日本は戦争ばかりしていた -今こそ、戦争を記憶する努力を-
- 2014年 7月 10日
- 時代をみる
- 岩垂 弘戦争日本人
自分の国が攻撃されていなくても、密接な関係にある他国が攻撃されたときに武力で反撃する権利とされる集団的自衛権の行使容認が、安倍内閣による閣議決定によって強行された。日本国憲法第9条の解釈を変えるという異常なやり方によってだ。有権者は憲法施行67年にして日本国憲法の柱である9条の「骨抜き」(7月3日付朝日新聞)を許してしまったわけだが、これには、日本国民の間で戦争の記憶が薄らいでしまったことが大きく影響していると思えてならない。
安倍内閣による閣議決定の半月前の6月15日、東京・池袋で開かれた、60年反安保闘争の中で誕生した市民グループ「声なき声の会」主催の「6・15集会」では、閣議決定が迫っていたこともあって、集団的自衛権行使問題にからむ発言が目立った。その中で、ひときわ印象に残る発言があった。
一つは、敗戦前の生まれと思われる高齢の男性の発言。
「独りでいると、だんだん腹がたってくる。日本人に、だ。日本人は、馬鹿げた戦争を二度もやろうとしているように思えてならない。かって、日本人はススメ、ススメと戦争に引っ張られた。その結果が、海ゆかば水漬く屍(かばね) 山ゆかば草むす屍だ。東京は丸焼けになった。そして、中国で日本軍は何をやったのか。なのに、日本人は自民党に票を入れる。彼らはカネのためなら何でもやる。まるで、自分で自分の首をしめるようなものではないか」
もう一つは、神奈川県相模原市から来たと名乗った中年の男性の発言。
「前の戦争で死者が出た。みんなが、戦争はもうたくさんと思い、平和の時代がきた。今の状況を見ると、この先、またたくさんの死者が出てくるという予感がする。もう、死んだ人は還ってこない。私たちは、今、何ができるかを考えたい」
2人の発言に共通していたのは「日本は過ぐる戦争でたくさんの死者を出した。その結果、国民はようやく平和を手にした。なのに、そのことを忘れ、また戦争をしようとしているのでは」という懸念ではないか、と私には思われた。
これを機に、過ぐる戦争での日本人の戦没者数を知りたくなった私は、その数を調べてみた。
明治維新で近代国家になった日本の最初の戦争は、1874年(明治7年)の台湾出兵とみていいようだ。1871年(明治4年)、琉球(沖縄の別名)の首里王府に貢ぎ物を納めた宮古の貢納船が宮古に帰島する際、台風に遭って台湾の東海岸に漂着し、乗組員69人のうち水死を免れた66人が山中に迷い込み、54人がパイワン族に首をはねられて死亡した。当時、琉球が日本に帰属するのか清国(中国)に帰属するのかが問題化していた。明治政府は「琉球人民の殺害されしを報復すべきは日本帝国の義務」として、74年、3600人の軍隊を台湾に派遣、パイワン族を攻撃。この時、日本側は戦死12人、戦傷17人、マラリアによる病死561人を数えた(週刊朝日百科『日本の歴史』98)。
これに次ぐ日本の戦争は日清戦争である。朝鮮に対する宗主権の維持をはかる清国と、清国を朝鮮から排除して朝鮮を保護下におこうとした日本の武力紛争だった。1894年(明治27年)8月に始まり、9カ月続いた。日本はこの間、朝鮮や中国へ17万4017人を派兵、戦死1417人、病死1万1894人、変死177人、計1万3488人という人的損害を出した(週刊朝日百科『日本の歴史』104)。
次いで、日露戦争があった。それは1904年(明治37年)2月から翌05年9月まで続いたが、朝鮮及び満州(中国東北部)の支配権をめぐる日本とロシアの戦いであった。日本は99万9868人の兵士を派遣、約11万8000人の戦死者を出した(同)。
45年間続いた「明治」の後は「大正」であったが、それは、15年という短い時代。それでも、日本はこの間、二つの戦争をする。
