危機から「コミュニズム」へ 第5回
- 2010年 11月 16日
- スタディルーム
- コミュニズム個と共同性高橋順一
いうまでもありませんが、「コミュニズム」という言葉のもとになっているのは「コミューン」、つまり共同体です。したがって「コミュニズム」の問題を考える上で前提になるのは共同体の問題です。そして問題はこの共同体という存在が人間の社会のあり方とどのように関係しているかです。人類史の未開段階においては「共同体即社会」ですからこうした問題は起きません。また宗教も、すべてが神や霊のもとにある共同体に包摂されるという建て前を取りますから、想像的な形ではありますが「共同体即社会」という構図になります。つまり両者とも人間の社会的要素を全部共同体に回収しようとするわけです。それに対応する原始共産主義や宗教的コミュニズムがこの「共同体即社会」という構図に依存していることはいうまでもありません。すでに見てきたように原始共産主義も宗教的コミュニズムも「コミュニズム」とは何かを考える上で重要な前提ですが、それらがただちに私たちの模索する「コミュニズム」そのものになるわけではありません。というのも私たちの社会はもはや「共同体即社会」という構図にはなっていないからです。つまり私たちの社会は近代化と世俗化をへて、共同体という枠組みから解放されているのです。したがって私たちの模索する「コミュニズム」はこの共同体からの社会の分離という事実を前提にして考えられなければなりません。ただそれはこの分離を自明な前提として肯定することを意味しているわけではありません。あらゆる市民的デモクラシー論やリベラリズム論と私たちの「コミュニズム」論が区別されねばならない理由はここにあります。共同体から社会が分離するという事実そのものを一たんは認めたうえで、あらためてこの分離が人類史にとってどのような意味を持ったか、はたしてそれはやむをえない必然的な事態であったのかを問い直すことから私たちの「コミュニズム」論は始まらねばならないのです。
*
近代という時代の始まりとともに共同体からの社会の分離も始まります。より精確には、むしろこの分離によって社会が生まれたといったほうがよいかもしれません。共同体からの社会の分離が社会を生んだ?この表現はへんですね。そのままでは論理矛盾になりかねません。でもそうとしかいえないのです。じつは共同体からの社会の分離が社会を生んだというときの後者のほうの社会は、前者の、人類史における一般概念としての意味、つまり複数の人間が関係しあうことによって生み出される共同性のかたちやしくみとしての意味での社会ではないのです。後者の社会は、近代以降の共同体から解放された人間の存在のしかた・様態を表わす特殊近代的な言葉なのです。ここでは分かりやすいように後者の意味での社会にかっこをつけて「社会」と表記することにします。このあたりの事情はこの連載の1回目のときにも書きましたので参考にしていただければ幸いです。
この「社会」は、共同体とはまったく異なる原理によって成り立っています。いちばん大きな違いは、共同体においては共同体の持つ共同性のほうが共同体を具体的に構成している個々人よりも少なくとも観念上は優先するのに対し、「社会」ではそうした共同性から解放されて「個人」という存在となった個々の人間のほうが優先されることです。またしてもややこしいのですが、この「個人individual」も、共同体の持つ共同性からの解放という近代とともに生じた歴史的事実と相関する特殊近代的な人間のあり方を表わす概念なので、ここでも「個人」にかっこをつけておきます。つまり「個人」も「社会」と同様、一般概念ではなく特殊近代的な概念だということです。
まず「個人」から見ていきましょう。共同体から解放されて「社会」を形成する単位となった「個人」は主として二つの方向から規定されることになります。ひとつは「法」です。この「法」の根底には「契約」が潜んでいます。この「契約」という概念を創ったのはいうまでもなくホッブズでした。ホッブズは「契約」という概念を明らかにするために、個々人が自然権を持つ存在であること、そして自然権とは端的に個々人の「生きのびる権利」であることから出発します。個々人が生きのびる権利を持っているということは、生きのびるためには何をやってもかまわないということを意味します。ここでホッブズが想定するのは、生きのびようとする人間の欲求を全部満たすために必要な手段(食料など)が絶対的に不足している状況です。するとこの絶対的に不足する手段、つまり経済学でいう「希少性」を帯びた手段をめぐって自然権を有する個々人どうしの壮絶な戦いが始まります。「万人の万人に対する戦争状態」です。この戦争状態をホッブズは「自然状態」として、人類の歴史の普遍的な出発点に置きます。ところでホッブズはこの「戦争状態=自然状態」を普遍的なもののように描いていますがはたしてそうでしょうか。