水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』を読む
- 2014年 8月 10日
- スタディルーム
- 岡本磐男
本書はすでに本年5月に本サイト(評論・紹介・意見)で紹介された著作である。興味深い本書を紹介された関係者の方々にお礼を申し上げたい。以下は、早速書店で買い求めて読んだ私の読後感である。
マルクス経済学者であれば、資本主義経済は永続的ではないと捉えるのは普通であるが、著者水野氏は埼玉大学の大学院博士課程修了後、証券会社のエコノミストとなり近代経済学的手法による現状分析家となり、西欧経済史にも関心を深めていった結果、資本主義はやがて終焉を迎えるとみている点が、極めて独自性にとむといえる。
すなわち、氏は16〜17世紀には一種の空間革命が生じたとみているが、当時の資本家達は、中世末期の中心地たるスペイン、イタリアに投資しても、超低金利のために蓄積できない状況に陥ったため、投資先をオランダ、イギリスに変えて繁栄していったという点、こうした変化は、現在の先進国の資本家たちが「地理的・物理的空間」では利潤をあげられずに「電子的・金融的空間」や新興市場に投資先を求めるのと非常によく似ている(99頁)という指摘から筆を起こしている。
その基本的視角は1970年代以降、現代の資本主義がグローバリゼーションの時代に移行するにつれて、先進国企業は、資源価格(原油価格)の高騰という「価格革命」に直面するようになり、利潤率の低下をよぎなくされるに至り、これによって先進国の資本(とくに米国資本)は「電子・金融空間」を創出し、ここで稼ぎだした過剰資本を新興国市場に輸出しているとみている。それ故氏は、75年以後の先進国経済は転換期にあると捉えるが、その先陣をきって走っている国は日本であるとみている。その理由としていくつかの視点が提示されるが、最重要な視点は、日本が他の先進国にさきがけて80年代後半に金融・土地のバブル経済を発現させ崩壊させた点に求めている。その後の日本経済の状況を検討しつつも早、経済成長を目標とするような経済政策は有効性を喪失していると論じ、昨年度からアベノミクスにおける3本の矢としての、金融緩和、公共投資、成長戦略のような諸政策はいずれも失敗するだろうとして批判的見地をとっている。
次いで氏は、現在のEU(欧州)危機についても、リーマン・ショック以上の深刻な事象であるということを、20世紀以前からの西洋経済史の画期的歩みに照らしても実証しうるものとして究明する。
結論に近い箇所で著者は以前の章でも指摘したように「資本主義の本質は『中心/周辺』という分割に基づいて、富やマネーを『周辺』から『蒐集』し『中心』に集中させることには変わりありません。」(165頁)と述べているが、これは著者のきわめてユニークな見地である。しかも実際には富を集中させているのは先進国の富裕層の15%の人たちにかぎられ、先進国の他の人たちや新興国や途上国の人達は決して十分な富を配分されるようなことはなかったのだ、しかもこのような従来のグローバルな資本主義さえも今日では市場が狭隘化し限界(壁)につき当たっているため資本主義は崩壊の危機に直面している、と考えている。
さらに著者は政府の有効需要創出策によって資本主義経済を不況から救済しうると考えるケインズ政策に対して批判を与えている。そして「私たちはそろそろ、資本主義経済が生き延びるという前提で説かれる『長期停滞論』にも決別しなければならない時期に差し掛かっています。資本の自己増殖と利潤の極大化を求めるために『周辺』を必要とする資本主義は、暴走するか否か、停滞が長期か短期かにかかわらず、いずれ必ず終焉を迎えます。」(172頁)と結論する。こうした資本主義の衰亡説は、永年にわたってマルクス経済学を学んできた評者にとって全く共感をおぼえさせるものである。
評者はまた、この著作では著者が現代社会の政治システムとしての民主主義国家と経済システムとしての資本主義を分離したものとして捉える議論を高く評価したいと思う。例えば、「現在の国家と資本の関係を考えると、資本主義にとって国家は足でまといのような存在になっています。容易に国境を越えられなかった時代には資本主義は国家を利用していました。しかし、資本が国境を容易に越えるときに、国家は足枷にしかなりません。……にも拘らず、バブルが崩壊すると、国家は資本の後始末をさせられる。資産価格の上昇で巨額の富を得た企業や人間が、バブルが弾けると公的資金で救われます。その公的資金は税という形で国民にしわよせが行きますから、今や資本が主人で、国家が使用人のような関係です。」(186頁)という。今日の世相においては、メディアでも民主主義国家と資本主義は一体化しており、国家が資本主義経済を容易にコントロールしうるとの議論をする政治家や近代経済学者がいるが、実際にはそのように簡単なものではない。著者の議論は鋭いと思う。
もっとも本書に問題点がないとはいえない。
