書評 『海松』稲葉真弓・著 新潮社・刊
- 2014年 9月 5日
- カルチャー
- 書評阿部浪子
鳥の鳴き声が聞こえはじめると、彼女は、沼に行きたくてうずうずする。沼は、都心のマンション暮らしを長年つづけてきた女が夢見るものすべてを、もたらしてくれたという。収録の「光の沼」は、2008年度の川端康成文学賞を受賞した「海松」(みる)の続編である。著者の稲葉真弓氏にこうした実体験があって描けた2短編にちがいない。
10年余りまえ志摩半島の一角に建てた家に、彼女は、東京の自宅から通ってくる。食べるためにずっと仕事をつづけてきた。生きるために不健康を選ぶのは矛盾だと思う。だから、ここでは怠惰を決めこむ。と、細胞があたたまり毛穴が開いてくる。昼は湾をぶらつき、フユイチゴを摘んだり、ヘビの脱け殻を見つけたりする。
夜には懐中電灯をもって下へ降りていく。沼は、無数の光を運んできた。時間のすきまに隠された、思いがけないものを発見する。ヒメホタルや水面に映る月。月を見上げるのではなく、見下ろしている人が、世界に何人いるだろうと、彼女は感嘆する。さらに、遠いものへの視線を忘れていたことに気づくのだった。死者や生き物の、聞こえぬ声を聞くのである。
何もしないで死んでいくのはいやだと、彼女はいう。胸を弾ませて歩き、風景に見とれては胸をときめかす。目も耳も、鼻も肌も、全開すれば、心は解き放たれてやすらぐ。歩行、解放、発見、探求、感動という、身体的な連鎖の心地よさが、かぐわしい風に乗って、読者にもしみじみと伝わってくる。
が、注目すべきは、その経過で彼女が自然の、人間の危うい均衡をとらえているところではないか。崖は、いつ崩れてもふしぎでない。人は、足元から刻々と死のほうへ引かれていく。時間は流れて少しずつ何かが変わっていくのを、彼女は実感する。そんな自覚が、読者の無意識をつよく打ってくるのである。
2編には、著者と等身大の女性の、なつかしくてさびしい心情と、堅実な生活実感が、漂っている。ほかに収録された「桟橋」「指の上の深海」は、30代女性の夫婦不和と不倫を描いていておもしろいが、著者の一貫するモチーフで構築され、描写力が充分に発揮された、連作世界のほうが優れている。
(2009年9月13日付「信濃毎日新聞」より、許可をえて転載)
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