一つは、第1次世界大戦への参戦である。1914(大正3年)8月に勃発した同大戦は、植民地再分割をめぐる英独を中心とした帝国主義国同士の戦争で、主戦場はヨーロッパだった。「日本はドイツに宣戦を布告し、九月二日五千のドイツ軍に対し、十倍の兵力を山東半島に送りこみ……北京と南京を結ぶ交通の要衝済南を占領した。……一方、日本海軍は南太平洋の赤道以北のドイツ領諸島を……占領した」(週刊朝日百科『日本の歴史』111)
もう一つは、シベリア出兵だ。1917年(大正6年)11月、ロシア革命が起き、ソビエト政権が成立する。このため、これを打倒しようと、アメリカ、イギリス、フランスなどの列強がソビエト領内へ侵攻。日本軍も18年(大正7年)8月、シベリアに上陸し、22年(大正11年)10月まで、革命勢力と戦った。日本軍は最終的には7万2000人に増強されたが、うち約3500人が死んだ(同)。
昭和に入ると、戦争、戦争、また戦争である。1931年(昭和6年)に日本が始めた満州事変は1937年(昭和12年)には日中戦争となり、それが、1941年(昭和16年)12月8日からの太平洋戦争につながってゆく。そして、敗戦(1945年8月15日)。満州事変から太平洋戦争までは連続しているところから、満州事変開始から太平洋戦争敗戦までを「15年戦争」と呼ぶ。
「15年戦争」での戦没者は何人であったか。江口圭一著『十五年戦争小史』(青木書店)には、こう書かれている。
「この戦争を通じて日本国民も大きな被害をこうむった。その犠牲者数は軍人・軍属約二三〇万人、外地で死亡した民間人約三〇万人、内地の戦災死亡者約五〇万人、計三一〇万人(うち日中戦争死没者一八万九〇〇〇人)にのぼった。民間人の被害についていえば、広島・長崎の原爆、沖縄戦、東京大空襲、満蒙開拓団におけるそれがとくにいちじるしかった」
(同書は、相手国の戦没者数にも触れ、「一五年にわたる侵略戦争を通じて、日本国家は相手側に巨大な加害をもたらした。……その最大の被害者は中国であり、『人民日報』(一九八五年八月一日)掲載の石仁禹「中華民族的壮挙」によれば、盧溝橋事件以降の中国軍民の傷亡は二二二六万余人、うち死者は九〇六万二千余人に達した。その他の諸民族・諸地域の正確な犠牲者数は不明であるが、中国を含めて、大ざっぱに約二〇〇〇万人といわれる」と述べている)
明治維新(1868年)から今年2014年まで146年。明治維新から太平洋戦争敗戦(1945年)までが77年、敗戦から今年までが69年。日本の近現代史の前半は、まさに戦争の歴史だったことが分かる。「敗戦までの日本は、よくもまあ、戦争ばかりしていたものだ」と思わずにはいられない。私なりのまとめでは、この間の戦没者はなんと322万人以上ということになる。
これに対し、敗戦から今日まで、すでに69年間にわたって平和が続いてきた。この間、日本は戦争により戦没者を出さなかったし、戦争で他国の人たちを殺すこともなかった。長く続いてきた平和の尊さ、ありがたさを今さらながら痛感する。
総務省によれば、2011年10月1日現在の日本の総人口は1億2779万9000人。うち戦後生まれが9956万人で78%を占める。ということは、終戦前に生まれた世代は22%に過ぎないということだ。それから3年。その比率はもっと下がっているにちがいない。日本国民の中で、戦争への鮮烈な記憶、切実感、畏怖、反省が薄れてきているのもうなづける。こうしたことが、安倍政権が進める「解釈改憲」への警戒心を鈍化させたのではないか。
戦争経験のない世代が戦争について認識を深めるにはどうしたらいいだろうか。やはり、過去の歴史をもっと知ること、つまり、日本の近現代史の実相をもっと知ること以外にないのではないか。そのために、終戦前に生まれた世代はもっと自らの体験を語りたい。戦争を知らない世代は、その話に耳を傾け、さらに日本の近現代史の学習に向かってほしいと願わずにはいられない。
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