社会理論学会第22回研究大会(講演の部)
- 2014年 12月 21日
- 催し物案内
- 社会理論学会
社会理論学会第22回研究大会(講演の部)
日時:2015年1月17日(土)13:30~16:50
会場:渋谷区笹塚区民会館3階会議室2号
〒151-0073東京都渋谷区笹塚 3-1-9
https://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/kmkaikan/km_sasazuka.html
・会場は駐車場がありませんので、自動車での来場はご遠慮ください。また、研究大会についての問い合わせは会場ではなく、学会事務局にお願いいたします。
会場費:無料
テーマ:国民国家論再考─グローバル時代の国民国家
タイムスケジュール:
13:30~13:40 開会挨拶
13:40~14:30 野尻英一氏(自治医科大学)講演
「資本の有機的構成の高度化と国民資本の行方─その倫理学的側面」
14:30~14:40 休憩
14:40~15:30 桑野弘隆氏(専修大学)講演
「国民的総動員システムの終わり?」
15:30~15:40 休憩
15:40~16:40 質疑応答
16:40~16:50 閉会挨拶
17:00~ 懇親会
・懇親会の会場は当日ご案内いたします。懇親会費は、参加者にて均等割りとさせていただきます。ご了承ください。
社会理論学会事務局
〒222-0011 神奈川県横浜市港北区菊名5-1-43 菊名KSマンション301号室 千書房気付
TEL 045-430-4530 FAX. 045-430-4533
メールアドレス edi@sensyobo.co.jp
【報告者】
野尻英一氏(自治医科大学)
【タイトル】
資本の有機的構成の高度化と国民資本の行方——その倫理学的側面
【要旨】
マルクスは『資本論』において「資本の有機的構成の高度化」を資本主義的生産の法則として指摘し、労働予備軍の必然的な生成を予見したが、この事態は今日先進国におけるプレカリアート層(新自由主義における新貧困層)として実現している。
日本をはじめとする先進国の資本は途上国に機械設備と生産管理を輸出し、高度化した有機的構成のリセットに努めるが、一方で日本企業の資本は、その利益を相当程度国内に還元することで国家の財政を支え、国内雇用や社会保障の維持に貢献している構図がある。本発表では、この構図がわれわれの生活・心理・仕事のあり方に与える影響について考える。
【報告者】
桑野弘隆氏(専修大学)
【タイトル】
国民的総動員システムの終わり?
【要旨】
本報告は、マルクス主義理論が追求してきた〈資本主義国家〉という概念を練り上げることを目的とする。
マルクス主義国家論の功績は、近代国家を〈資本主義国家〉として捉えたところにある――そしてこのことは厳密に受け取られなくてはならない。というのも、マルクス主義理論は、国家の一般論ではなく、〈資本主義〉国家を理論的に探究してきたからである。資本主義国家は、国家一般には還元し得ないような種差性をもつ。ところが、マルクス主義理論以外の国家論は、国家一般から資本主義国家論(=国民国家論)を導き出そうとしてきた。すなわちそれは、猿(国家一般)の解剖を人間(資本主義国家)の解剖に役立てるに等しい。しかしながら、猿のなかには人間へと発展するようなすべての契機が孕まれているわけではない。国家の一般論をいかに展開しようとも、資本主義国家の概念に至ることはない。なぜならば、資本主義国家は、国家と資本という異質なものどうしの出会いによって生じたからである。
国家一般について触れておく。国家(一般)の論理は、領土を支配し、人口を統治することにある。国家は、ある地域において権威と暴力を独占している存在であり、住民から強制的あるいは自発的な服従を引き出す。その結果、国家は社会的諸関係の再生産(維持保存)を担う。ところが、ウェストファリア体制の成立以後、国家は、それ自体では国家たりえない。テロリストたちが国家を自称したとしてもそれは国家とはいえない。国家は、インターステーツシステム(イマニュエル・ウォーラーステイン)において、他の諸国家によって国家として承認される限りにおいてのみ国家である。主権の至高性とは、その字面とは裏腹に、国家のあいだの相互承認によってのみ成立するのである。すなわち、国家は、国家にたいしてのみ国家である。
ひるがえって、資本主義国家は、資本と国家の出会いによって成立した。すなわち、資本によって国家が〈金融化〉されたとき、資本主義国家が成立した。資本主義国家は〈貨幣による経営体〉という位相を持つ。たとえば、資本主義国家の過渡期形態であった絶対主義国家は、借金まみれであった。国家は債務者となった。これは、国家が資本の論理によって取り憑かれたことを意味する。そして、官僚機構と軍を強化するため、国家は徴税機能を強化した。マックス・ウェーバーは、官僚組織の十全な発展には貨幣経済の十全な発展が必要であると述べているが、むしろ金融化された国家による課税の強化が、土地や労働力の商品化をも促したのだ。
