著者 藻谷浩介氏による『里山資本主義』(角川書店)とは何だろうか
- 2014年 10月 21日
- スタディルーム
- 岡本磐男
『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』藻谷浩介著(角川書店)843円
本書については、本年の8月7日の『朝日新聞』の広告欄で「東大生が最も読んでいる本」として紹介された。評者は、この広告に興味をそそられたので書店で購入して読んでみたが予想に違わず社会的に有意義な著作であると感じた。本書の著者はNHK、広島放送局に勤務されていたジャーナリストであるようだ。だがそれにしても、この里山という言葉と資本主義という用語を結びつけて本の表題としている点が私にはしっくり理解できない。それ故この点を問題意識として取上げることから出発することにしたい。
まずこの里山という言葉であるが、これは国語辞典にはのっていない。想像するにこれは田舎とか農村とかいう言葉に概念上は近いのではないかと察せられる。その証拠としては、著者(本書で著者という場合、藻谷氏以外に2、3人の方がおられるがいちいちお名前はあげない)は、人間生活のエネルギーを森林から伐採されるたきぎのようなものに依存する生活領域をきわめて重視しているからである。それ故「里山資本主義は、経済的な意味合いでも『地域』が復権しようとする時代の象徴と言ってもいい。大都市につながれ、吸いとられる対象としての『地域』と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動が、里山資本主義なのである。」(102頁)というのだがなぜ、ここで資本主義という言葉を使うのか。資本主義という用語では、主に工業社会が意味され、資本家と労働者との対抗関係があるという図式が念頭に浮かぶが、著者はこうした階級関係には一切触れることなく、単にこの言葉を運動として捉えているにすぎない。こうした疑問はあるがここでは指摘するにとどめたい。
著者は次に「人が生きていくのに必要なのは、お金だろうか、それとも水と食料と燃料だろうか。」(117頁)と設問し、人間は必ずしもお金がなくとも暮らしていけるような自給自足のシステムを構築しうるのだと主張する。すなわち「マネーに依存しないサブシステムを再構築しよう」という。もっとも著者は現代の高度な技術水準に到達しえた「マネー資本主義」を廃止したり抑制したりしようというのではなく、それはそれとして発展を容認した上で、それと並行させて里山資本主義なるお金をあまり使わない、ないし少ししか使わないシステムを組み入れるべきだというのである。「『里山資本主義』とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された『マネー資本主義』の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方だ。お金が乏しくなっても水と食料と燃料が手に入り続ける仕組み、いわば安心安全のネットワークを、予め用意しておこうという実践だ。勘違いしないで欲しいのだが、江戸時代以前の農村のような自給自足の暮らしに現代人の生活を戻せ、という主義主張ではない。お金を媒介として複雑な分業を行っているこの経済社会に背を向けろというわけでもない。・・・森や人間関係といったお金で買えない資産に、最新のテクノロジーを加えて活用することで、マネーだけが頼りの暮らしよりも、はるかに安心で安全で底堅い未来が出現するのだ。」(121頁。)
また別の個所では、同様のことを次のようにいう。「前にも述べたとおり、われわれの考える『里山資本主義』とは、お金の循環がすべてを決定するという前提で構築された『マネー資本主義』の経済システムの横に、お金に依存しないサブシステムも再構築しておこうというものだ。最初の動機はリスク・ヘッジかもしれない。何かの問題でお金の循環が滞っても、水と食料と燃料が手に入り続ける仕組み、いわば安心安全のネットワークを、予め用意しておきたいという思いが、里山資本主義への入り口となる。しかし実践が深まれば、お金で済ませてきたことの相当部分を、お金をかけずに行っていくことも可能になってくる。生活が二刀流になってくるのだ。」と(138頁)。評者はこうした見解には全く賛同したいと思う。なぜなら、今日私たちが住む日本社会においてもみられる通り、経済が資本の論理の赴くままにまかされていった結果として、貧富の格差が激しくなり、失業と貧困の問題が深刻化し、高齢化の進展もあって社会保障費が拡大し、政府の財政負担→国債の膨張によって国家破綻の危機に見舞われるかもしれぬ程の深刻な事態となってきたからである。
