スミス『国富論』の「見えざる手」と『道徳感情論』の「見えざる手」
- 2010年 11月 29日
- 評論・紹介・意見
- アダム・スミス岩田昌征現代史研究会野沢敏治
第248回現代史研究会(2010年11月27日)の野沢敏治氏の講義はアダム・スミスを縦横に論じて刺激的であった。
ここでは野沢氏が『国富論』第4編第2章の「見えざる手」パラグラフを全文紹介してくれていたことを活用して、『道徳感情論』第4部第1篇の「見えざる手」を考えてみよう。マルクス経済学者馬場宏二(東大名誉教授)は、著書『マルクス経済学の活き方』(御茶の水書房、2003年)第7章「覚書『見えざる手』」の中で、『道徳感情論』の「見えざる手」と『国富論』の「見えざる手」は同じか、と問題設定し、論を展開している。
私も馬場先生にならって、両者の異同を考えてみた。
『国富論』の「見えざる手」は、今日の現代ミクロ経済学の教科書・研究書で強調される市場メカニズム論の元祖と言えよう。奥野正寛編著『ミクロ経済学』(東大出版会、2008年)は、「スミスの最大の発見が(神の)見えざる手にある……。現代のミクロ経済学でも、スミスのこの主張の正当性を検証するとともに、その限界を明らかにすることが大きな位置を占めている」(p. 6)と書く。
しかしながら、『道徳感情論』の「見えざる手」はかなり位相が異なる。関連個所(水田洋訳、下巻、岩波文庫、pp.23-24)を要約かつ引用しておこう。巨大な幻想的物欲を持つ大地主達がそのような幻想に突き動かされて、数千人の貧しい使用人の労働を用いて、広大な土地を耕作し、技術を改良し、そして、その全収穫を私物とする。これは、彼等の利己性と貪欲の成果である。しかし彼等の現実的必要は「胃の能力」によって天井があり、現幻想的物欲よりはるかに小さい。地主達の胃も貧民達の胃も大きさに大差がない。かくして、「かれらは、見えざる手に導かれて、大地がそのすべての住民のあいだで平等に分割されていたばあいに、なされただろうのとほぼ同一の、生活必需品の分配をおこなうのであり、こうして、それを意図することなく、それを知ることなしに、社会の利益をおしすすめ、種の増殖にたいする手段を提供するのである。神慮が大地を、少数の領主的な持主に分割したときに、それは、この分配において除外されていたように思われる人びとを、忘れたのでも見捨てたのでもない」(p. 24)。これでは、戦前の地主・小作関係どころか、江戸時代の領主・百姓関係さえ正当化する論理になる。市民社会の思想家アダム・スミスはどこにいったのであろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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