「10・8山﨑博昭プロジェクト」のWebサイトが開設されました 山本義隆(科学史家、元東大全共闘議長)講演会、申込み受付中
- 2014年 9月 16日
- 交流の広場
- 大橋圭一郎
「10・8山﨑博昭プロジェクト」のWebサイト(http://yamazakiproject.com)が未完成ながらも、ようやく立ち上がりました。そして、プロジェクトが主催するイベントの第一弾「講演と映画の集い」(「10・8山﨑博昭プロジェクト─50周年まであと3年」)の開催が間近に迫ってきました。
講演は山本義隆(科学史家、元東大全共闘議長)さんです。題して「私の1960年代─樺美智子・山﨑博昭追悼」。彼がこういうテーマで話をされるのはおそらく初めてではないでしょうか。山本さんはこのプロジェクトの発起人の一人でもあります。Webサイトの開設以降、参加申し込みが一挙に増えていますが、まだ座席の余裕がありますので、関心のある方はどうぞWebサイトをご覧ください。そのサイトから直接申し込むことができます。
「10.8」とか「山﨑博昭」といわれても、ご存じない人が多いかも知れません。1967年の10月8日、およそ5000人の若者たち(三派全学連を中心とする3000人の学生と反戦青年委員会に結集する2000人の青年労働者)が当時の首相、佐藤栄作の南ベトナム訪問を阻止しようと、羽田空港に通じる橋の上で警察の機動隊と激しく衝突しました。「弁天橋」でも激しい闘いが繰り広げられ、その渦中で「山﨑博昭」という京都大学一回生の学生が命を奪われたのです。18歳でした。
「10・8山﨑博昭プロジェクト」は、半世紀という歴史的時間を経て、2017年に弁天橋の近くに山﨑博昭を追悼するモニュメントを作ること、この50年をふり返る記念誌を作ることを目的としています。発起人は次の17人の方々です。
山﨑 建夫 (山﨑博昭兄)
北本 修二 (弁護士、大手前高校・京都大学同期生)
佐々木幹郎 (詩人、大手前高校同期生)
辻 惠 (弁護士、大手前高校同期生)
三田 誠広 (作家、大手前高校同期生)
宮本 光晴 (経済学者、大手前高校同期生)
山本 義隆 (科学史家、元東大全共闘議長、大手前高校同窓生)
上野千鶴子 (社会学者、京都大学同期生)
鷲田 清一 (哲学者、京都大学同窓生)
川村 湊 (文芸評論家)
金城 実 (彫刻家)
高橋源一郎 (作家)
福島 泰樹 (歌人)
道浦母都子 (歌人)
小長井良浩 (弁護士、当時遺族代理人)
水戸喜世子 (十・八羽田救援会)
山中 幸男 (救援連絡センター事務局長)
この10・8羽田闘争(第一次羽田闘争)と第二次羽田闘争(11月12日の佐藤首相のアメリカ訪問阻止闘争)を描いた『現認報告書─羽田闘争の記録』というドキュメンタリー映画があります。小川紳介(故人)さんの初期の代表作ですが、そのなかに強く印象に残る場面があります。山﨑君が「10.8闘争」のために上京する直前(彼の死の2.3日前)、彼とお母さんが交わした言葉を、お母さんがインタビューに答えて紹介している場面です。
お母さんが彼に何気なく問いかけます。
「どうして佐藤さんが行ったら、あかんやろ。」
彼が即座に応じます。
「お母ちゃん、なに言うてんねんな。佐藤さんが今度なにしにベトナムに行くんか、知ってんのんか。」
そのときの顔が「ものすごかったんですよ。」とお母さんは回想しています。
10.8羽田闘争と山﨑博昭の名前を思い出すたびに、筆者の胸には必ずこの会話が蘇ります。これが結果として親子の最後の会話みたいになってしまった、とお母さんは語っています。わが子のあまりにも理不尽な死。にもかかわらず、お母さんの口調が悲しみと怒りを抑えて淡々としているだけに、かえって激しく胸に迫ってきます。
この映画は、10月4日、山本義隆さんの講演の前に上映しますので、ぜひご覧になっていただきたいと思います。
当時の若者たちはなぜ羽田の橋に集まって、佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止しようとしたのでしょうか。山崎君のお母さんが息子に問うたように、「なぜ佐藤首相が南ベトナムに行ってはいけない」のでしょうか。一言で言えば、若者たちはこのように考えていました。この訪問が「アメリカのベトナム侵略戦争」に対する日本の加担政策を決定的にエスカレートさせ、参戦国化にむけての大きな第一歩になると。
当時、ベトナム戦争は泥沼の様相を呈していました。特に1967年の春ころから南ベトナム民族解放戦線の激しい抵抗によって米軍の死傷者が急増し、戦局はますますアメリカに不利になっていました。この戦局打開のため、アメリカは主に三つの政策を推し進めようとしました。一つ目は、北爆(北ベトナムへの空爆)の際限ない拡大と南ベトナムに派遣する米軍のさらなる増強。二つ目は、アジア各国に派兵の強化を要求すること。三つ目は、南ベトナム大統領選挙を実施してカイライ政権に「民政」の化粧を施すことです。
