「アベノミックス」を支える「バカの壁」
- 2014年 10月 2日
- 時代をみる
- アベノミックス盛田常夫経済学
「経済学は科学」と思い込む「バカの壁」
経済学を勉強したこともない政治家が、GDPやら金融緩和政策などを「したり顔」で語る。ところが、今の内閣の中核を形成しているのは、皆、大学では劣等生。経済学教科書など開いてみたこともない御仁たちだ。その彼らが専門家のようにGDP成長率や物価目標などを説いて回っている。笑止千万極まりない。もちろん、経済顧問の受け売りだが、受け売りでも説いて見せることができるのは、経済学がたいした学問ではないという証左ではないか。GDP概念も説明できないのに、年2%とか3%の成長が望ましいなどとご宣託まで下している。政治家が語るGDPは経済学概念というより、一つの合言葉にすぎない。そういうレベルで語られる経済学は、科学というよりイデオロギー。イデオロギーだから、正しいとか、正しくないとか判断できる代物ではない。信じるか信じないかというだけのことなのだ。
多くの政治家は経済学をきちんと勉強したことがないから仕方はないが、困るのは顧問や応援団を称する一群のエセ学者たちだ。これらの「経済学者」に共通するのは、経済学が描く単純モデルがあたかも現実経済を正確に反映していると信じて止まないことだ。マクロ経済学にしてもミクロ経済学にしても、これは現実経済から遠く離れた抽象的で単純な思考モデルに過ぎない。「大学者」と称される人ほど、自らが考えるモデルと現実経済を区別することができず、思考モデルをあたかも現実経済であるかのように錯覚する倒錯思考に陥っている。悲しいことに、倒錯していることすら自分で気づかない。これが多くの経済学者がかかる「認知症」だ。だから、モデル通りに現実が推移しないと、モデル(単純思考)に誤りの原因を求めるのではなく、経済環境が変わったから、想定外の結果になったと抗弁する。ああ言えばこう言うで、理屈をこね回しているだけ。
もうこうなると、議論しても始まらない。単純な思考モデルを信じるか、信じないかだけ。こういう学問が科学の名に値しないことは言うまでもない。「アベノミックス」をヨイショするほとんどの「学者」は、経済学を科学だと信じて、抽象モデルが描く世界を現実世界と思いこむ「バカの壁」の囲いの中で議論している。「アベノミックス」応援団の中には、数式で現実経済のすべてが分かると豪語する御仁もいるから呆れる。「経済学認知症」が昂進するとこうなるが、お目出度さの度が過ぎている。しかも、この御仁は「1ドル=120円の円安、16000円台の株価」の到来を礼賛しているからどうしようもない。これはもう信仰の世界である。
「バカの一つ覚え」のGDP:A fool’s memory can hold only one thing
政治家に、「GDPってなんですか」と質問して、きちんと答えられる人はいない。政治家に聞いても始まらないが、驚くべきことに、経済学者でも、この質問にきちんと答えられる人が非常に少ない。教室で教員に質問してみればすぐ分かる。「先生、GDPを定義してください。GDPの価値の源泉はなんですか」、と。さらに、意地悪な質問は、「GDPの数値はどうやって計算されているのですか」だ。信じられないかもしれないが、これらの質問にまともに答えられる経済学教員はほとんどいない。にもかかわらず、政治家や経済学者がGDPを自明な概念として、日常用語のように使うのはどうしてだろう。
それはマクロ経済学教科書がGDPをあたかも先験的な概念のように取り扱い、GDP概念の厳密な規定を避けて、GDPを自明な概念として使用するからである。しかし、自明などころか、これは経済学の基礎にかかわる本質的な問題なのだ。にもかかわらず、現代経済学が概念規定に踏み込まないことには理由がある。
