文献紹介 ティムール・ダダバーエフ 『記憶の中のソ連 中央アジアの人々の生きた社会主義時代』
- 2010年 12月 12日
- 評論・紹介・意見
- ソ連中央アジア書評木村英亮
文献紹介 ティムール・ダダバーエフ
『記憶の中のソ連 中央アジアの人々の生きた社会主義時代』、筑波大学出版会、2010.9、 270ページ、3800円
ソ連社会主義の歴史をロシア以外の旧ソ連構成共和国の住民がどのように考えているかについて情報が少なかった。本書はウズベキスタンについてこれに応え、19~20ページに掲載された11の質問項目について、ウズベク人を含むウズベキスタン在住のタジク人、タタール人、ロシア人ら50名に対するアンケートに基づいて執筆されたものである。
ウズベキスタンの人口は2009年2750万で中央アジア5共和国約6000万人の半分弱、CISのなかではロシア、アクライナに次ぐ。ここは70年のソ連時代、大規模な変革を遂げたが、独立後これを十分に分析し整理する機会がなかった。本書はその貴重な試みである。
まず第1章はソヴエト期の歴史の概観で、帝政ロシア統治下、ロシア革命後の中央アジアの節に続き、ソビエト体制の成立では、1924年の「民族・共和国境界画定」、29年からの農業集団化、大戦から戦後にかけての工業化、これを通しての現地民化(コレニザーツィア)、によって民族形成がおこなわれたことを略述する。
統計集によれば、ウズベク人の出生率の高さと工業化にともなうロシア人らの移住によって、人口は1926年466万人、39年644万人59年811万人70年1179万人、79年1539万人89年1981万人、2009年2750万人とこの80年で約6倍と爆発的に増加した。
こうして形成されたソヴェト・ウズベキスタンを「発展した社会主義」ととらえるか「専制的な体制」ととらえるか、一方的に断じるのではなく真相をみいださなければならない。
いまのカリモフ大統領は、1989年にウズベク共産党第一書記に就任、1年後にウズベキスタン大統領となって今日にいたっている。カリモフは、91年8月のモスクワ・クーデター事件のさいはクーデター寄りであったが、8月31日議会に独立を宣言させ、9月14日ウズべキスタン共産党を禁止、人民民主党(PDP)と改称し、つじつまをあわせた。12月9日には大統領選挙をおこなって、11月に結成された汎トルコ主義政党ビルリクを抑圧し、以後今日まで20年にわたって大統領職を維持し、独裁を続けている。独立後ロシアではエリツィン体制下で経済的崩壊が続き他の旧連邦構成共和国も同様であったが、ウズベキスタンは例外的に経済が落ち込んでいない。
第2~5章は、戦前、大戦期、戦後期にわけ、ウズベキスタン住民による評価を記す。
1920~50年代にかけて農業集団化・工業化と現地民化(コレニザーツィア)のための教育・訓練がおこなわれた。この時期には出勤や労働の質のチェックが徹底的であった。「あの時代は厳しかったけれど良い時代でもあった。皆責任感を持って仕事をしていた」(41ページ、以下「ページ」略)。 集団化は目的がよく理解されなかったようである。「土地を勝手に取り上げられて、使われているという印象を受けた。・・・あきらめた人はコルホーズのために働き、家族を養い始めた」(51)。 この地域に強制移住された一部の少数民族について、定住者との対立はあまり見られなかったが、これはイスラームの教えが影響しているとする。
第二次世界大戦は、ウズベキスタン住民にも自分たちの戦争、「大祖国戦争」と認識された。これは反乱を起こした第一次大戦との違いである。ウズベク人も兵士として戦ったが、ロシアから100以上の工場が疎開され、50以上が新設された。また、疎開してきた多くの子供たちを引き受け育てた。沢山の研究所や大学も疎開してきた。これらは戦後の建設の基礎となる。戦後この地域に抑留された日本人の仕事について、「洗練された技術のなかに、それに込められた温もりまで感じられた」(91)と評価されている。
スターリンについては、「良くないこともたくさんやってきたと思うが、国のことも考えていたと思う」(98)。際限のない権力を有していたにもかかわらず、その権力を私物化していなかった、自分たちの生活と安全を確保してくれた人物とまとめられている。
