ドイツ徒然(その2)伝統の継承と新しい生活スタイル
- 2014年 7月 26日
- カルチャー
- 合澤 清
ドイツ人はフェスト(祭り)やマルクト(市)やパーティが好きだ!
日本でもかつては「村祭り」に代表される地域住民の親睦的な出会いが多く残っていた。その期間、村や町の青年団や婦人会が独自に企画して、演芸会や盆踊りなどがあちこちで催されていた。スポーツ大会や町内で時折催されたバザーもそうだ。町内の小母さんたちが割烹着姿でぜんざいやお汁粉やそば、うどんなどをつくり、みんなでワイワイガヤガヤとおしゃべりしながらそれを頂いたものである。
勿論これらを一括りに称揚するつもりはない。ボス的人間の支配や、選挙目的、営利目的利用や、やくざの介在、支配的イデオロギーの強引な押し付けなどが隠然、公然とまかり通ったことも事実であったからだ。
それにもかかわらず、今ドイツに居てこれら「地域住民親睦会」のことを懐かしく思い出すのは何故だろうか?
ドイツ人は実に頻繁にこの種の親睦会を楽しんでいるように思う。学生街では大抵週末にはパーティをやっているし、大勢が集まってビールやワインを飲み(ときにはSchnapsシュナップスといわれる、ウオッカなどの強い酒=リキュールLikörを浴びるように飲み)明け方近くまで大騒ぎをしている。学生寮周辺では騒ぎ方も半端ではないが、周辺の住民も割にこれらに寛容である。
町ぐるみでのフェストも度々催されている。Stadt(町や市の意味)やDorf(村)主催の多少大きめのものから、町内や街路(Straße)主催の小さなものまで多種多様だ。勿論、ベルリンやハンブルクやフランクフルトなどの大都会では、フェスト期間(大抵は一週間程度か?)を通じて大々的に行われる。
Straßenfest(im Hardegsen)
また、マルクト(マーケットの意味で、ある種の「市」)も度々開催されている。日本などの「ガレージ市」「青空市」と違うのは、やっている人も、見物人も、ほとんどが地元の住民であり、相互交流、親睦的な意味が非常に強いと思える点だ。
先日、友人のドイツ人に車でBurg Plesse(プレッセ城塞)という小高い丘の上に立つ、かなり古い城塞に連れて行ってもらった。なんだか中世叙事詩の「ニーベルンゲンの歌」の世界に迷い込んだような雰囲気である。ここで開かれた「Historish Markt歴史市」の見物のためである。
坂道を登ると城塞の入り口から見張り塔まで、あるいはその周辺にも、点々とテントが立ち並んでいた。出店だ。売り子は皆、中世ヨーロッパ風の格好をし、売っているものは他愛ない「鎧、兜、武器」などの模造品から、地元産の草花、毛皮、なんだかの薬草の入ったワイン(蜂蜜ワインなんていうものもあったが)などである。店を出している人も見物に来た人も、その大半が子ども連れの家族であり、子供たちは皆、自然に還ったかのように生き生きと走り回り、遊びまわっていた。
城砦で一番高い見張り塔の前の広場の、かつて城の母屋だったと思われるところが、今はレストランになっていて、その前庭には大きなパラソルの下にいすやテーブルが沢山並べられていた。そのすぐ脇で、やはり中世風の格好の男が腰に刀をぶら下げ、大きな鍋でシチュー(Gulasch)を煮込み、黒パンを無造作に切ってその上によく煮込んだ豚肉の細切りと玉ねぎを載せて売っていた。ジョッキー片手にこれを食べてみたが、これがなかなかの味だ。Stock Brot(30センチほどの串に、よくこねて粘り気の強いパン生地を撒きつけたもの。昔の兵糧)というのもあった。鳥もちを分厚く撒きつけたようなものだが、これを各自で焚き火にあてて焼いて食べる寸法である。日本の餅のようで面白い。
四人組の音楽隊が時折広場に出てきては、歌と演奏を聞かせてくれる。それに合わせてみんなが大声で応ずる。主にドイツリート(ドイツ民謡)である。
また、往時の騎士や戦士の装備をした地元の若者が、楯や剣で切り結ぶアトラクションもあった。結構真剣にぶつかるので、怪我をするのではないかとハラハラした。
