投票を非合法であるとしたが、コソヴォ民主党の住民投票を組織する行為自体を弾圧はしなかった。その結果、コソヴォ独立を承認したのは、コソヴォ・アルバニア人の母国アルバニア共和国だけであって、アメリカもヨーロッパ諸国も完全に無視した。
1991年は旧ユーゴスラヴィアにおいて、住民投票による独立宣言、あるいは住民投票による残留宣言の当たり年であった。スロヴェニア人とクロアチア人は、ユーゴスラヴィアからの独立住民投票を。クロアチアのセルビア人とBiH(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)のセルビア人は、ユーゴスラビアへの残留住民投票を。コソヴォ・アルバニア人の1991年住民投票もかかる流れの一環であって、オバマ大統領の語ったように、国際連合との注意深い協力関係があった訳ではない。
平成26年4月2日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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