「報われざる人間性」について考える
- 2010年 11月 25日
- 時代をみる
- 「報われざる人間性」岩田昌征
BiHのセルビア人共和国の首都バニャルカから心温まるニュースが届いた。ポリティカ紙(11月15日)、ボラ・マリチ記者の「報われざる人間性」である。
1992年、ボスニア戦争の初期、マロ村とヴェリコ・デリェゴシ村から600人余のボシニャク(ムスリム)人村民の列が隣国セルビアに向かっていた。しかも、セルビア人共和国軍兵士ジヴォイン・ヤシチがその行列を先導していた。1992年5月16日のことである。当初、ボシニャク人村民はスレブレニツァ(ボシニャク人が圧倒的多数で、やがてBiH政府軍=ボシニャク人軍の強力な拠点となる‐岩田)へ向かって脱出しようとしていた。ジヴォイン・ヤシチは、それではかえって戦闘に巻き込まれ、危険であろうと判断して地元のスレブレニツァ近郊スケラン地域防衛隊長マルコ・ミラノヴィチと相談し、ボシニャク人にセルビアに避難するように勧めた。ボシニャク人のリーダーであったエドヘム・オメロヴィチは、隊長の攻撃せずとの保証を信じて、セルビアへ逃げることを決断し、親族・友人たちを説得した。
セルビア人軍の戦友たちは、この行為を裏切りとみなし、ジヴォイン・ヤシチ銃殺を決めたが、隊長マルコ・ミラノヴィチはそれを許さず、ヤシチは内戦中セルビア人軍兵士として戦い続けることになる。スケランの彼の家は破壊されてしまって、現在ドリナ河の向こう側のセルビアの町バイナ・バシタで日雇い労働者として働いている。
提案を受け入れて、セルビアへの避難を決意したボシニャク人のエドヘム・オメロヴィチも一緒に逃げた村人たちも、当時のBiH政権によって裏切り者とされ逮捕状が出された。そのことでオメロヴィチもまた村人たちから恨まれもしたが、1995年7月のスレブレニツァ虐殺事件を知った後は、大変に感謝されている。エドヘム・オメロヴィチは語る、「ドリナ河(セルビアとBiHの国境)を越えた。セルビア側にバスが私たちを待っており、難民センターに運ばれた。そして、一部は受け入れてくれたセルビア人の家に、一部は友人や親族の家に落ち着いた。その後大多数は、大変に優しくしてくれたセルビアから西ヨーロッパへ移り、今もそこに住んでいる。・・・・・、私の価値基準では、ジヴォイン・ヤシチと故マルコ・ミラノヴィチは神に次ぐ存在だ」。
ヤシチ自身、非人間的時代にあって彼が行った人間的行為=戦士の騎士道が全く社会から見捨てられていることに釈然としていない。
岩田評。その通り、市民社会の人々は戦争を憎み、平和を愛するあまり、戦争の中に非人間性のみを探し求め、戦争の中の戦士の示す人間性、騎士道や武士道といわれる珍なる事件を見たがらない。私は具体的な固有名詞はともかく、ムスリム(ボシニャク)人がドリナ河を越えてセルビアに避難したこと自体は知っていた。回教寺院(ジャミア)がすべて破壊されていたBiHの町ズヴォルニクのドリナ川対岸の町小ズヴォルニクではジャミアが無事であることも、ムスリム(ボシニャク)人が多数派のセルビアのサンジャクの町ノヴィバザルの数多くのジャミアがすべて無傷であることも、私自身目撃していた。1990年代前半のボスニア戦争の当時、私はこのような事実を周囲の市民社会の知識人に語っても拒絶反応しか得られなかった。欧米の市民社会によって絶対的悪玉とされたミロシェヴィチ統治のセルビアの悪魔性を中和したり、薄めることになる情報を防水布のように撥き飛ばすこと、それが市民社会の掟のようであった。
ところで、ベオグラードにあった唯一のジャミア(回教寺院)が放火されたのは、2004年3月、コソヴォのセルビア人住宅や正教寺院が数多くアルバニア人(イスラム)に放火され炎上した大事件の直後のことであった。それまでは、BiHとは違って、セルビアでは回教寺院が破壊されることはなかった。
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