左翼再生と第二ちきゅう座構想(インターネット戦略)について
- 2014年 9月 14日
- 交流の広場
- 武田明
1-0パラダイムチェンジは如何にして定着されるのか?
「プロレタリア独裁」についてはこれまでも散々ちきゅう座以前から語ってきたので面倒で繰り返したくないのですが理解が届いていない弊害があるようですので簡単に触れて置きたいと思います。
本来、その一つ一つは、僕の仕事ではなく日本のインテリゲンチャ―たる知識階級=文化人の仕事であるはずなのですが、その様な文化人が長らく不在であり、しっかりと論陣を守ってこなかった故の「遅すぎた革命」「失われた20年」問題であることをこれまで繰り返し述べてきたところです。
資本主義に対抗する被抑圧者たちの連帯を呼びかける思想は、社会主義思想のみが唯一のものである事、その方法論の幅はどうでも良いのですが、従来からあったフランス革命、アメリカ独立戦争を経ての独立宣言の方法論か、暴力革命としての内乱か平和革命、名誉革命としての議会政治内の革命か?
戦争を恒久的に放棄したる日本国憲法の精神を遵守(じゅんしゅ)しながらも「革命」「内乱」としてのパラダイムチェンジは、否定できないと言う事です。
プロレタリア独裁
『マルクス主義の見解では、資本主義社会は、形式上は三権分立していても、ブルジョワジーが階級としてこの全権を握っているブルジョワ独裁であるとみなす(ブルジョワジーのディクタトゥーラ)。これに対置してプロレタリアートのディクタトゥーラを提唱した。プロレタリアートの独裁は、社会の圧倒的多数を占めるプロレタリアートの、極めて少数であるブルジョワジーに対する独裁であるため、実態としては「ブルジョワ独裁」に他ならない「ブルジョワ民主主義」体制よりも、民主主義的であるとマルクスやその後継者たちは主張した。』
既に、実際の「社会主義の失敗と教訓」については、池上彰経済教室の下りで触れています。
人類史は、マルクスやレーニンの時代ならなおさら世界大戦もありまさに、ブルジョワ利権戦争から脱していない時代に対して、革命的パラダイムチェンジを主張する事は必当然の事であり、それは、自然なる発想として継承して良いものと考えています。
上記の簡単な引用でもわかるようにブルジョワ独裁=独占に対しての「価値」「公正、正義」としての移行でしかなく、真の意味での民主主義としての政治的平等「近代知的地平」未満からの必然的社会主義期への移行として語っているに過ぎません。
なんら矛盾のない発想である様に僕には感じられる部分です。
問題は、民主主義でもヒットラーやヘイトスピーチを生み出している故の「独裁」と言う言葉へのアレルギー=嫌悪だけであるのですが、文献学的閉塞=字面をなぞるだけではない、現実にある病理=人間不信社会として、憲法=基本的人権たる権利が、DVに悩む国民、子供の貧困率などの統計にも行きわたっているのか?
実際にある社会との弁証法的対話が、出来ているのかの問題を解決する手立てとしての「資本論」の体系と社会主義=人間中心主義思想は、資本主義=ブルジョワ民主主義へのパラダイムチェンジとしてなんらの矛盾ない発想であろうと繰り返し語るしかありません。
武田明・熊王信之両氏の憲法問題の論争について考える
http://chikyuza.net/archives/47219
こちらでも憲法の条文から唯物論的現実、實相との対話、分析へと提言を受けていたばかりだったでしょう。
「挙国一致して内憂外患に対する絆の完成か」
ではなく、上記の様に、「日本のインテリゲンチャ―たる知識階級=文化人の不在」「左翼陣営の不在」または、思想の意味を精確に捉えて説明できる師の存在の不在が長らく続いていた故に、本来、左翼ではない輩(やから)が、左翼の領域に踏み入ってきているだけであって、
日本は、右傾化挙国一致して安倍内閣一強多弱状態である危機にあるだけであり、ちきゅう座を拠点としてでも真性左翼及び、社会主義論を復活させねばならない、知恵の協働、自治を復活させねばならないだけであると言う事です。
1-2貨幣以前の先験的直観の場としてのちきゅう座(インターネット戦略、第2ちきゅう座構想)について
今日、明日、今週は、少し野暮用で忙しくもあるので、次回以降に順延します。
故に、暴動のススメだったのです。
副題:自由を求める天安門暴動は日本にこそ必要である。
『マルクスへ帰れ』(画像)
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