東日本大震災取り分け福島の原発事故から「共同体の在り方」を考える
- 2014年 7月 21日
- 評論・紹介・意見
- 山村 貴輝
テント日誌 7月19日特別版 【テント外伝…13】
経産省前テントひろば1043日 商業用原発停止304日
東北大震災取り分け福島の原発事故の問題について、我々は現在に至るも未整理である。それは、事故の規模の大きさから、あるいは深さから来るものであり、その問題を切開する切り口すら見つからない。無論切り口も一つではなく多方面、多角度であるが、その前で佇んでいるのが実情である。この災害と事故で「何が破壊されたのか、それを修復する道はあるのだろうか」と言う現象分析すら明確に提起されていないのだ。
だが、政府や自治体が住民不在のままで手前味噌にロードマップを敷き、恰もそれが復興への道であるということを唯黙って黙認する訳にも行かない。政府や自治体のロードマップがそこにおける「生活共同体」の復興とは無縁であり、形だけ住めれば良いという極めて安易な復興計画に住民はなぜ乗らないのか、と言う現実を一つの切り口にして考えることも方法論的に成り立つだろう。過酷な仮設住宅での生活実態は、人々が本来持っている「生活共同体」は存在せず雨さえ凌げばよいという安易極まる施政方針である。あるいは海岸地帯から高台に移転するという、生活の場所の移動と言う施政方針が実際には従来延々として地域において形成された伝統的生活空間の破壊である、と言うことに気付かない復興事業とは一体何だろうか。高台に移動すれば津波対策になると言う安易な発想である。そこには、伝統的生活空間はない。こういう発想には、霞ヶ関のビルの中で官僚と、専門家と称する連中が思い上がりと自己の立場性を勘違して机上で作り上げた、どこの地域でも似たようなステレオタイプの「計画図とロードマップ」があるに過ぎない。
地域と文化と伝統は一体のものであり、そこには生者と死者も共存する「生活共同体」なのだ。今回、多くの死者を生んだ事故であればこそ生者と死者とを「行政的に分け隔てる」復興事業など、人と人の過去と現在を紡ぐ関係性を(死者も含む)無視するものであり、地域の文化と伝統と生活共同体の紐帯を破壊するものである。そうなると、仮設住宅群と言う一種のゲットー同様のものの拡大再生産であるのだ。
阪神大震災後の仮設集宅群で発生した「孤独死」が、今また東日本大震災後でも「孤独死」と言う非劇が再現されている。行政は「見回りを行う」と言う小手先の対策しか打てない。この、「孤独死」の中には生きる将来に絶望した人の自殺が少なくないことにも、この問題の根深さを考える必要がある。
ここに、内山節の意見があるので少し長くなるが引用した。原書は「内山節:共同体の基礎理論-自然と人間の基層から 農文協」である。なお、参考文献として、竹端寛氏のブログである「共同体の「古層」にある内在的論理」からの引用を行ったことをお断りしておきたい。
まず、内山は「「地域共同体とは何なのであろうか。地域というひとつのものにすべてのメンバーが統合されていると考える地域共同体論は正しいのだろうか。私が上野村や訪れた各地で経験してきた地域共同体はそういうものではなかった。共同体に暮らす人ではなく、共同体を観察した人達の地域共同体論の問題点が、そこにはあるような気がした。私は共同体は二重概念だと考えている。小さな共同体がたくさんある状態が、また共同体だということである。ひとつひとつの小さな共同体も共同体だし、それらが積み重なった状態がまた共同体だとでもいえばよいのだろうか。このような共同体を私は多層的共同体と名づける(内山同上書 以下同じ)」と問題を投げかける。ここで内山が言う上野村とは、内山が40年以上に亘り、東京と群馬県上野村での生活空間を一年間およそ半年に亘り住み暮らしている里山農村である。それはそうとして、以下竹端寛氏の上記の文章を参考にして内山の意見をかいつまんで紹介する。
この「多層」性とは、複数の意味合いを帯びている。例えば山梨では今でも「無尽」が残っているが、この無尽を幾つか掛け持ちすることが、その人がいくつかの共同体から承認されている、「人びとの信頼を得ている」証である、という。また、こういった無尽や職能団体の寄り合いだけでなく、お祭りや信仰についても、部落毎に異なっていて、これも多層性を織りなしている、と内山はいう。更に言えば、自然との折り合いも含めた多層性である、という。
「日本の共同体は自然と人間の共同体として、生の世界と死の世界を結合した共同体として、さらに自然信仰、神仏信仰と一体化された共同体として形成されていた。ここには進歩よりも永遠の循環を大事にする精神があり、合理的な理解より非合理な諒解に納得する精神があった。人びとは共同体とともに生きる個人であり、共同体こそ自分たちの生きる『小宇宙』であると感じていた。」そう、共同体こそが「小宇宙」だったのである。明治期以後の国民国家や廃仏毀釈、戦時統制、あるいは戦後の高度経済成長やその後のグローバリゼーションの到来で、この「小宇宙」は壊されていった。が、基本的には共同体は合理も非合理も含まれる、ブラックボックスとしての「小宇宙」であり、その中で、自然との折り合い、先祖や道祖神、様々な祭りや祈りとの折り合いをつけながら、集落の、あるいは仲間との、あるいは仕事の関係者との、多くの小さな共同体を作りながら、その小さな共同体が「小宇宙」と共振し合うなかで構成されていった。そこから、内山は、これまでのコミュニティ・共同体論には見られない、重要な指摘をする。