ブレジネフは安定とバランスを保ち、温厚であったが停滞をもたらし、ソ連解体のもととなった。「党員になることは、すなわち『権力を持つことと自分の子どもや孫の将来を保障する』ことだという考え方が圧倒的に強まった」(114)。1959年にウズベキスタン共産党第一書記となったシャラフ・ラシードフの評価は独立後の今日まで高い。かれは82~83年綿花生産水増し報告をソ連政府から摘発されるなかで没したが、ウズベク人はそれはウズベキスタンのためであったと考え、彼を高く評価している。
すなわち、ソ連で「停滞の時代」とされているこの時期を、経済的豊かさと社会的雰囲気のよかった「黄金時代」とみなしているのである。「生活する上で必要な物はすべてあり、家も建てることができたので満足していた」(125)。しかし、「政府も現地の役人も綿花の収穫に夢中になり、中学生から大学生までを年に3~4ケ月も畑に連れ出し、綿花を収穫させた・・・それによって彼らの学力は低下し、健康にも悪影響を及ぼした」(130)。また優秀な若者に「海外に留学させる機会を与えなかった」(130)。
第6~9章では、マハッラ(伝統的共同体)、宗教、民族と言語、独立後にあらわれたノスタルジアと、テーマに分け論じている。
歴史的な都市の行政単位マハッラ、夕食をとりながら世間話をするガブ、グザル、チャイハナ(喫茶店)、助け合いのハシャルなどについて、現在でも「公式化」がすすんでいるが、国家との関係、財政的基盤、住民の選択権などについて問題があり、将来を予測するのは困難であるとしている。
イスラムは女性の社会的進出に否定的であり、共産党は党員の宗教的行事への参加を禁止し、モスクは綿花倉庫や牛舎として使用された。しかし、伝統的な宗教を完全に否定する人は少なく、無神論教育はそれほどの魅力をもたなかった。
イスラムは、宗教的教育が家庭内でおこなわれたこと、宗教儀礼が守られていたこと、コミュニティのなかで特有な位置を占めていたことなどの特徴をもっており、「ロシア人がキリスト教の教会に行き、お祈りをすることはある程度自由だったが、私たちがモスクでお祈りをすることを共産党は許さなかった」(178)。 結婚のさい、役所で手続きを終えた後、イマームのところで結婚の手続きをする人が圧倒的に多かったようである。葬儀は結婚式より重視されていたので、それに対する制限は反感を買った。
民族・言語政策は、生活と国家政策の矛盾を大きくし、ソ連崩壊の過程でも重要な役割を果たすことになった。1938年の各共和国や郡の学校におけるロシア語教育の義務化の意味は大きかった。日常生活や仕事で母語を避けロシア語でを使用する「ルシー」が増え、一つの社会層を形成した。またそれに対する反感も生まれたが、母語を保持しながら、自分たちの能力を高めようとする人々も多かった。1966年4月の大地震後、首都タシケントは全連邦からの大規模な支援を受けて再建され、ソヴェト人意識を高めることになった。
挿入された沢山の写真を見ても、全体としてはソヴェト時代に対する肯定の印象を受ける。「当時、私は2人の子供を1人で養っていたが、まったく問題なく育てた。幼稚園は無料で、学校と大学も同じだ」(213)。 カリモフ独裁下ノ今にくらべより自由な雰囲気であったという国民の認識がある。また人々の関係が純粋で温かいものであった。「当時は、仕事に対するまじめな姿勢と責任感があった。そして、国と共産党により教育と研究に力が入れられた」(221)。「生活のルールのようなものがはっきりしていた」(222)。「ソ連のすごさは、貧乏でも明日に関して不安がなかったことである」(233)。
本書が、独立後交流が盛んになったとは言え日本にまだよく知られていない中央アジア社会主義について考える機縁となるよう期待したい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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