佐藤首相の南ベトナム訪問は、この第二の要求を見据えながら、同時に「民政移管」後の初めての訪問客としてカイライ政権をテコ入れするという、高度に政治的な意味を持っていました。首相がある国を訪問するということは、その国と友好を誓い、相互協力を約束するという最高の政治的行為です。ベトナム戦争の一方の当事者、しかも誰の目にもアメリカのカイライであることが明らかな「南ベトナム」政府をこうした最高級のかたちで待遇することが、アメリカの侵略政策への何よりの加担であることはいうまでもありません。このため、西欧各国でさえこうした行為は控えており、元首が訪問した国はわずかアメリカ、韓国、オーストラリアのみという状況でした。
沖縄と本土の基地のアメリカへの提供、ナパーム弾の生産、再三にわたる北爆支持などによって、日本はすでに深くベトナム侵略戦争に加担していましたが、この佐藤首相の南ベトナム訪問はそれをさらに決定的にエスカレートさせるものだったのです。
『現認報告書』で山﨑君のお母さんが登場する場面はごく短く、この会話のあとにどういう言葉が重ねられたのか、知るよしもありません。思春期の親子の会話はそう長く続くものではないので、山﨑君の言葉はこの一言で途切れたのかもしれません。彼がもし言葉を継いでいたならば、おそらく上に述べたようなことを話していたと筆者は想像しています。
当時はベトナム戦争をめぐる悲惨な現実、虐げられたベトナム民衆の様ざまな姿がテレビや新聞、週刊誌などで連日大きく報道されていました。米軍当局もこの時代はそれほど報道規制を強めておらず、世界各国の優秀なジャーナリストやカメラマンたちが、蹂躙され、虐殺されるベトナム民衆のむごたらしい姿を世界各国に配信し続けました。日本の当時の若者たちは、そういう報道によって戦争の生々しい現実を知り、自らの理性と感性にしたがって闘いに立ち上がったのです。
自分はなにもしなくてもいいのか。なにかできることはないのか。なにもしないことは結果として自分も加害者の側に立つことになるのではないか。沖縄や本土から飛び立った米軍機が北ベトナムを空爆する。ベトナムの民衆を殺戮し、そして自らも傷を負った米軍の傷病兵が日本の米軍関連施設に続々と運び込まれる。そういう現実の中で、自分はなにをするべきかと真剣に考えた若者たちが全国から羽田の橋に集まったのです。山﨑君もその一人でした。
当日は集会・デモが全面的に禁止となりました。この10月8日の前に、なにか激しい戦いがあって、その「再現」を避けるために禁止したのではありません。それまでのデモにおいて学生たちは機動隊員に絶えず殴られたり、蹴られたりして、いつも生傷が絶えませんでした。それが常態でした。国家権力は激しい闘いの「再現」を恐れたのではなく、佐藤首相の南ベトナム訪問にこめられた政治的意図の重大さを鑑みて、集会とデモを全面的に禁止したのです。こういう状況のなかで、学生たちが取るべき手段はもちろん一つしかありません。実力で、身を挺して、機動隊の壁を突破することです。
あの日、多くの若者たちが警察の暴力によって傷つきましたが、筆者も弁天橋の上で頭を割られて血まみれになりました。2台の装甲車の間をすりぬけて空港側に突撃した直後のことでした。警棒の乱打を止めたのは年配の私服の刑事でした。「もう、やめろ」と言っても聞かず、その人が間に入るようなかたちでようやく暴行は止まりました。阻止線を幾度も突破された機動隊員はみんな異様に殺気立っていました。池上署に留置され、19歳ゆえに家裁に送致、23日目に釈放されました。山﨑君の死は接見の弁護士から聞いた記憶があります。彼も同じような状況のもとで殺されたのだと直感的にわかりました。日々殺戮されるベトナムの人たち。虐殺するアメリカ。それに加担し参戦国化の道を歩もうとする日本。拱手傍観する者はすなわち加害者に連なる。若者たちはそう考えました。そして、集会・デモが全面禁止のもと、身を挺して羽田の橋に向かったのです。あの日からもう半世紀近くが経ちますが、彼の死を想うたびに涙が滲みます。
その「弁天橋」も今は大きく様変わりしています。橋の幅員が拡張されて両側に歩道ができています。当時はいまの車道の幅だけだったように思います。逆に、海老取川の護岸工事の結果、橋の長さはかなり短くなっています。
プロジェクトでは、10月4日の「講演と映画の集い」に先立って、午前10時から正午にかけて、発起人たちと共に「弁天橋」を訪問し、山﨑君に献花をするという計画を立てました。Webサイトの送信フォームから参加申込みができるようになっています。
このプロジェクトはいうまでもなく、50年近く前の闘いを回顧し、一人の少年の死を悼むことのみが目的ではありません。プロジェクトの「趣意書」の末尾にはこう書かれています。
「日本が徐々に戦争に向かいつつある現在、このプロジェクトは、山﨑博昭の名前とともに、わたしたちがいまも、これからも戦争に反対し続けるという意志表示でもあります。」
Webサイトには「趣意書」の全文や賛同のお願いなどが掲載されていますので、ぜひ一度覗いてみていただければ幸いです。
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