米国海兵隊を沖縄に引き留めたのは日本だった :米国公電から判明 ~辺野古移設をめぐるこの国の果てしない欺瞞と情報隠蔽(1)~
- 2014年 9月 17日
- 時代をみる
- 醍醐聰
2014年9月15日
「辺野古の埋め立てが唯一の選択肢」は誰の判断か?
9月10日のNHKニュースは菅官房長官が、「わが国を取り巻く安全保障環境が極めて厳しいなかにあって、アメリカ軍の抑止力を考えたときに、『唯一の選択肢というのは辺野古の埋め立てである』という政府の考え方は、全く変わっていない」と述べ、選挙結果にかかわらず、移設計画を着実に進めていく考えを強調し」たと伝えた。(下線は醍醐の追加)
こうした官房長官の発言は、公約を反故にして辺野古移設を容認した仲井真弘多氏の苦戦が伝えられる沖縄県知事選の結果に対する予防線と言ってしまえばそれまでだが、沖縄基地負担「軽減」担当相に就任した菅氏が口にすべき言葉ではない。これについては、次の記事で触れることにして、以下では、下線を付けた部分の菅官房長官の発言の信憑性を問題にしたい。
米軍の沖縄駐留継続は日本政府の要請だった~元駐日大使が重大証言~
沖縄の地元紙2紙は昨日(9月14日)の紙面に、「米軍の沖縄駐留、日本政府の意向 モンデール氏証言」((『琉球新報』)、「海兵隊の沖縄駐留『日本が要望』 元駐日米大使の口述記録」(『沖縄タイムス』)という見出しの記事を米国滞在記者発として掲載した。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-231579-storytopic-53.html
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=83067
発言の主はカーター政権時代(1977-1981年)に副大統領に就任し、その後、クリントン政権時代(1993~1996年)に駐日米大使を務めたウォルター・モンデール氏。退任後の2004年4月27日に外交史記録を目的とした米国国務省の付属機関のインタビューに応じて同氏が語った口述記録から判明したもの。
記事によると、1995年、米軍普天間飛行場の返還の交渉のさなかに米兵が起こした日本人少女暴行事件について、モンデール氏は「 県民の怒りは当然で私も共有していた」と語った上で、事件に対する県民の強い怒りに直面して、当時、米国政府内では事件の数日のうちに、米軍は沖縄から撤退すべきかどうか、少なくともプレゼンス(存在)を大幅に削減すべきかどうか、さらには事件を起こした米兵の起訴に関して日本に多くの権限を与えるようにすべきかどうかといった議論に発展した、と述べていた。
ところが、日本政府の対応はどうだったかというと、当時、日本側の指導者たちとの非公式な会話では日本側は米軍を沖縄から追い出すことを望まず、沖縄での米軍駐留の継続を求めていた、モンデール氏は述懐したという。
結局、事件から7か月後の1996年4月、日米両国政府は沖縄県内での代替基地建設を条件として普天間飛行場の全面返還で合意した。
なお、『沖縄タイムス』の記事は、当時、ペリー国務長官が米議会で「日本の全ての提案を検討する」と発言したこと、ナイ国防次官補(当時)も「兵力の本土移転も含むと述べたことも紹介している。
日本政府・防衛当局は「普天間基地移設で妥協するな」と米に伝えていた
これだけではない。ウイキリークスが暴露した米国公電の中に、2009年10月12日、国務、国防総省双方の当局者を率いて訪日したキャンベル次官補らに対し、非公式な昼食の席ではあったが、高見沢将林・防衛政策局長が「米政府は、民主党政権に受け入れられるように再編パッケージに調整を加えていく過程で、あまり早期に柔軟さを見せるべきではない」と助言した、と記している。
さらに、当時の外務省中堅幹部はもっとあからさまに米国が民主党政権に譲歩することがないようけん制していたことも公電から明らかになっている。
2009年12月10日に、日本政府の国連代表部で政務担当を務める参事官ら3人の外務官僚が在日大使館の政務担当者と会った際の会話を記した同月16日付の公電によると、外務官僚らは「鳩山政権の普天間移設問題での対応と政治利用」への不満を述べ、「米政府は普天間移設問題では民主党政権に対して過度に妥協的であるべきではなく、合意済みのロードマップについて譲歩する意思があると誤解される危険を冒すべきでもない」と強調したと記されている。
