(その6)生物学的人間の生涯と環境的英才教育格差試論
- 2015年 2月 24日
- 交流の広場
- 武田明
《8》期待する再告知
2・26学術シンポジウム「マルクス研究の最前線」 -ミヒャエル・ハインリッヒとケヴィン・アンダーソンを迎えて-
http://chikyuza.net/archives/50750
《9》安倍政権、一強多弱独裁状況における今ある危機について
テント日誌2月22日…いろんな人が訪れた一日だった/撤去すべきは安倍政権と基地と原発
http://chikyuza.net/archives/51044
◆経産省前テントひろば緊急記者会見
・日時:2月23日(月)14時~15時
・場所:経産省前テントひろば前
・出席(予定):
「脱原発といのちを守る裁判」弁護団
河合弘之団長、宇都宮健児副団長、大口昭彦、一瀬敬一郎、他
経産省前テントひろば
被告 淵上太郎代表、正清太一、当事者申立人
その他
経産省前テントひろば〒100-0013東京都千代田区霞が関1ー3ー1
こちらで、観られるようです。宇都宮けんじさんは、事情により欠席とのこと。
録画ライブ 経産省テント会
http://twitcasting.tv/kefaclub1/movie/144946926
(注:途中から右翼団体の妨害が入り混乱があります)
《10の1》
安倍政府は日本を反イスラムに仕立てた
http://chikyuza.net/archives/51012
『そうした異常な政府に日本国民はなぜ支持を強めるのか?、全く理解できない。』
生物学的人間の生涯とは何か?を考えざるをえません。誰でもピアノを弾くようにも日本語よりも簡単な英語を操る事も簡単に出来るはずです。
しかし、それが、出来るような教育的平等を手に入れているとは言えない状況が今の日本の現状であると思います。
ピアノと言うのは例えで入れています。
出来るだけ、『資本論』の「商品の章」的論理学的論証を追って、「教育商品」=「衣食住以上の幸福としての価値」を概念的ではなく具体的に仕上げていきたいとするのがこのシリーズの目的となっています。
では、ピケティ「21世紀の資本」と新「資本論」体系刷新について(その6)をここから開始します。
《10の2》
生活に余裕があるなら全ての人が、ピアノが弾けるなら素敵なことだ。
しかし、その余裕はないし、ピアノだけが万人にとっての人生の目的であろうはずもないから気にもかけられていないでしょう。
ここで問題なのは、ピアノを弾きこなしモーツアルトの様に創作こなせるようになるとしたならどの様な英才教育が、何歳から開始されるのが良いと一般的に考えられているだろうかと言う事です。
それそのものが、今回の主題となっている「生物学的人間の生涯」としての教育問題の中心ではないだろうかと考えているわけです。
ピケティ氏の言う富裕層と貧困層の教育格差としても現れ、平均化した教育ではなく、昨今、日本でも天才的数学少年が話題となっていましたが、教える事の出来る人がいるならそこまで行かずともある程度まで可能だろうと言う事であり、まあ、その逆、野性少女、山に置き忘れられた少女が、狼だったかに育てられたそんな話の例もあったと思うのですが、「機会」がないのなら、それ程の格差が生じるのであり、まさに、これが、格差としての状況と考えるべき問題の出発点でしょう。
何が言いたいかと言うとよく言われている様に、「脳」の成長として、十代の成長期に学ばなくてはピアノも数学も英語もままならなかったのだろうと言う事です。
そして、その英才教育は、その本人の選択肢としてのものではなく、外部から、親からかしっかりした教育機関かによるものであり、それを、極端に考え合わせるなら、1歳からか3歳からかの英才教育的豊穣的環境からしかモーツアルトになる可能性は最初から削がれているのであることの「生物学的人間の生涯」曲線があるのだとしたなら、その階級性、富裕の子が富裕へ、貧困層の子が貧困層へとの決定が、10代までに決定もされるであろうし、その問題をどうするのかの問いを「社会主義的平等性」の中で、如何に乗り越えられるのかの問題こそが、「民主主義的知性=教育」としての地平としてのジレンマとして生じていると言う認識であると言う事です。
故に、
―>『そうした異常な政府に日本国民はなぜ支持を強めるのか?、全く理解できない。』
―>《9》安倍政権、一強多弱独裁状況における今ある危機について
具体的に、この問題の根本ではないかと僕は、考えるのです。
だが、これは、一般的に言われている様な「能力差」としての競争上のものではないし、ピアノの英才教育は極端な例であろうけれども英語力について、誰でも等しく手に入れられて然るべきでありながらそれでさえ日本においては、格差に晒されているのは何故であるのか?
この具体的問題点からも考察は進められるであろうし、実は、このピアノ以上にやる気にも、やる必要さえないとも言える語学教育にてもたついているが故に、それ以上の法学的政治学的経済学的素養ともなると更に、大部分の大衆は、絶望的に置き去りにされており、「民主主義的地平」未満に置き去りにされている《悲鳴》こそが、
具体的に、
―>『そうした異常な政府に日本国民はなぜ支持を強めるのか?全く理解できない。』
―>《9》安倍政権、一強多弱独裁状況における今ある危機について
この様な違和と独裁、メディアまで含めた独占としての状況の構造であり、これを何によって、打開していけるのかの分析を仕上げなくてはならないとより概念的な問題ではなく、具体的に横たわる問題として考えていると言うわけです。
この《悲鳴》こそが、日本の民主主義の悲鳴そのものであり、具体的最初の粗描である事に気が付かねばならない事なのです。
大部分の大衆や庶民は、民主主義から置き去りにされている事、法廷闘争や政争さえ、遠い貴族のもののようにと感じられている問題点を更に、細かく分析しなくては、実としての民主主義も実質的内容として運営されない、されていない形式だけの民主主義である、手続きだけの民主主義であると言う問題点であることを問うわけです。
大衆、庶民は、昭和的にも老齢化してもおり、疲弊化している。
平成生まれの若者は、真に、歴史や時代の問題意識を受け継ぎ、伝えられていない「狼少女」の教育、帝国=階級格差的教育の中での支配を受けているであろうと言うしかない状況です。
《11》では、どうしたら良いのか?
簡単に言うなら
「生涯教育」としての学習国家とするか、全ての国民へ無償の「大学教育」「大学院教育」までの国家とするかと言う事となろうけれども、今の高額な教育費では、ない物ねだりと言う事になりかねないが、実際は、0円でも可能であると言う「教育商品」論を体系的に明確にしたいと言う論をこれまでから展開したいとしているわけです。
また、疲弊している大衆、庶民にとっては、生活や自分の家庭だけで精一杯であり、テントに寝泊まりして抗議活動をすることそのものが、「贅沢品」と映っている相対性の問題も生じているのだと思うのです。そして、政治や法律、経済学の勉強さえ、「贅沢品」だと言う相対性の問題が、民主主義の弊害となっている根本があるのです。
しかし、戦っている方もギリギリの生活である故に戦っている、戦わざる負えないと言う「相対性」の問題として生じている事を資本主義=内「資本論」的論理体系の応用的展開から、「読みやすく」そして、誰にでもわかるものとして刷新したい欲求があると言う事です。
一気に語ると頭に入りずらいかも知れないし、休みを入れながらやっていくしかありません。
僕も出来るだけそれによって独断を排したいと注意しています。
では、今回もこの辺として、また、新しくわかりやすくをモットーに進めて行けたならと思います。
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