後世に残したい歴史的建造物 -南三陸防災庁舎を保存へ-
- 2015年 1月 27日
- 評論・紹介・意見
- 岩垂 弘歴史
年が改まったが、明るいニュースが乏しいように思うのは私だけだろうか。そんな中で、私の気持ちを明るくさせたニュースがあった。1月8日付の朝日新聞に載った「南三陸防災庁舎、保存へ」という記事だ。「南三陸防災庁舎」とは、宮城県南三陸町の防災対策庁舎のことで、東日本大震災の遺構の一つ。一昨年来、それを保存するかどうかが問題化していたが、宮城県が町に代わって保存する方針を打ち出し、ひとまず解体を免れた。
記事によると、問題の防災対策庁舎は高さ12メートルの鉄骨3階建て。東日本大震災で高さ15・5メートルの津波を受け、津波からの避難を防災無線で呼びかけていた町職員、遠藤未希さんら町職員・住民43人が犠牲になった。
骨組みだけが残り、犠牲者を追悼する人々らが訪れていたが、地元では、「震災を思い出し、つらい」と解体を求める声がある一方で「震災被害を伝えるために残すべきだ」との声も上がっていた。そんな中、2013年9月26日に佐藤仁町長が「残すとなると、庁舎の存在が復興事業の支障になる」と述べ、解体・撤去する方針を明らかにしていた。
朝日新聞の記事によると、震災遺構の保存について話し合う宮城県有識者会議が昨年末に「防災庁舎は震災を象徴する建物で、世界的知名度も高い」として、広島市の世界遺産、原爆ドームにも劣らないと評価、県に保存を提言した。これに応えて、県は町の財政負担などを配慮し、県が町に代わって2031年まで管理する方針を固めた。町はこれを受け入れる公算が大きいという。
管理する期限の2031年は、大震災から20年にあたる。原爆ドームも当初は保存に賛否があり、原爆投下から21年後の1966年に広島市議会の決議で永久保存が決まっという経緯があった。県はこのことも考慮した、とこの記事は伝えている。
私が、歴史的な事件・事故、あるいは歴史的出来事を象徴する建造物は何としても残してほしいと切実に思うようになったのは、二つの経験による。
一つは、原爆被害に関する取材から得た「結論」である。
私は1966年から“広島詣で”、“長崎詣で”を続けている。毎年8月に、両市で平和記念式典や原水爆禁止大会が開かれるので、その取材のためだ。1994年までは全国紙の記者としての出張だったが、その後はフリーのジャーナリストとして訪問している。
被爆地・広島を象徴するものは「原爆ドーム」だ。広島県産業奨励館だった建物だが、あの日、すぐ近くで炸裂した原爆による爆風や熱線で破壊され、いまだにその無惨な姿を天空にさらしている。それを見上げられる場所に来ると、だれしも歩みを止める。想像を絶する原爆のすさまじい破壊力に圧倒され、身動きできなくなるからだ。折れ曲がった鉄骨、焼けただれた石壁やレンガ、ドーム周辺に散らばる破片を眺めていると、原爆の閃光で焼け死んだおびただしい市民の苦悶が胸に迫ってくる。
内外から広島を初めて訪れる人で、原爆ドームを訪れない人は、まずいない。いまや、原爆ドームは「世界平和」と「核兵器廃絶」を訴えるシンボルとして世界の人々の脳裏に焼き付いた存在となっている。1996年には世界遺産に登録された。
すでに述べたように、ここにに至るまでに、保存か、撤去かをめぐって市民の間で論争があった。中国新聞社編『ヒロシマ四十年 森滝日記の証言』(平凡社)には、こんな記述がある。
「原爆ドームの存廃論議が出始めたのは、広島の復興が軌道に乗った二十六年ごろ。『ヒロシマを後世に伝える貴重な証人』という保存論に対し、撤去論は『ドームを見るたびにあの日を思い出してやりきれない』という被爆者の悲痛な声だった。その後も存廃論が繰り返されるなか、ドームの損壊は進み、広島折鶴の会が街頭で募金や署名活動を始めた三十七年から、ドーム保存の世論が高まってきた」
「こうした世論に広島市もようやく腰を上げ、四十年度予算に原爆ドーム補強調査費百万円を計上、同年七月末から佐藤重夫広島大工学部教授らが調査し、同十一月『補強工事により保存可能』と報告した。この日、広島市議会が満場一致で採択した『原爆ドーム保存の要望』決議を受け、浜井信三市長は原爆記念日の八月六日、『ドーム保存のため、国内はもちろん国際的にもできるだけ多くの人々から募金を募る』と発表した」
その後、広島市は保存資金の募金を呼びかけ、6600万円が集まった。これを基に67年8月、ドーム保存工事が完工した。
私はこれまで、広島で出会った多くの市民に、原爆ドーム存廃についての意見を求めてきた。全員が、即座に答えた。「やはり、残してよかった」と。
これに対し、もう一つの被爆地・長崎は広島とは対照的な経過をたどった。