そこで著者は、マネー資本主義のアンチテーゼとして里山資本主義の発展を提唱しているわけであるが、その第1テーゼとしては、貨幣換算できない物々交換の復権をあげている。また第2には、大量需要・大量供給の思考を排し、「車はマネー資本主義に依存してお安く買わせていただくが、食料と燃料に関しては自己調達を増やそう」というようなご都合主義でいこう、とか、第3には、必ずしも仕事の効率をあげるために分業の原理をとりいれる必要はなく、1人(または数人で)多くの仕事をこなす多役の方法をとりいれることによって効率をあげることも可能であると論じてマネー資本主義が効率的だとする議論に対抗している(141−48頁)。そして人生において「持つべきものはお金ではなく、第1に人との絆だ。人としてのかけがえのなさを本当に認めてくれるのは、あなたからお金を受け取った人ではなく、あなたと心でつながった人がけだからだ。それは家族だけなのか。では家族がいなかったら、家族に見放されたらどうするのか。そうではない。人であれば誰でも人とつながれる。里山資本主義の実践者は、そのことを実感している。
持つべきものの第2は、自然とのつながりだ。失ったつながりを取り戻すことだ。自分の身の周りに自分を生かしてくれるだけの自然の恵みがあるという実感をもつことで、お金しか頼るもののなかった人々の不安はいつの間にかぐっと軽くなっている。里山資本主義の実践は、人類が何万年も培ってきた身の回りの自然を活かす方法を、受け継ぐということなのだ。」(154頁)と。
そして本書後半部分では、里山経済を発展させる最近の条件としては、農民の高齢化に伴う耕作放棄地が増大しつつあること、さらに里山経済は、少子化をくいとめ、高齢化社会を明るいものにしていくこと等についても論ぜられる。評者はこうした議論に対して大むね賛同したいと思う。
それにしても最近にいたるまでこうした議論があまりなされてこなかったのは、一般市民の間で人類史、とくに経済史に対する関心が薄かったためではなかろうか。日本の経済史にかぎってみても、現在のような市場経済への発展傾向が一般化するようになるのは、140〜50年前からのことであり、それ以前の社会では全く今日の資本主義経済とは別のシステムの社会であった。
日本で貨幣(はじめての銅貨)の使用が開始されるのは古代貴族社会における7世紀末期の頃からであり、その後貨幣経済(あるいは市場経済)は、徐々に発展し、中世の封建社会および近世の徳川幕藩体制の末期にいたるまで拡大を続けたとはいえ、決して貨幣経済が中軸となることはなく副軸の地位を占めるにすぎなかった。すなわち、古代、中世、近世徳川時代の政治経済体制の主軸は、支配階級によって非支配階級たる奴隷や農民が支配されていたとはいえ、貨幣を使用しない共同体経済であったといえるであろう。それ故、また古代から徳川時代に至るまでの政治経済体制は、純粋な貴族社会とか純粋な封建社会といえるものではなく、部分的には市場経済を伴った混合経済体制であったといえるであろう。明治維新に至るまでは、資本も産業(あるいは工業)資本主義として成立することはなく、高利貸・商人資本として存在したにすぎなかったのもそのため(共同体経済が主軸であったため)であったといえるであろう。
評者も、前近代的な共同体経済を近代的な民主的な形態に転換して成立させることは可能であると考えている。またそれは、すでに始まっているようにも感じている。すなわち地方の農村地帯において、農業・畜産業・漁業のような食料の生産のための産業が、消費に直接結びつく生産の方式として、一定の共同体の成員の間で、自給自足、物々交換のシステムによって、貨幣を使わないか少ししか使用しない形態で配分されていくという混合経済体制の一環である。前近代的な共同体経済は人口が少なかったから可能だったのではないかとの疑問が、この見解に対してぶつけられるかもしれない。だがこうした疑問の提示に対しては、今日ではたしかに人口が増えてはいるが、過去の時代とは違って、今日の食料生産のための産業は、技術革新によって生産性が極度に上昇しており、ビニールハウス栽培や野菜工場等にみられるように、農業自身が工業化し情報産業化する傾向にあることを看過してはならない。
さて、このようにみることによって、評者は本書の著者による今後の日本経済の変革の方向についての議論に大部分は賛意を表したいと思う。ただ冒頭に述べたように本書の書名を『里山資本主義』と銘打ったことには異議を唱えたい。それは新共同体経済などとしても十分なのではないか。
最後に追加しておきたいことは、今日の安倍政権が地方創生策としてうち出していることとの関連である。こうした政策が安倍政権によってとられるのは、地方経済が停滞し地方の人口も減少し、日本のGDP成長率が低下することを恐れてのことである。本書の立場にたてば地方の人口減少が今後激化するとみるのもいささか早急との危惧がある。また本書が指摘しているように、里山経済の発展によって地方経済の成長率は高まらないとみることも全く正しい。評者は共同体経済の活性化は経済成長促進のためではなく、人間が生きていくのに必要なためであるとみているので、本書の見解に全く賛成する。市場経済の社会しかみておらず、市場経済を前提にした議論でなければ、今日の社会では通用しないかにみている安倍政権および保守派政治家の言説は、現実の成果によって打ち破られるであろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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