以上、
「不信の官僚、『米は過度に妥協するな』〈米公電分析〉」asahi.com 2011年5月4日19時18分
http://www.asahi.com/special/wikileaks/TKY201105030296.html
日本の防衛当局はすでに2009年に辺野古沖の軍港機能化を米国と協議していた
そればかりではない。『琉球新報』は9月12日の紙面で「ウィキリークスが公開した米大使館発公電。高見沢防政局長が代替基地建設の妥当性を示す説明を米側に求め、赤線の部分に高速輸送船やオスプレイ配備の記述がある」として、次のように記している。
「辺野古に軍港機能付与 日本政府、09年把握」
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-231489-storytopic-3.html
「日米両政府が名護市辺野古に建設を計画する米軍普天間飛行場の代替基地に軍港機能が付与されると指摘されている件で、日本政府が遅くとも2009年には、新たな基地に米軍の高速輸送船が配備される計画を把握していたことが分かった。日本政府は垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの県内配備についても、米政府からの正式な通告である『接受国通報』を12年6月に受けるまで「未定」と説明してきたが、同じく09年段階で把握していた。」
「ウィキリークスが公開した09年10月15日付の在日米大使館発の公電によると、同月12日にキャンベル米国務次官補(当時)らと日本の外務、防衛両省幹部が普天間問題をめぐり会談した。公電は防衛省の高見沢将林防衛政策局長(同)が米側に対し、辺野古の新基地建設の「妥当性」を米政府が説明する際は「(在日米軍再編を合意した)06年以降の米軍の能力や戦争計画に関する変更を反映すべきだ」と勧めたと記録しており、例として『高速輸送船やMV22の配備』を挙げたとしている。
この会談に出席していた当時防衛政務官の長島昭久衆院議員は本紙の取材に『高見沢氏の発言は記憶にない。あったとも、なかったとも言えない』と述べた上で『当時オスプレイの導入は基本路線となっていた。政府内で『早く公表すべきだ』と進言していた』と明かし、『高見沢氏の発言は当時の状況からすると特に違和感はない』と指摘した。」
国の果てしない情報隠蔽
これが事実とすれば、辺野古沖での代替基地建設は普天間移設に伴う沖縄の負担軽減が目的だとしてきた日本政府の説明とは裏腹に、基地の負担軽減どころか、辺野古沖での基地建設は現在の普天間にはない米海兵隊の機能の拡大強化を想定していたことになる。
また、ウィキリークスが公開した駐日米大使館発の公電によると、前出の高見沢防衛政策局長は1996年にはすでに、オスプレイが2003年ごろに沖縄に配備予定とする文書を提出していたと記されている。
防衛省は辺野古新基地には軍港機能はないと繰り返すが、これでは「この国の主権者は一体誰なのか。『主権在官』。沖縄の基地問題をめぐる国の果てしなき隠蔽体質にそんな言葉さえ浮かぶ」という『琉球新報』の告発に深く共鳴するほかない。
鎮魂
額づけば 戦友葬りし 日のごとく 夜明けの丘に 土の香匂ふ
両の足 失なひし兵 病院を 探して泥道 這ひずり来る
南原(はえばる)町の黄金森に掘られた壕の中に移設された沖縄陸軍 病院の第三外科で軍医見習士官として勤務していた長田紀春氏が詠み、遺族の宮里宏氏の揮耄で黄金森の鎮魂広場の一角に建設された犠牲者鎮魂の碑 (2014年8月22日、醍醐聰撮影)
ひめゆりの塔の前で(2014年8月20日。醍醐聰撮影)
初出:「醍醐聡のブログ」より許可を得て転載 http://sdaigo.cocolog-nifty.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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