資本主義国家とは、資本による剰余価値の蓄積に寄生することでその身を養っている装置であり、そのために資本蓄積の諸条件を最適化しなければならない。その極北の形態が、ネオリベラルな国家である。ネオリベラリズムにあっては、国家の金融化は一層極まり、国家もまたグローバルな金融ネットワークに組み込まれた。そのとき、権力の行使は「費用対効果」によって制限を受ける。資本の論理を無視した国家の威信や領土の論理の追求は、国家を没落させかねないからである。
さて、〈国家の金融化〉とならんで、資本主義国家の概念を構成するものとして、〈総動員による国民の(再)生産〉が挙げられる。1848年の世界革命を契機として、国家は資本主義国家へと自らを練り上げていった。労働者階級による叛乱と革命を恐れた国家は、諸階級の利害と階級闘争から自らを切り離し、資本家たちの個別利益を犠牲にしてまでも、労働者階級に妥協し(工場法や普通選挙)、内乱と革命を押さえ込んだ。つまり、19世紀のなかばから国家は、ブルジョアジーの個別階級利害よりも〈社会総資本の利害〉を優先することを知り、資本主義システムの庇護者としての自らの立ち位置を見出すようになる。しかしながら、これは国家が階級を超えた「調停者」であることをいささかも意味するものではない。資本主義国家は、搾取と収奪のシステムの永続化のために、時には調停者を装いながら階級闘争にあらゆる角度から介入することを身につけたのだ。
その画期を記した二人の政治家を挙げておこう。ルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)とベンジャミン・ディズレーリである。ルイ・ボナパルトは、すべての階級を代表すると称して皇帝へと成り上がった。そして資本主義経済の発展が、すなわち国民全体の発展であると嘯いた――アベノミクスと同じである。ディズレーリのいう新たな保守政治とは、社会の階級分裂を融和し「一つの国民」one nationを立ち上げることであった。
1848年の世界革命のあとの反革命国家は、「危険な階級」を体制へと包摂することを主要な戦略にしていた。ここから、総動員が始まったのである。総動員のための諸装置が、社会に張り巡らされていく。それらは、ルイ・アルチュセールが、〈国家のイデオロギー諸装置〉と呼んだものだ。普通選挙と政党制度、国民皆教育、労働組合――これらはまずもって国民を(再)生産する装置であることに留意すべきである。したがってまた「外国人」もつくり出さされる。ヘーゲルが「市民社会」というタームで呼んだものは、国民をその限界として持つ〈市民〉を(再)生産する諸制度の布置に他ならない。
さらに確認すべきは、国民がまずあって総動員がなされたのではないということだ。資本蓄積と戦争(すなわち富国強兵=帝国主義)への総動員が、住民を国民へと仕立て上げたのだ。総動員なくして国民はない。
そして、急いで付け加えなければならないのは、〈一つの国民〉の立ち上げは、国内における階級的な敵対および資本主義経済がもたらす諸矛盾を、国外に「輸出」することで可能になったということである。〈一つの国民〉とは、対外的な敵ならびに「われわれ=国民」を同時に作り出す帝国主義的スキーマのうえで成立したのである。かつての総力戦体制とは、国家総動員システムの極北の形態であった。なるほど、第二次大戦の終わりとともに総力戦体制は終わったのかもしれない。しかし、その後も総動員システムは存続した――たとえばフォーディズムとは、資本蓄積にたいする国民的総動員であった。
われわれは、国民国家 nation stateという言い方を好まない。なぜならば、それは国民がもともと存在するかのような錯覚をもたらし、ともすると国民が国家によって総動員を通じてつくり出されたことを忘れさせてしまうからだ。
ところで、こんにちの資本主義国家において、一つの矛盾が顕在化している。とりもなおさず、それは「費用対効果」を意識せざるをえない〈金融化された国家〉と総動員によって国民を立ち上げる〈総動員国家〉とのあいだの矛盾である。総動員は、はたして費用対効果に適うものなのか国家は自問せざるをえなくなった。資本はといえば、搾取をする者たちの選別を強化しつつある。搾取の対象にすらならず、資本から見捨てられる者たち(搾取される者はむしろ幸いであるかもしれない?)、国家によるセーフティネットからこぼれ落ちる者たち、その生の全般がもっぱら資本と国家による略奪的収奪の対象としてのみ扱われる者たちがマスとして現れつつある。ひるがえって、総動員にたいする大衆の抵抗とボイコットは、もはや統御不可能である。これは、国民的総動員の終わりという事態を意味するかもしれない。
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