私が初めてここを訪れた時、広島の原爆ドームに匹敵する被爆建造物が見当たらず、意外に思ったことを記憶している。何かあるだろうと探してみたら、爆心地から南東へ800メートル離れた山王神社参道に「片足鳥居」があった。爆風で鳥居の半分が吹っ飛んでしまったのだ。貴重な被爆遺構と思ったが、被爆のシンボルとしては原爆ドームには到底かなわないな、というのが率直な感想だった。
長崎に被爆を象徴する建造物がなかったわけではなく、原爆ドームに匹敵する建造物があった。爆心地の東方に建っていた「浦上天主堂」だ。浦上地区のキリスト教信徒による30年もの勤労奉仕と募金によって1914年(大正3年)に完成した聖堂である。しかし、原爆で破壊され、廃墟と化した。天主堂にいた信徒30数人と司祭は即死。そればかりでない。浦上の信徒約1万2000人のうち8500人が被爆死したと言われている。
でも、廃墟となった浦上天主堂は、いまや存在しない。その間のいきさつを、長崎平和研究所編『ガイドブック ながさき』(新日本出版社)は次のように書く。
「浦上天主堂の廃墟は、広島の原爆ドームとともに、原爆の威力と悲惨さを物語る長崎の代表的な原爆遺跡として注目されていました。そして、広島の原爆ドームと同様に、これを核戦争の負の遺産、平和祈念のシンボルとして永久保存しようとする被爆者と市民たちの声は高く、市議会でも活発に討論されました。だが、破壊がすさまじく、保存が困難であるとか、天主堂の代替地が見つからないなどの理由で、1958年4月ついに全面撤去され、長崎はこの歴史的な証人を失ってしまいました」
2009年に平凡社から出版された、高瀬毅著の『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』は、浦上天主堂の廃墟が取り壊された経緯には謎が多いとして、その解明に挑んだノンフィクションだが、その中で、高瀬氏は、天主堂の保存に当初積極的だった当時の長崎市長が、米国を訪問後、「原爆の悲惨を物語る資料としては適切にあらず」と発言して、撤去方針に転換した事実を指摘し、市長の翻心の裏に、天主堂の廃墟を残すことを歓迎しなかった米国側の働きかけがあったのでは、と推論している。
ともあれ、私がこれまで長崎で出会った人たちは、みな、「天主堂の廃墟を残して置くべきだった」と嘆いた。もし、天主堂の廃墟が保存されていたら、被爆地・長崎はもっと強力な反核メッセージを世界に発信し続けることができたのでは、と思えてならない。
もう一つの経験は、私の郷里の歴史にかかわることだ。
ご存じのように、群馬県富岡市にある「富岡製糸場」が昨年6月、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により世界遺産に登録された。昨年10月、私はここを見学したが、全国からやってきた観光客でにぎわっていた。
富岡製糸場は1872年(明治5年)に明治政府が建設したわが国初の機械式製糸工場。閉鎖後も片倉工業によって維持管理され、2005年に富岡市に寄贈された。
世界遺産への登録を心の中で祝福し、併せてここを長年にわたって維持管理してきた片倉工業に敬意をいだいたが、私の心は冴えなかった。なぜなら、今後、日本の近代化を支えた製糸業の中心地は富岡市であるといった認識がなす内外に定着し、わが故郷、「糸都岡谷」はますます影が薄くなっていくのでは、との思いに襲われたからだ。
「糸都岡谷」とは長野県岡谷市のことである。ここは、明治10年代から昭和初期まで日本一の生糸産地として栄えた。製糸業で世界的企業となった片倉工業も岡谷が発祥地だ。生糸の生産量のピークは1930年(昭和5年)だが、その時の岡谷の人口は7万6000人。うち3万8000人が製糸工場従業員。工場数は214を数え、市内には製糸工場の煙突が林立していた。それに先立つ大正時代には、わが国における5大製糸のうち、四つが岡谷の製糸会社であった。まさに、岡谷こそ、日本の製糸業の中心地だったのである。
しかし、敗戦後、岡谷の製糸業は早々と転業し、今、「糸都」をしのばせるものはほとんどない。かつての繰糸場や繭倉庫など、製糸関係の建造物が次々と解体されてしまったからである。「もし、あの製糸工場群を壊さずに残していたら、絹文化の国際化を示す貴重な世界遺産として登録されていたに違いない」。私としては、まことに残念でならない。
人間の記憶は時とともに風化する。歴史を語れる証人が生き長らえれば、歴史認識の風化は防げるだろう。が、証人も人間だから、生命には限りがある。としたら、物にその役割を託す以外にない。だから、歴史の証人たり得る建造物なり遺構なりは、私たちの努力で何としても保存せねば、と思わずにはいられない。
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