書評 山﨑正純・著『丸山眞男と文学の光景』洋々社
- 2014年 12月 19日
- カルチャー
- 書評阿部浪子
1946年、「超国家主義の論理と心理」を発表して論壇に衝撃をあたえた丸山眞男は、民主主義の啓蒙運動の一翼をになうことになった。その丸山言説をふまえつつ日本の近代文学をたんねんに検証するのは、四十代の著者、山﨑正純氏である。森鷗外、中野重治、太宰治、大江健三郎などの作品が解読される。
「夕鶴」をめぐる、その作者木下順二と丸山の対談について述べた文章が、おもしろい。木下が、歴史において否定されるものがどのように肯定されるか、追求してみたかったといえば、丸山は、個が個をみいだす出会いのかけがえのなさを評価する。つうは清い愛を求めたのに、与ひょうは、つうの千羽織で村びとたちと大金もうけして堕落していく。しかしその堕落はほかに転嫁されず、つうの責任として引きうけられているというのだ。
戦後、自由な主体となった日本国民は、自己確立の好機をむかえる。ミメーシス的な「自然の層」をいかにならし、啓蒙的理性を強く育てていくか。そんな丸山主張の一端が、著者の「夕鶴」説をとおしても、わかってくる。新鮮な解読から、この作品を再読してみたくもなった。
次に注目されたのは、中学の教科書にもでてくる、鷗外の「最後の一句」と「高瀬舟」の間にある重点移動にかんする論述だ。丸山は、政治の本質を福祉的視点と言いかえる。その視点が維持され機能しているか、作者鷗外は政治の倫理の確立という課題に挑んでいると説くのである。
さらに、戦災者の存在を戦後の空間に位置づける、中野の「冬に入る」。これに呼応するように描かれた、平林たい子の「盲中国兵」に、敵国の中国兵と日本の宮様という二つの極をめぐる二重構造を、著者は指摘する。
それぞれの作品解読を読みすすめれば、日本の歴史も思想や政治についても、その輪郭がはっきりしてくる。著者は、近代文学と近代史のクロスゾーンを、文学の領域として明確に位置づけなおすことを意図したという。文章表現がやや難解のように思われるが、この国のいま現在の、想像力の貧しい政治と、日本人の心性のありようを、考えるうえでの重要なヒントを本書は提示してもいる。
* 著者は1960年生まれ。
(「信濃毎日新聞」2008年8月3日付より転載)
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