武田明・熊王信之両氏の憲法問題の論争について考える
- 2014年 9月 9日
- 交流の広場
- 岡本磐男
本年8月に入って表記のご両人の興味深い論争が展開された。まず武田氏が、「本来憲法の精神を実現するのであるなら、社会主義、共産主義の国家は(必ず発生するという意味で―引用者)必然の道」となっているといっているのに対し熊王氏は、「日本国憲法の原理とマルクス主義」なる表題のこれを批判する論稿を2回にわたって掲載した。こうしたテーマについて常日頃考えている筆者としても一言コメントしたいと考えたので、「交流の広場」という限られた範囲でのそれであるが、以下のように論じたい。まず熊王氏の所説に対していいたいことは、日本国憲法とマルクス主義(ここで氏はこの用語を単に社会主義イデオロギーとしてのみ捉えているとすればそれはおかしい)とを対応させること自身に私は違和感を覚えるということである。なぜなら日本国憲法の大部分は(法律の大部はそうなのだが)イデオロギーであるのに対し、マルクス主義という場合、マルクスの業績を全て含ませるとすれば、多分4分の3以上は社会科学としての経済学であると思われるためである。
イデオロギー論と社会科学の理論はどのように違うかと問われれば難しい問題だが、ごく簡単にいえば社会科学は論証されてはじめて科学的理論といえるが、論証されなければ科学とはいえないとだけ述べておこう。もとより私はイデオロギーを軽視するわけではなく日本国憲法における国民主権、基本的人権、言論の自由を筆頭とする市民的自由、戦争の放棄等々の理念は重要であると評価している。また社会科学としての経済学も重要であると考えている。
熊王氏は、日本国憲法における国民主権は「人類普遍の原理」である点を力説されており、これに私も異存はないが、問題はこの憲法が現実に遵守されているか否かであろう。今日の日本社会においては失業者も200万人以上も存在し、所得が約200万円程度の非正規雇用の労働者が2000万人近くも生存するような過酷な社会になっているが、貧困に苦しむこれらの人達の間に、自由や人権が保証されていると考えうるであろうか。私は保証されていないと思う。例えば言論の自由にしても、労働者に長時間労働を強制し搾取するブラック企業のような企業内において、労働者は経営者の悪口をいうような自由があるだろうか。そのようなことを労働者が口走れば彼等は解雇される可能性が多分にあるから彼等は口を閉ざしてしまうのではないか。すなわち、言論や信条の自由といっても、それは社会的に限られた人たちの間でしか保証されていないのではないか。
マルクスが法というものに対して過大な期待を持たなかった点に一言触れておこう。それは彼が新聞記者であった若い頃、ドイツの一地方の入会地(共有地)における農民による森林伐採が違法であったにも拘らず、農民は木を伐採して処刑されたという歴史的事件をみたためであるといわれている。農民としては生活の資を得るために木を伐採せざるをえなかったのである。彼はこの事件をみて法律というものは果たして庶民の味方であるかという疑念を抱き法学ではなく経済学の研究に没頭するようになる。こうしたジレンマが生ずる事例はどこにでもあるように思われる。
次に熊王氏は憲法第29条の財産権の不可侵に触れ「私有財産はいかなる事由に基づいても…禁止できないのです」といい、民法の規定までひいて、私有財産(生産手段のそれを含む)の擁護を力説されている点に言及したい。私は法学者ではないから、なぜ憲法では、財政権という言葉を使い、私有財産の不可侵という言葉は使わず、むしろこれを民法にゆだねるような形にしたのかは分からない。だが氏のように私有財産の擁護のみを力説すると資本主義社会は古代や中世の社会と同様に階級社会であることを認めざるをえなくなる点だけは指摘しておきたい。
一般によく知られているように、数千億円・数百億円という資産を父親の死後相続した子供は資本家としての人生が可能となるわけである。もっとも莫大な財産を築くことができた人は相続によったのではないかもしれない。だが巨額の財産の獲得は個人の力のみによることは困難であろう。私有財産の重要性を説く氏は、その根拠を説いていないが何百年前かの思想家であったジョン・ロックのように、自己の労働によってえた財は自分のものとなるという自然法の思想によっているのかもしれない。だが実はこの所説もアダム・スミス以前からある労働価値説によっては支持されないであろう。とくにここで指摘しておきたいことは、私有財産の重要な要因となる土地は、本来は商品ではなく神が与えた物であるということである。すなわち土地は決して労働生産物ではない。それ故土地を相続して巨額な財産を築いた人は、少なくとも神聖にして侵しえない私有財産を築いたとはいえないだろう。
マルクスは、理想社会における所有(生産手段のそれ)は社会的所有(これについては種々の解釈が可能となるがここでは省略する)とした。それ故、日本の法学(とくに民法学)と対立が生ずるのは当然である。だが言論、思想の自由が保障されている現状では、当然種々の考え方を披瀝したとしても一向に差し支えない。
最後に武田氏の言葉に関し一言しておきたい。氏は自らの生き方についていろいろと模索しているようであるが、次のようにいう。「自由主義、自由な選択肢の中で短い人生をどのように方向づけようが「お金持ちになりたい」「人より贅沢したい」「資本主義社会の社長になりたい」でもそれは自由というものでしょう」と。だがこの言葉は、一般の市民、労働者にとっては実現不可能な空論ではないか。またこうしたことを空想することが人間の自由だと信ずることも問題である。あまり意味はないのではないかと思う。私は氏に助言する立場にはないが、もしこの立場にあるとすれば、次の言葉を受け取ってほしい。氏は批判的経済学をよりいっそう学習し、ゆき詰まりを示しつつある現在の資本主義について深く考えてほしい。これによって自らの社会的地位を認識できるでしょうし、将来の生き方の展望も拓かれるでしょう、と。
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