一つは、概念規定をしようとすれば、価値論の領域に踏み込まざるを得ない。しかし、労働価値論を否定する現代経済学は価値の源泉(実体)を解明できない。だから、本質規定を避けて、価格現象(相対価格)のみで経済を理解しようとする。GDPの価値源泉の議論に踏み込めないどころか、多くの学者はそんな問題など考えたことすらない。大学院時代、マルクス経済学をイデオロギーか歴史学にすぎないと豪語する非マルクス経済学専攻の連中にたいし、こういう問題提起で困らせるのが議論の定石だった。それはともかく、ほとんどの学者はマクロで集計した付加価値総額以上の理解を超える概念規定に入り込まない。だから、学生もまたGDPの価値規定に大きな経済学上の問題があることを知らない。
二つは、GDP統計を扱う国民経済計算論を正式な科目として開講している経済学部は、全国で五指にも達しない。日本にはこの分野の専門家がほとんどいないのだ。教える先生がいないから専攻する学生もいない。もちろん、政府の統計関連部署に経済統計家はいるが、大学で講座を担当できる専門家がいない。だから、学者ですら、GDP統計がどのような資料からどのように構成されるかを知らない。驚くべきことだが、これが真実である。
世界を見渡しても国民経済計算論の専門家が多いとは言えないが、第二次大戦後、国連の拠出資金分担が国民所得を基準に算定されるようになってから、国民経済計算を扱う国連統計委員会が国際的標準を与える機関として重要な役割を果たしている。現在は、国連統計委員会が策定する基準にもとづいて、各国がGDP計算を行っている。
三つは、国際基準があっても、各国の経済構造は同じではないから、計算領域の選択や算定方法に裁量の余地がある。統計誤差もあるから、精確な数値の把握は難しい。GDP数値の確定は、支出面と生産面の両面から行われるが、二つの統計数値の誤差を縮める作業が不可欠で、その誤差は半端な大きさではない。GDPの数値そのものを確定することが非常に難しい。ギリシアがユーロ圏加盟時にGDP数値を誤魔化していたように、統計数値を操作することも容易だ。統計数値としてのGDPは、小数点まで正確に成長率を議論できるような代物ではないのだ。ところが、政治家はもちろん、経済学者のほとんどがそのことを知らず、GDP成長率を予想する。GDP予測など競馬の勝ち馬予想と大差ない。だから、予想が当たっても当たらなくても、誰も責任など持たない。
GDPの大きさは労働力の質と量で決まる。したがって、たとえば日本の労働人口が半分に減れば、質(生産性)の向上がない限り、GDPは半減する。自明の理である。しかし、アベノミックスの「バカの壁」に囲まれた政治家や経済学者には、こういう議論は通用しない。GDPは永遠に伸びる(成長)するものだと単純に考えている御仁が多いから困ったものだ。
GDPギャップという虚構
GDP自体が一つの抽象的な虚構(imaginary)の数字である。国民経済の様々な異業種の付加価値を総計した集計数値であり、それ自体が一つの実体をもつものではない。しかし、経済学者はこれをあたかも操作可能な実体であるかのように考える。抽象数値をこね回すのは勝手だが、それはあくまで頭の中の出来事にすぎない。ところが、経済学者にとってこれがマクロ経済政策を考える中核的な数値になる。現実のGDPの背後に、潜在的なGDPがあると仮定し、この二つの数値の差を「GDPギャップ」と呼び、現実GDPが潜在GDPより低ければ、そのギャップを経済政策で埋めることができると考える。
労働価値論を否定する現代経済学でも、潜在GDPを計算する時には、労働力人口が重要な要因になる。それでも集計的な数値としてのGDPが抽象的な数値であることに変わりはない。製造業であれば設備稼働率などが一つの目安になるが、種々異なる製造業のミクロ的数値をマクロ的に集計しても、それほど意味ある数値を得られるわけではない。まして、農業やサービス業、製造業や金融業を含む異業種経済部門の生産活動を抽象的な数値にまとめたものだから、潜在であれ現実であれ、GDPは一つの仮説的な虚構数値に過ぎない。それら二つを比較してギャップがあるとかないとか言ってもみても、現実的意味合いはない。
ところが、経済学者にかかると、政策当局はこのGDPギャップを操作することが可能で、金融・財政政策や構造政策を駆使することで、そのギャップを埋めることができると考える。