内山は「自然と人間が結び、人間が共有世界をもって生きていた精神が、共同体の古層には存在している。それが共同体の基層であり、この基層を土台にして時代に応じた、地域に応じた共同体のかたちがつくられる。ゆえに共同体が壊されていくというとき、その意味は、自然と人間が結び人間達が共有世界を守りながら生きる精神が壊されていくことを意味する。(略) 共同体はその『かたち』に本質を求めるものではなく、その『精神』に本質をみいだす対象である」と指摘する。
従って内山は、ゲマインシャフトやゲゼルシャフト、アソシエーションやコミュニティといった、共同体の『かたち』や機能別類型は本質ではない、と言い切る。そうではなくて、自然も含めたその地域で、その時代を、地域の人とどう共に生きていくか、という「精神」こそ、共同体の古層であり、本質である、というのだ。だからこそ、共同体が壊れていく際、復活すべきなのは、「かたち」ではなく、「精神」である、ということになる。ただ、この「精神」は単なる過去を賞賛・過剰に称揚するようなものとは違う、現代にも(再)構築可能なものである、という。
続けて内山は「私たちがつくれるものは小さな共同体である。その共同体のなかには強い結びつきをもっているものも、ゆるやかなものもあるだろう。明確な課題をもっているものも、結びつきを大事にしているだけのものもあっていい。その中身を問う必要はないし、生まれたり、壊れたりするものがあってもかまわない。ただしそれを共同体と呼ぶにはひとつの条件があることは確かである。それはそこに、ともに生きる世界があると感じられることだ。だから単なる利害の結びつきは共同体にはならない。群れてはいても、ともに生きようと感じられない世界は共同体ではない。課題は、ここにともに生きる世界があると感じられる小さな共同体をいかに積み重ねていくか、なのである。それが積み上がっていけば、小さな共同体同士の連携もまた形成されていくだろう。ここに共同体があると感じられる時空も生まれていくだろう」と指摘する。共同体形成の基本的意識構造である。
さらに内山は「ともに生きる世界があると感じられること」。これが共同体の「精神」の本質である、という。その時、合理的な利害ベースではなく、自然災害も家庭問題も失業も、様々な矛盾や非合理をひっくるめた自然や隣人を、「ともに生きる」から、と分かち合う、そんな共同体の積み重ねが、共同体の再生には必須だという。その上で、社会の変革についても、次のように指摘する。
「システムを変えれば世の中はよくなるという発想から、それぞれが生きる世界を再創造しながら世の中を変えていくという方向に、変革理論自身が変動してきたといってもよい。(略)道筋が、システムの変革からはじまるのではなく、生きる世界の再創造をとおしてシステムの変革も求めるという方向に変わったのである」という。
例えば、60年代以降高度経済成長に伴い都市部の周辺の丘陵を開発し、多くの「ニュータウン」が作られた。だが、今現在「ニュータウン」の人口は減り、居住者の高齢化が社会問題となっている。「平成狸合戦ぽんぽこ:1994年高畑勲作品」にみられる開発への自然(この場合「狸」が象徴である)の抵抗を圧殺した結果が、今の「「ニュータウン」の現状を表している。そこには「システムを変えれば世の中はよくなる」と言う安易な発想の破綻が見られるのだ。仮想空間のモデル自体が「共に生きる社会」を否定して、さらに地域の伝統的文化の継承を否定することの破綻である。つまり、現実社会が「過去‐現在‐未来」と言う歴史的継承の上に成り立っているが、そこで伝統的文化を継承しない仮想空間が未来への展望を切断することで、我々の社会そのものの立脚する構造を破壊したのである。
実はこの仮想空間をモデルに作った「社会活動の基本モデル」に欠けていたものこそ、内山が共同体の古層とも呼んだ「ともに生きる世界があると感じられる」という「精神」である。この「精神」は、目的合理性を持った「社会ビジョン」とは異なり、自分がそこに生まれた時に、既に親や先祖から伝わっている通奏低音であり「古層」である。だから、この「精神」は、四つの層の下に拡がる(思考・感覚・感情・直感という意識層)、ある種ユングの集合的無意識論と繋がるような「精神」である、と理解している。自我の下にあって、その共同体のこれまでの歴史やローカル・ノレッジを下支えしているけれど、普段意識することがない、そんな無意識であり「精神」である。これは、近代合理主義的な分析手法では析出されない何か、である。
ここでの「古層」とはユングの集合的無意識論であると共に、生者と死者とが織りなす「生活共同体」であり、地域に育まれた伝統的文化である。この内山の意見は2010年に記したものであるが、2011年3月11日以降ますますその意見は鋭さを増している。ともに生きようとする文化的・生活的環境を無視し、圧殺する復興事業はあり得ないのだ。ましてやますます混迷する原発事故の拡大は、「生活共同体性」をより広範囲に徹底的に破壊し続けている。そして、取り返しが付かない膨大な事故の対処は結局のところ「福島棄民化策動」を安倍政権は行っている。断じて許されるものではない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion4922:140721〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。