マーシャル・サーリンズの『石器時代の経済学』やわが国の縄文時代研究などの成果を見ると、先史時代の共同体社会はそんなに貧しくなかったことが分かります。むしろ必要以上の労働や収穫を避けてきたというのが真実であったように思えます。ですから例外的な事態をのぞけばこの共同体社会は基本的に平和な社会だったと考えられます。ホッブズの議論には一種の詐術が含まれています。それは、ホッブズが想定する自然権を持った個々人というのがじつはホッブズが経験しつつあった近代という時代に現われた特殊な人間の類型、すなわち「欲望を持った人間」の論理的な先取りに他ならないということです。ホッブズは、近代とともに出現した人間をめぐる新しい事態をあたかも普遍的な人類の歴史の起源であるかのようにすり換えた上で、そうしたパースペクティヴのもとで人類史を書き換えたのです。そのポイントが「欲望を持った人間」と「自然権の主体」の等値にあることはいうまでもありません。
ここでも留意しておく必要があると思いますが、生理学的・動物学的レヴェルを超える観念のレヴェルでは、「欲望」は人類史にとって決して普遍的な概念ではありません。それどころか17世紀、つまりホッブズの時代に「発見」された極めて新しい概念です。もっともホッブズより約200年近く前にマキャヴェリが、「ヴィルトゥ」という概念によってはじめて人間の意志や欲望の存在を、人間や社会について考える上で重要な要素として見出していますが。とはいえそれが本当の意味で考察の対象になったのは17世紀に入ってからでした。そしてそれを最初に行ったのがホッブズです。繰り返しになりますがホッブズが発見したのは人間の生きようとする意志・欲望です。それは「自己保存欲望」ということが出来ます。しかしその「自己保存欲望」はそのままでは「戦争状態=自然状態」を招いてしまいます。その結果「自己保存欲望」の追求はかえって、それをめぐる戦いによって「自己保存欲望」の担い手たちが死んでしまうという逆説的な結果を招いてしまいます。ホッブズが考えようとしたのはこの事態をいかに回避するかということでした。そこから導かれるのが「契約」です。すなわち個々人が自分の有する自然権を第三者に譲り渡す「契約」を結び、その代償としてその第三者による自己保存欲望の実現を保証してもらうということです。この第三者はホッブズによって「コモンウェルスcommon wealth」と呼ばれました。直訳すれば「公共財」ですが、ようするに「国家」のことです。そして自然権の「国家」への譲渡の「契約」の代償として与えられる「自己保存欲望」の実現を保証してくれるのが「法」になります。この瞬間に「自然権=自己保存欲望の主体」は「法の下にある主体」、つまり法的主体となるのです。こうして「個人」はまず法的主体として定義されるようになります。後で再び触れますが、この法的主体としての「個人」における「自己保存欲望」の実現と保証の核心をなすのが「所有」概念になります。共同体に代わり浮上してきた「社会」の構成原理として、「法」によって保証される「所有」がもっとも重要な要素となります。そしてそれはじつは「個人」を規定するもうひとつの方向性である「経済(エコノミー)」の問題と深く関連しています。
先ほどホッブズの議論が特殊近代的だといいましたが、もう少し具体的にいうと、ホッブズの置かれていた時代状況に関わっています。16世紀の末近くに生まれ、当時としては稀に見る長寿で(91歳)17世紀をほぼ生き抜いたホッブズが体験した最大の事件は清教徒革命でした。国王チャールズ一世が人民の手で処刑されるという前代未聞の事態を含むこの革命は、文字通り前近代的共同体社会の解体とそれに代わる「社会」の誕生を告げる画期的な出来事でした。しかしその過程は殺戮につぐ殺戮、破壊につぐ破壊、そして革命派、反革命派を問わない深刻な内部抗争、いわゆる「内ゲバ」の連続でした。ホッブズ自身国王派とみなされ亡命を余儀なくされます。このような体験がホッブズの思想の源泉になっていることは間違いないと思います。17世紀は他にも三十年戦争というヨーロッパ史上もっとも悲惨な戦争の世紀でもありました。近代の黎明を告げるデカルトやライプニッツの科学・哲学革命はこのような死屍累々たる戦争の悲惨さを背景にしてしか生まれ得なかったことを、近代という時代はこの悲惨さの所産であることを私たちはあらためて肝に銘じておいたほうがよいと思います。
ネグリとハートは『<帝国>』のなかで、人間の欲望や意志の野放図な力の発見が近代性の第一の起源だとすれば、それを有限性の下に置き抑制・コントロールするしくみを生み出したのが近代性の第二の起源だといっています。この近代性における正反対を向いた二つの傾向の重なり合いを誰よりも体現しているのがホッブズに他なりません。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study354:101116〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。