「商品」と人間の可能性について(吉本隆明批判・昭和戦後史の省察と平成史、喪われた20年論)
- 2015年 2月 9日
- 交流の広場
- 武田明
《序》
いやはや、せっかく、《序》と《1》まで書き上げて、これから本題へ入ろうと思ったところで誤ってF6キーあたりに触れたなら全て消えてしまいました。
内容は覚えているので書き直そうかなと思ったけれども、導入部よりも先に、書きたいことを、《2》以降を仕上げていく事としますね。
後ほど、時間のある時に、《序》《1》を書き直してみます。
これだからパソコンは、油断がなりません。
しかし、事務的な告知の部分は、再び掲載してみます。
福島みずほと女性の政治スクールがあるようです。
第1回
日時 2015年2月17日(火)午後6時~
場所 参議院議員会館101会議室
テーマ「ピケティから考える格差社会ニッポン」
講師 竹信三恵子(和光大教授)
資料代500円
http://mizuhofukushima.blog83.fc2.com/blog-entry-2704.html
ピケティから新「資本論」体系刷新について(その3)をこの前提から開始します。
《1》「人間と社会」
人間の可能性について、共同体としての人間論を、昭和史から平成史への変移を、吉本隆明氏の60年代社会運動から大衆消費時代の迷走(衰退)を問いながら書き出していく予定でした。
【動画】知の巨人たち第5回 吉本隆明 2015_01_10
https://www.youtube.com/watch?v=Gbeg9geO-gQ
昨年末、高倉健、菅原文太氏が亡くなられ、本当の意味での昭和が終わったように感じています。
「健さん」論はステレオタイプに収斂する ―高倉健追悼―
http://chikyuza.net/archives/48953
【日刊ゲンダイ】 菅原文太さんが残した“遺言” 「日本はいま危うい局面にある」
http://chikyuza.net/archives/49209
「安倍さん、弾は一発残っとるがよ」総選挙で菅原文太さんの沖縄知事選演説を想う。投票で「市民の集団的自衛権」の行使を!
http://chikyuza.net/archives/49204
やくざを描き出す事、それは、底辺の人間、そして、裸の人間を描き出していた時代。
まだ映画にも力があり、生き生きとしていた時代、それが、括弧入りの人間となり、個人としての牢獄へと全てが、衰退期に入っていったのではないでしょうか?
「巨人の星」「あしたのジョー」の力強さ、更に、最近リメイクとして描かれた「愛と誠」の中にあった、黒澤明の「天国と地獄」的対比として、
ブルジョワ高と荒廃高、教育そのものの荒廃を真正面から描き出していたものは、まさに、高倉健、菅原文太氏が、やくざ映画の人間像の中で描き続けていたもののわかり易い語りなおしでもあったであろうし、問題意識として、かなり高いものの含蓄として、
漫画の中にさえあったと言えたものから、映画も文学も衰退していき、ただただ技巧だけのものとなっていった反省を考察しなくてはならない根底こそが、「喪われた20年」としての現代(平成年間)の様に感じているわけです。
上記の動画、知の巨人たちシリーズは、三島由紀夫氏、そして、手塚治虫氏を同シリーズとして描き出し、一応の完結としているわけですが、「肥大していても虚無は虚無だ」(テロリストのパラソル)のセリフもあり言いえて妙と言うわけです。
人間も人間関係も映画も文学も文化的な思想も衰退していった事の具体的な説明を再び、時間のある時にしたいのですが、それを飛び越えて、吉本隆明氏や三島由紀夫氏が感じていた空虚で肥大化した「大衆消費時代」の限界の分析から社会運動の基本理論である「資本論」及び、資本主義研究としての根底的人間の可能性の開示と共同性について語りたいとしていたわけです。
(まったく、最初に書いたものと別の説明で、概略的となりましたが、道筋のみ復元してみました)
映画はリメイクの中で、そして、文学や文化は、本当に衰退していっているのでしょうか?
上記に描き出された問題意識、時代性に対して、私小説的となりパーソナルなもの、それぞれの世代、そして、ギャル語的な細分化された隠語の中で、言葉さえ通じない文化となっていっていったのか?
反社会的パーソナルな牢獄をパソコン文化、携帯文化は、推し進めていったのでしょうか?
技術的には、漫画文化も高まってきているかもしれません。
しかし、社会的問題意識からするならどうでも良いこだわりに終始し「生きた対話」「人間的営為」に届かなくなっているのではないのかと言うのが精神的危機としてここでの前提となっています。
その空虚とは何か?