こうして地元住民のコミュニケーションがつくられていくのであろう。どこのフェストでもそうだが、地元の人たち、特に若い娘や小母さんたちが、かつての日本の割烹着姿の小母さんたちのように実にかいがいしく生き生きと立ち働いているのが目立つ。
人は他人とのコミュニケーションを通じて成長する。個人の自己意識は他人を自分と同じ人格として承認することで、初めて共同意識に目覚め、共同体の一員として自己を実現できる(自己の本性に目覚める)。このことを実際に知らされた思いがした。そして一体日本はどうなってしまったのか、という寂しい思いが益々強くなる。
Burg PlesseのHistorish Markt
環境・伝統・生活スタイル
自分自身の若少年期とだぶらせながら今日の日本の若者たちの日常生活を考えるたびに暗澹たる思いに駆られる。教育指導という名の管理・監視下で日常生活はがんじがらめに縛りつけられ、その上、進学指導やらなにやらで、身動きとれないようにされている。なんともひどい状態ではないか。強制収容、強制労働とは然もありなん、と思えるほどの規則、規制、監視が続く。息苦しくて、自由に思考することも出来なくなる。かくして将来は、融通のきかないステレオタイプの人間として、平凡きわまる企業戦士(奴隷)として、世間に送りだされるのである。このような社会にどんな未来があるというのだろうか?
その点、ドイツの若者はよっぽどマシに思える。基礎教育の授業内容にもゆとりが感じられるし、何が何でも受験を突破して「良い大学」に進学することが若者や家庭の第一目的とも思えない。
そのことは、例えば夏休みの過ごし方を見ても、日本との違いがはっきりする。こちらでは大半の若者が、集団でのサイクリング旅行、ワンダーフォーゲル、キャンプ、国内、国外旅行などを楽しんでいる。時には年輩者が付き添っている時もある、特に子どもたちがいる場合はそうだ。それでも、日本のようにあまり口やかましく「指導」したり、「管理」したりはしていない。危険なことだけ教えた後は、ある程度勝手にやらせているように見える。木登りも、刃物を使っての作業も、場合によってはお酒(やタバコ?)すらも、日本のようにいちいち干渉して、口やかましく「補導」したりはしない。自主性の方が重視されているからだろう。
若者と年長者の間の交流、ディスカッションなども盛んに行われている。グループでの小旅行、あるいは宴会(パーティ)やダンスなどの定期的な親睦会(特に地域でのそれ)には、いろんな年齢層の人たちが参加していて、相互交流が目指されているように思う。
かつて、田中正司先生(横浜市立大学名誉教授)からお聞きした話では、日本でも、戦前にはこういう風潮があったそうだ。それが戦後途絶えてしまったのは甚だ残念だと言われていた。
記憶頼りで詳しく調べたわけではないが、敗戦後に、日、独とも進駐軍により様々な上からの改革が行われた(それまでの軍国体制が解体させられたなど)。そのうちの一つに教育改革があったようである。日本政府は、アメリカ占領軍に従順に従って、6・3・3・4制を採用したが、ドイツはこの件に関してだけは承服しなかったと言われる。未だにドイツ人は、自分たちの基礎教育課程(Grundschule)には自信を持っているようだ。
少し付け加えたい。それでも僕の友人のドイツ人が嘆いていたことがある。それは、このところ、ギムナジウムにおいてすら「哲学」に関する教育がなっていないという点である。やはり、ドイツは伝統的に「哲学の国」であるのかもしれない。日本では、こんな教育は皆無である。
小見出しに「環境」と書いたのは、何もドイツの自然環境についてだけ述べようとしたからではない。このような文化的・精神的な環境こそが自然環境への配慮、周囲の人間関係への配慮につながるのではないかと思い、そのことを問題にしたかったのである。