第1に西洋経済史上の問題であるが、16世紀以降の近代資本主義社会の確立を導いた資本家層の祖先としては、かつての支配層であった封建領主であったとか、絶対王政段階の国王であったとかの指摘がある。(70頁、82頁)だがこの点は日本の経済学者間のみならず海外の学者も参加して大論争となった問題であり、資本家を生誕させたその祖先としては、マニュファクチュアの工場主であったとみる見解(大塚史学)や16世紀当時大発展をとげていた商人資本の資本家であったりとみる見解(宇野学派)が提示されていたのであり、16〜17世紀という近代資本主義社会への過渡的段階について論ずるさいには、往年の論争をもふまえて、より綿密、周到な議論がなされるべきであったと思う。
第2に著者は本書で先進国の利潤率低下を論じる場合、もっぱら資源(石油)価格の高騰のみを唯一の要因とみている点も問題である。評者は、近年の先進国の利潤率低下は、大企業が生産性の向上をはかるため技術革新の進展=機械化を増進させたため、資本の有機的構成が高度化し、そのため投下総資本に対する剰余価値の割合としての利潤率が低下してきているものとしても捉えている。これはマルクス『資本論』の第3巻第3編「利潤率の傾向的低下の法則」に依拠するものであるが、現代においてはこの法則性が貫徹されているとみるためである。さらに今日の先進国では日本において典型的に認められるように少子高齢化社会になりつつあることや、富の生産に全く関わりのない不生産的労働者が増えつつあるので、生産される剰余価値量が相対的に減少しつつあるのではないかとみるためでもある。
さらに利潤率と利子率との関係についても著者は、利子率(金利)というのは長期的にみると資本の利潤率とほぼ同じになるとみているような点は、評者にとっては理解しがたい。マルクス学派にたつ経済学では、利潤率の運動と利子率の運動とは全く分離しているものと考えられており、利潤率が高くなっても利子率は低位にある場合もあるし、利潤率がやや低下しても利子率が高騰する場合もある等と考えられているからである。それは利潤率が個別資本のそれとしては、剰余価値を投下総資本で除したものであるのに対し、利子率とは、特に銀行=金融機関に集積される資金(通貨とは区別される)の需給関係によって決定されるものである以上当然のことであろう。(今日のデフレ下においては、銀行によって供給される通貨量は過少であるのに対し、銀行に集積される資金量は過剰であり、それ故に利子率(金利)は極度に低下している。資金の需要を高めているのは国家と地方の財政のみであり、企業の資金需要は極度に低下しているためである。)
それ故、著者が日本はゼロ金利・ゼロ成長・ゼロインフレに陥っていると主張するさい現象として発現していることは承認するが、その要因について全て賛同するわけではない。
最後に、著者が「近代資本主義・主権国家システムはいずれ別のシステムへと転換させざるをえません。」といいながら「しかしそれがどのようなものかを人類はいまだ見出せていません。」(202頁)「その先にどのようなシステムを作るべきなのかは、私自身にもわかりません」(209頁)と述べていることに論及したい。水野氏がこのように考えているのは、氏が15〜16世紀における封建的生産様式から資本制的生産様式への移行に言及しながら、実際上は封建社会が資本主義社会とどのような点が基本的に異質なのかを深く究明していないからではないだろうか。
ヨーロッパでは中世の封建社会のみならず、古代の貴族社会においても人間は血縁、地縁を基盤とする自給自足と物々交換制度にもとづく共同体経済のもとで生活してきた。もとより階級社会ではあったが、他方では貨幣や資本に支配されることのない計画的な社会としての共同体社会が主軸を占めてきたのである。ここにおける人間の生存にとって必要な生産の動機は、消費活動のみによって規制されていた。(今日の市場経済におけるごとく、生産が消費によってではなく、企業の利潤追求によって規制されるという関係はなかった)もとより古代、中世の社会においても副軸としては市場経済(=商品経済)の取引も存在したのであるがこれによって貨幣流通や前期的資本(商人・高利貸の資本)の運動は発生していたが、農業社会であったので、それらはあくまでも補完的役割を果たしていたにすぎない。それ故、古代・中世の社会は純粋な貴族社会・封建社会といえるわけではなく、共同体経済を主軸とし、市場経済を副軸とする混合経済体制と呼ばれるべきものであったといえる。
こうした人類史を鳥瞰すれば、評者は資本制経済がゆきづまっても、民主的な共同体経済を創出する方向をとり混合経済体制をつくり出していけば、人間社会は活性化していくと考えている。著者はまだお若いので、ぜひ古代や中世の社会、とくに封建社会がいかなるものであったか(ヨーロッパに限らないが)について探求され、未来社会がいかなるものになるかの構想をえられる事を期待したいと思う。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study620:140810〕
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