「デフレ下では現実GDPが潜在GDPより常に下回るので、金融政策を使ってインフレを起こして需要を喚起し、GDPギャップを埋めれば経済が成長する」と考え、これを「アベノミックス第一の矢」と称している。GDPギャップが縮まったところで、構造改革を行って潜在GDP(供給力)を増やすのが、「第三の矢」だという。こういうシェーマを描くのは自由だが、そのシェーマ自体が現実離れした経済学者の思考にすぎないことを理解していない。にもかかわらず、浜田内閣顧問などは、すでに第一の矢は達成され、次は第三の矢を放つ番などと主張している。自分で頭の中で、あれこれ思考の体操をおこなっているにすぎない。これこそ、重症の経済学認知症である。
「円安と株価上昇が日本経済を救う」と考える「バカの壁」
「アベノミックス」をヨイショする経済学者は、金融緩和によって、GDPギャップが縮小したから、成功したと考えている。株価上昇によって資産価値が上がり、高額不動産や高額商品への需要が生まれ、消費者の購買意欲が増進して、GDPギャップを縮小したと考える。現実とかけ離れた主張で、手前味噌な議論だ。
金融緩和によって株価が上がったのは、製造業へ資金が流れず、金融投資にお金が回ったからにすぎない。新規の建設を別として、不動産売買は資産の持ち手の交換にすぎないから、それでGDPが増えるわけではない。通常の株式取引も同じだ。これほど「アベノミックス」の失敗を如実に示している事実はない。
本来、緩和された資金は製造業で投資資金として利用され、将来のGDP成長の基礎を作るはずのものだった。ところが、製造業ではどれほど利率が低くても、資金を借りてまで実行できる投資機会を見つけるのが難しい。だから、だぶついた資金が金融市場に流れ込んだだけのこと。株で儲けた一部の資産家が高額商品を購入してGDPギャップが縮小したという議論は、カジノの誘致で日本経済が活性化するという議論と同類。こんな噴飯ものの議論がまかり通るところに、「アベノミックス」のイデオロギー的性格を見て取ることができる。余剰資金が流れ込んで株式相場上がって一番儲かるのは、空前の売買手数料を取得した胴元の証券会社だ。株式相場が上がって儲けることができるのは一部の資産家だけで、ほとんどの国民に恩恵はない。
株価上昇による景況感の好転を醸し出そうと、公的年金基金積立金の株式運用割合を増やす官製相場作りが進行しているが、これなどは、国民資産をカジノ的投機につぎ込む犯罪行為だ。それを見越して、海外の投機的資本が株式市場に流れ込んでいる。こういう資本は売り逃げするのも速い。売り逃げされれば、結果的に年金資産が食い逃げされる。保有株式の含み損の責任を、誰がどうとるのか。閣僚を含め、政策決定者は自らの個人資産を政策実行の担保として差し出し、最低限の個人責任をとる覚悟を示すべきだろう。さもなければ、このような火遊びに、国民の資産を使ってはならない。
一部業種の大企業を除き、8割の事業者が「アベノミックス」の恩恵を感じていないと回答している。緩和された資金が事業者の活動に使われていないのだから、当然のことである。逆に、円安による輸入原料・資材の高騰で、多くの事業者が苦しむことになった。円安になり、株価が上がり、インフレになれば、景気が良くなるというのは嘘で、円安不況が事業者を襲っている。
海外旅行する日本人は安倍政権発足前に比べて、国外での支出が3割も増えている。一部の企業は為替で空前の利益を記録したが、他方で一般国民は多大な為替損を被っている。ところが、大企業の巨額為替差益は大きな新聞記事になるが、庶民の海外旅行での為替差損など、記事の対象にもならない。一人一人の差損が少ないからだ。しかし、旅行者すべての差損を合計すれば、大企業が稼いだ差益に相当する。何のことはない、大企業が儲けて、庶民が損しているだけ。新聞記事にならなければ、庶民は損していることも分からないまま、「アベノミックス」に騙され続けている。「円安と株式市場の高騰が日本経済を救う」と考える「バカの壁」が、国民を自縄自縛に陥れている。
すでに「アベノミックス」のシナリオは破たんしている。「アベノミックス」をヨイショしてきた経済学者には、そろそろ、大言壮語の口を閉じ、頭を丸めて蟄居してもらうしかない。
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