結果だけは変えられない
- 2014年 11月 10日
- 交流の広場
- 藤澤豊
同じ事を同じようにやって同じような結果になる。同じような結果で十分だったとき、あるいは、同じような結果になっているうちはまだよかった。競争が激化し、販売単価が下がり、同じような結果すら得がたくなって久しい。このままではジリ貧だ。ということで何か手を打たなければならないと思案する。思案はしているもののこれといった解決案というか改善案がうかばない。社内にはどうも改善しうる人材がいない。そこで、状況を打開すべく、ヘッドハンター経由かなにかで有能に見える、あるいはそう言われている人を招聘して改善をしようということになる。
招聘された人がそこそこ有能なレベルの、言ってみればサラリーマンででしかない人であれば、今まで通りのことを今まで通りのやり方に毛の生えた程度の改革で毛の生えた程度、結果が改善される可能性がある。ただし、残念ながら、この程度の改善でジリ貧に終止符をうって、成長に変えられることは希だろう。最悪の場合は、根本的な問題解決を先に延ばすことになり、後で気が付けば、よく言う茹で蛙状態だったということになりかねない。
気が付いているかどうかば別として、ジリ貧の根は深い。どこまで深いか?しばしば企業文化、その企業のありかたまで関係する。更にはその企業が根付いている社会が企業の改革を制限する可能性まである。
招聘された人が有能であれば、あるほど結果を変えるために、何をするから始まって、どのような組織で、どのような仕方をするかにまで改革を進めようとするだろう。有能な人であれば、結果を生み出したのは、何をどうするかの全プロセスであって、プロセスのどこをどのように変えれば、結果もこう変わるだろうという見通しを立てる能力を経験から身に付けている。
ところが、ここでよく問題が起きる。招聘した側がその人に求めているのは、結果を変えることであって、通常、その結果を生み出したプロセスや組織ではない。歴史を誇る企業であればあるほど、またその企業が所属する社会でその企業の存在が認められていればいるほど、仕事の仕方や組織を変更することはタブーとして拒絶される。それは企業なり社会なりの文化や根源的な存在価値とか理由に関わる部分だから変更への抵抗は大きい。
例として適切かどうか心配だが、江戸時代を想像して頂きたい。新井白石や田沼意次の改革も含め江戸時代の全ての改革は江戸幕府の封建政治体制を保つためのもの以外ではありえなかった。幕藩体制を維持する改革をいくら繰返しても、帝国主義時代に日本が独立国家として存在してゆくために必要な社会体制-中央集権国家には到達しえない。その中央集権国家をもってして始めて可能となる、幕藩体制ではなし得ようのない社会改革が必要だった。
仕事の仕方、組織、体制などなど既成の環境を変えない限り得ようのない結果の違いがある。自ら作り上げて来てきた、あるいはそこで育てられた人たちが、ましてその組織で個人的にも成功していると思っている人たちが、自社の組織、仕事の仕方、言ってみれば企業文化を誇りに思うのは当然だろう。しかし、大事にしている、誇りにしているものが、実は自らの将来の足かせになっていることに気が付かないとしたら、経営者としては失格だろう。
これは経営者だけに限ったことではない。遺産(文化と呼んだ方が言いか?)は、大事にしなきゃならない。しかし、それは硬直させることなく将来に生かして初めて遺産としての価値がある。遺産を誇りに思うあまり、それに束縛され将来への展望を自ら切り開けない者は経営者として失格だ。ましてや、結果の原因を変えることを許容せずに結果だけを改善してもらいたいなどという安易な、それも招聘した人にやらせればいいといった他力本願を絵に描いたような安易な思いや考えでは結果すら変えられない。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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