吉本隆明氏三島由紀夫氏が、感じたであろう虚無の克服のために、
その具体的な解決の為に
ピケティ氏の格差論から資本論の現代的刷新として時代を取り戻したいとする、そして、人間らしい対話と共同を取り戻すことがこの一文の目的となっているわけです。
《2》
〈資本論〉入門 デヴィット・ハーヴェイ 2011年9月日本語初版
マルクスの観点から「読む」
『資本論』は内容豊かで多様な次元を持ったテキストである。P017
どうやら(詩人出身である)マルクスはバルザックを徹底的に読み込んでいて、『資本論』を書き終えたらバルザックの『人間喜劇』の全面的な研究書を書く野望を抱いていたようである。P017
「その人物は、この種のアプローチを誘発したという点では、知的にはそうでないにしても政治的には愚か者であるにちがいないと私は思ったものだ。その人物とはジャック・デリダである。」P020
訳者解題(森田成也)
「日本の『資本論』解説では階級闘争の契機はほとんど重視されていない。宇野理論では階級闘争は最初から原論の外部に位置づけられている。『資本論』研究におけるこの「階級闘争嫌い」は日本の『資本論』研究に非常に特徴的なものであり、日本では「階級闘争史観」という言葉が侮蔑語として用いられているほどである。…」P509
資本論の読み方は、一様なものではない。多くの引用と文献の結晶としてあるのだけれども資本論の論理から逸脱したものも現代では、多くある様に感じています。
教条的にではなく、再び、「商品」とは何か?
それを別な道筋で更に、「概念的」ではなく、「具体的に」わかり易く語りたい欲求があるのですが、時間が必要な様に感じています。
http://davidharvey.org/reding-capital/
日本が遅れているなと思われるのは、ハーヴェイ氏が、資本論講義をインターネット上で公開しているにも関わらず、ユーチューブなどが、これだけ発達しているにも関わらず、それを、今だになしている人がいないからことです。
ハーヴェィ氏の動画に、日本語訳をつけるのでも良いのであるがそこまでも来ていないようだ。
課長島耕作の中で、島耕作が、「資本論」は最初のページで読むのを断念した。と言うセリフもあり、大衆や労働者に広く「資本論」をわかり易く広げる努力がなされていず、今だに各学習会の手作業であり続けている故に、首都圏周辺で留まっていて民主主義の担い手である日本列島の隅々にまで、経済学的知恵が行きわたらず、ピケティ氏のから遡る結果ともなっている状況を感じているわけである。
それを打開できるのか?
剰余価値ではない、商品としての価格、学習会の資料代500円とは何か?
そして、何故、漫画コミックは、300円で買えるのに、「21世紀の資本」は、6000円もするのか?
それは、ピケティ氏が、膨大な資料集めで労働を込めているからなのだろうか?
漫画雑誌が安いのと学術書が高い意味は、別の目分量による様にも思えます。
一時期、0円と言うのが流行っていたが、Wikipediaも寄付を集めてはいるが実質0円で活用できている。それは、決して、労働が関わっていないわけではないのだが、この延長上に、ちきゅう座のホームページやその拡大、更に、ユーチューブに、「資本論」講義を立ち上げる作業としては、幾らの価格となるのか?
それを具体的仕上げながら必要な人間的知恵と可能性の「投資」とは何であるのかをわかり易く仕上げる必要を感じているわけです。
しかし、それを行うにも、まずは、「資本論」が、大衆、労働者の中で、積読本とされないで、通読したのちの応用としての現代性として問いを改めていく作業となるのではないでしょうか?
ハーヴェィ氏は、『新自由主義 その歴史的展開と現代』と言う本も書いている。
それをインターネット上で調べていくと
http://mcg-j.org/step_blog/archive_7.htm
こちらのページにもたどり着くわけです。
勇ましいかつてのマルクス主義のページともなっているようです。その為の弊害もあろうし、出来るだけノンポリ的に、ちきゅう座や最初に挙げた社民党福島瑞穂さんのピケティ学習会も気を使っているのでしょう。
そのどちらが良いかはわかりません。
山本太郎氏などもかつては中核派的と批判されたり今は、小沢一郎氏と政党を組んでいたり幅を作っているからです。
しかし、資本論は、本当に意味で北朝鮮や中国、ロシアでも読まれていない状況であるのではないか?
人間の可能性、共同体の可能性として学習会もそして、ホームページもユーチューブの活用も刷新しながら衣食住以上に、
「人はパンのみにて生きるにあらず」としての「教育商品」「知恵」としての0円商品、更に、先験的段階としての人間の本質に再び、高倉健、菅原文太氏の昭和史の延長としても問いただしていく改革に着手していかねばならないと考えているわけです。
みなさん、頑張りましょう!!
学問基盤を0円で作成することは可能なのです。そして、メディアのコマーシャリズム的企業の独占性に対しての抵抗とは何かを考察して実践に結び付けていく2015年度としていかねばなりません。
ピケティ「21世紀の資本」と新「資本論」体系刷新について(その4)へ続く。
日本は、肥大していても「実」がない。その虚無を更に、分析していかねばなりません。
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