本間宗究(本間裕)の「ちきゅうブッタ斬り」(59)
- 2014年 7月 22日
- 評論・紹介・意見
- 労働本間宗究経済
ガラパゴス化した経済理論
現在では、「ガラ携」という言葉が日常用語となり、「スマホ」を持っていないと恥ずかしい雰囲気にもなっているようである。そして、この点からも、人々の「好奇心」や「羞恥心」などが、「新商品」の販売に関して、大きな促進効果を持つことが理解できるのだが、このような「ガラパゴス化」については、「携帯電話」のみならず、さまざまな「商品」や「分野」で発生しているようである。
具体的には、「技術やアイデアなどの陳腐化」であり、実際には、「世の中の流れ」についていけず、「自分勝手な思い込みで、複雑な理屈を付ける状況」が、結果として、「商品の魅力」を失わせてしまったものと考えている。別の言葉では、「ガラパゴス諸島」という「狭い島」の中で、「それぞれの生き物」が、環境に適応しようと、必死に努力したことが理解できるのだが、結果として、他の世界と、全く違った「発展」をしたために、「外部環境」に変化が起きた時に、「生存そのものに、大きな危機が訪れたような状況」のこととも言えるようである。
つまり、「江戸時代の日本人」のように、「約260年もの鎖国の時代」を経て、「黒船の来襲」が起きたような状況のことだが、この時の「衝撃」については、現代人が想像できないほどの規模でもあったようである。その結果として、世の中が、一挙に急展開し、日本が、一挙に開国へ向かったのだが、このような「時代の大転換」については、「第二次世界大戦」の時も、似たような状況だったものと考えている。
具体的には、行き過ぎた「軍国主義」により、多くの日本人は、「日本は神の国であり、決して、戦争に負けることはない」というような「誤った考え方」に支配されていた状況のことである。そして、「敗戦」の衝撃とともに、一挙に、「鬼畜米英」から「民主主義の礼賛」へと変化したのだが、「このような状況については、現在でも同様の事態が進行中ではないか?」と考えている。
つまり、現在が、「明治維新」と「第二次世界大戦の敗戦」に続く、「第三の敗戦の時期ではないか?」と言われている事態のことだが、実際には、「経済理論のガラパゴス化」により、ほとんどの人が、「実体経済」だけしか見ていない状況とも言えるのである。そして、「マネー理論」については、ほとんど忘れ去られているのだが、これからは、「ガラ携」を持つことを恥じるのではなく、「ガラ経」となった「現代の経済理論」を盲信することを恥じるべきではないかと考えている。(2014.6.26)
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残業代ゼロ法案
「アベノミクスの成長戦略」の一つとして、「残業代ゼロ法案」が重要視されているようだが、この点については、全くの「本末転倒の考え方」とも言えるようである。つまり、今回の法案の目的としては、「労働分配率の削減」が存在するように思われるのだが、実際には、「高止まりしている給料を削減すれば、企業収益が改善するのではないか?」と考えられた可能性のことである。別の言葉では、「短期的な収益の向上」を狙ったようにも思われるのだが、長期的には、「企業内の摩擦」が深まることにより、「収益の減少」が見込まれる状況も想定されるのである。
つまり、「どのような企業が成長し、また、高収益を上げているのか?」を考えると、当然のことながら、「顧客が望む商品を提供する会社」とも言えるようであり、また、「経営者」と「従業員」とが一体になり、「独創的な商品やアイデアを、できるだけ多くの人に販売する会社」とも考えられるのである。その結果として、「高収益」が生み出されるようだが、この時には、「利益の還元」という形で、「給料の増加」も考えられるのである。
このように、最初に必要なことは、「全従業員が、力を合わせて助け合う」ということであり、この時には、「企業収益の向上により、労働分配率が低下する」という状況が考えられるのである。しかし、一方で、「商品の内容」や「サービスの質」などを無視し、単に、「残業代を減少させる」というような経営が行われた時には、「売り上げの低下」や「収益の悪化」により、「給料の削減」のみならず、「人員の削減」までもが必要な状況になることも予想されるのである。
別の言葉では、「全ての従業員が、経営者的な感覚を持ち、自発的に会社のために行動する」というような状況になれば、「押し付けられた政策」は不要な長物になるものと考えている。そして、今回の法案で感じさせられたことは、「日本は、かつての社会主義的な国家と似通ってきたのではないか?」ということだが、実際には、「計画経済」という言葉のとおりに、「国家主導で商品の生産が行われれば、無駄が無くなる」というような「考え方」のことである。
つまり、「安倍首相」が、「リーダーシップ」の意味を取り違え、「強権的な政治を行う事が必要だ」と考えている可能性のことだが、本当に有能な「リーダー」は、反対に、「全ての人々が、能力をすべて発揮でき、かつ、調和のとれた社会」を造ることに力を注いでいるようにも思われる次第である。(2014.6.27)
本間宗究のコラムhttp://www.tender-am.com/column.html より許可を得て転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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