周回遅れの読書報告(その8)
- 2010年 11月 26日
- 評論・紹介・意見
- 『ヘーゲル哲学への道』脇野町善造
読書報告とは通常は「読んだ本」に関する報告のことをいう。その限りにおいて、今回の報告は「読書報告」とは言い難い。これは、ある本がいまだに読めないでいる報告である。話は10年以上前に遡る。1998年の秋、「こぶし書房」の代表者という人物からPR誌『場(UTPADA)』No.8(1996年12月)を貰った。そのなかに、旧知の馬場弁護士の投書(読者からのたより)が掲載されていた。甘粕石介『ヘーゲル哲学への道』についての次のような手紙であった。
学生時代(戦前)に入手した初版本を失い、多年入手を希望していただけに書店で知り早速入手しました。これから50数年振りに再読にかかりたいと思います。
馬場氏は学徒兵として海軍に引っ張られながら、なんとか帰還し、戦後の早い時期に弁護士となられた。以来、ずっと法曹畑で生きてこられたとばかり思っていた。しかもこの時、馬場氏はすでに78歳である。この年齢になってなお自分の仕事とは全く関係のないヘーゲルを研究しようとされている。その強固な意思力に対しては「敬服」以外に言葉を知らなかった。だが哲学は私にはあまりに縁遠い学問である。ましてヘーゲルときては、どうにもならない。「敬服」はしたものの、『ヘーゲル哲学への道』を読む気は起らなかった。
翌年の秋、馬場氏と食事をする機会を得た。食事をしながら『場(UTPADA)』の話をする。「ヘーゲルを読んでおられるんですか」と尋ねたら、「僕は本当はヘーゲルじゃなくて、カントなんです」と言われる。ヘーゲルは追加的なものに過ぎないと知って、もう一度驚く。生業としての法律事務所はたたんで、今後は「町の弁護士」として、地域の住民の生活相談にのったり、出身校である早稲田の若い学生相手にリーガル・マインドの話をしたりしているという。そして今後は趣味のクラシック音楽を聴きながら、静かに過ごしたいと言っておられた。古き良きリベラリストの綺麗な老後を見た思いがした。
馬場氏はその一ヶ月に急逝された。まさかこんなに早く馬場氏の訃報を聞くことになろうとは、考えもしなかった。なぜ天命は、馬場氏の思うような日々をもう少し氏に許さなかったのか。「無常」を思わずにはいられない。そう思った。そしてせめて馬場氏にカントとヘーゲルの哲学のことをもう少し聴いておけばよかったという悔いが残った。その場で書店に『ヘーゲル哲学への道』を発注した。馬場氏を偲ぶためと、馬場氏の爪の垢でも煎じて飲もうと思ったからであろう。
『ヘーゲル哲学への道』はそれから10年を超える年月、狭い書庫の一隅に埃をかぶり続けている。甘粕のヘーゲル理解に賛同し難いわけでも、いまさらこの本を読む必要があるのかという疑問があるわけでもない。ただ、どうにも読めない。最近またその本を目にした。「ヘーゲルは自分にはまだ無理だ。2011年は馬場氏の13回忌になる。それまではそっとしておこう」。そう呟いてこの本の前を素通りした。泉下の馬場氏が「相変わらず君は駄目な奴だな」と苦笑されている姿が目に浮かぶ。
甘粕石介『ヘーゲル哲学への道』(こぶし書房、1996年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
[opinion0227:101126〕
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