大都会はともかくも、一般的にはドイツ人たちの住環境は実に静かで、大抵の町は夜になると暗いものと相場が決まっているようだ。日本のように、深夜になってもネオンサインがギラギラに光り輝き、昼夜の区別すら定かでないような光景には、大都会でもめったにお目にかかったことがない。家庭内でも、ドイツ人はあまり煌々と明かりを灯すことはしない。町全体が寝静まったように静かで薄暗いというのがドイツの夜の特徴である。
随分前のことだが、行きつけの居酒屋で、それまでも部屋の中は薄暗かったが、突然電灯の一つが消えてしまったことがあった。勿論すぐに電球を付け替えたのであるが、その時僕が「ドイツはdunkel(暗い)だ」と言ったら、みんなに大笑いされたことがあった。言い訳を解説するのも締りのない話ではあるが、その時僕の方は、ドイツの町の薄暗さをイメージしていたのだ。しかし、彼らは、僕がドイツという国が「暗い」(陰鬱だ)と言っているように皮肉にとって、大笑いしたようである。
ドイツ人の生活スタイルは質素であるが、決して陰気な閉じこもり型ではない。家庭環境を大切にしながら、仕事と、散歩と庭いじりなどに精を出している。
このところの暑さで、すぐ近くのプールは連日家族連れでにぎわっているし、つい先日の土曜日には、やはり近くのBurg Hardegに、日本では中、高生位の年代の若者たちが大勢集まって明け方近くまでパーティをやっていた。「ケバイ」格好の少女も大勢見かけた。むろん、男女交際もおおっぴらで屈託がない。
「イスラエルのガザ攻撃反対」のデモが拡大
テレビは持っていないが、ラジオでは連日、イスラエルのガザ攻撃が報道されている。サッカーの世界選手権中でもこの放送は続いていた。そして最近では「イスラエルのガザ攻撃に反対」するデモが各地に広がっているとの報道がなされている。
先週の土曜日にはゲッティンゲンでも、学生を中心にしたデモがあったようだ。僕は残念ながら、後になってそのことを聞かされた。ベルリンやその他の大都市でも、このイスラエル・パレスチナ問題のデモが拡大し続けているようだ。かつてドイツ人は、ユダヤ人弾圧の暗い過去(ホロコースト)を引きずっているため、パレスチナ問題にはできるだけ口をつぐんできた。しかしここに来て、彼らもいよいよ立ち上がらざるを得ないのだろう。
報道によれば、ベルリンなどでは「反ユダヤ主義者」(Antisemit)、「ネオ・ナチ」などのデモがこの「イスラエルのガザ攻撃反対」デモを利用しながら出てきていると言われるが、「DIE ZEIT」によれば、それはほんの一部の集団だ、ということである。
既に、ルフトハンザ(独)などヨーロッパの飛行会社には、イスラエルへの飛行を停止しているところもあるようだ。ドイツ国内には多数のユダヤ人が住んでいる。僕の知りうる範囲でだが、彼らの中にも、イスラエルのガザ攻撃には批判的な人が多いという。
今回のテーマだった、地域住民の親睦という課題に再び戻る。かつて日本では盆踊りを利用して、反権力闘争を闘ったという歴史があったと聞く。地域住民たちの苦肉の策(知恵)である。盆踊りのときは、無礼講が決まりだったので、手近な得物(鍬や鉈や包丁、こん棒など)を手にして 踊りに参加し、それぞれが示し合わせてそのまま代官所などになだれ込んだようだ。そのような伝統があったためか、度々「盆踊り中止」のお触れが出されている。米騒動の時や、たびたびの戦争のときなどがそうだった。
国会や経産省周辺を大声でシュプレヒコールしながら勝手に歩き回ることも、この伝統にのっとった知恵であろうと思う。民衆はいつまでも従順なわけではない、闘いの伝統は日本人の中にも脈々と伝わっている。権力は戦々恐々としているに違いない。
そしてもう一度この民衆の力を結集するために、地域住民の日常的な交流、年齢や性別の垣根を越えた話し合いの場を再構築していく必要があることを切に願い、訴えたい。 (2014.7.24記)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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